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まぁまずは以下の年表を見てくれ。
これは日本と新羅の外交関係の年表だ。
この年表から何を読み取ることができるだろうか?
年表を見ると7世紀末には新羅が朝貢の姿勢を見せているのに対し、8世紀半ばには臣属しなくなったことが分かるわ。つまりは献上物の名称を「調(ミツギ)」から「土毛(クニツモノ:その土地での産物のこと)」改めたことは、献上物が朝貢品ではなく、ただのお土産になったことを意味しているのね。朝廷は、新羅が朝貢の礼をとらないことに不満を抱いたので、受け取りを拒否したのだと思うわ。
うむ。日本は新羅を従属国として扱おうとしたのに対し、新羅は対等な関係を求めたことに原因があるんだね。じゃあなぜこのとき新羅は外交姿勢を転換させようとしたのだろうか?
えーっと、確か新羅と唐の関係が背景にあるのよね?朝鮮半島は新羅・百済・高句麗と分裂していたのだけど、新羅は唐と結んで百済や高句麗を滅ぼした(百済660年滅亡・高句麗668年滅亡)のよね。日本も百済の復興支援のために出兵したけど663年に白村江の戦いで敗北しているわ。ところが676年になると新羅は唐を撃退して朝鮮半島を統一しているのよね。だから新羅と唐の関係が不安定になり、日本に朝貢の儀礼をとったのだわ。
唐と新羅の間は不安定だったけれど、8世紀になると安定した関係を構築できるようになるのよね。だから新羅は日本に対して臣属する意味が薄れてくるのだわ。ゆえに!新羅を従属国として扱おうとする日本との間に緊張が生じたの。
新羅との関係が緊張したから日本は遣唐使の航路を変えていることもおさえておこう。遣唐使航路変化から新羅との関係を聞いてくる問題もあるぞ!