センター解説日本史個人用メモ。
高2の授業で「センターの解説を自分で作ろう!」をやるので、教員も自分で作った。
(ジグゾー学習。自分の担当箇所の解説を作って各班員が説明し全体の解説を作る。)
細かい知識としては【21】の佐竹義和と【31】の安井曽太郎くらいか。
巷で誤植として指摘されているのが【9】。
たまたま正文組合せ問題の判定文「c」が外れだったので出題ミスを免れることとなった。
あと【17】で「ソウル=漢城」と出てきており、世界史【30】の選択肢3が外れだと分かってしまう。
大問1 人口移動に関する会話文
リード文A 日本からの人口流出
- 【1】日本人の海外移住者数(グラフの読み取り)
- 【2】近代の日米間系(正文判定)
- 正解は選択肢2。日露戦争後の欧米では黄禍論が巻き起こり、1906年にサンフランシスコで日本人学童が入学を拒否された事件をはじめ、カリフォルニアを中心に移民排斥運動が激化した。満州情勢では、1905年にアメリカの鉄道企業家ハリマンが日本に満鉄共同経営を提案して断られると、1909年にアメリカ政府は満鉄の中立化を列国に提唱するなどして日本の南満州権益独占に反対した。こうして日米関係は急速に悪化していった。
- 選択肢1;桂・タフト協定では日本の韓国指導権とアメリカのフィリピン統治を相互に承認した。「日本が朝鮮半島から撤兵する」というのは誤り。
- 選択肢3;石井・ランシング協定では米が日本の「特殊権益」を、日が米の「門戸開放」を認め合った。1923年の九か国条約で石井・ランシング協定は破棄され、中国権益を放棄して青島は返還された。
- 選択肢4;ワシントン軍縮を思い出せれば「日本はアメリカと同量の主力艦保有」は間違いだと気づく。日露戦争後の1907年、日本は帝国国防方針により戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻を目標とする八・八艦隊の実現を目指した。1920年の原内閣では27年までに八・八艦隊を完成する案を確定した。しかし1922年のワシントン海軍軍縮条約により英米日仏伊の五か国間で主力艦の総トン数比率が5:5:3:1.67:1.67と規定されてしまう。これにより八・八艦隊計画は挫折した。さらに1930年のロンドン海軍軍縮条約では補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の総保有比率を英米日で10:10:7と決定され、主力艦の建造停止を1936年までと延長された。ワシントン海軍軍縮条約は日本側が34年12月に廃棄を通告して36年12月に失効、ロンドン海軍軍縮条約も36年1月における日本の条約からの脱退で失効した。こうして無制限建艦競争の時代に入った。
- 正解は選択肢2。日露戦争後の欧米では黄禍論が巻き起こり、1906年にサンフランシスコで日本人学童が入学を拒否された事件をはじめ、カリフォルニアを中心に移民排斥運動が激化した。満州情勢では、1905年にアメリカの鉄道企業家ハリマンが日本に満鉄共同経営を提案して断られると、1909年にアメリカ政府は満鉄の中立化を列国に提唱するなどして日本の南満州権益独占に反対した。こうして日米関係は急速に悪化していった。
リード文B 日本への人口流入
- 【4】中国僧・平安中後期の港(空欄補充)
- 正解は選択肢1.
- 空欄(ア)には鎌倉時代に北条氏の帰依をうけた中国僧が入る。「(ア)とか無学祖元ね」と言っているので、北条時頼×蘭渓道隆×建長寺のセットを思い出そう。ちなみに北条時宗×無学祖元×円覚寺のセットも覚えておこう。外れ選択肢の桂庵玄樹は室町文化の人物。肥後菊池氏の招きで隈府に孔子廟を建て、さらに島津氏の城下町鹿児島に移って『大学章句』を刊行した。薩南学派の祖でもある。
- 空欄(イ)には平安中後期に宋の商人が来航した港が入るので博多。日本は朝貢関係を避けるために正式な国交を結ばなかったが、宋の商人は博多に盛んに来航した。平清盛は宋の商人を畿内に招来するために大輪田泊を整備していることを想起できれば、選択肢「堺」は外れだと識別できる。堺が繁栄したのは15世紀後半からで勘合貿易や南蛮貿易による。
- 正解は選択肢1.
- 【5】鎌倉・室町時代の禅宗とその文化(誤文判定)
- 正解は選択肢1.濃絵は室町文化。障壁画のうち紺碧濃彩画を指し、余白を金銀地で仕立て、緑青や朱などの濃彩を用いた。狩野派画人がよく描いた。雪舟は水墨山水画の完成者。
- 選択肢2;禅宗様は宋から導入された建築様式で禅院に用いられたのが名称の由来。急傾斜の屋根、強い軒反りが特徴で細かい材木を用いて整然とした美しさを出す。円覚寺舎利殿はその代表的建築物で、細部に曲線的手法を用い、花頭窓や桟唐戸など大陸的意匠が強く、大瓶束、扇垂木なども特徴的。
- 選択肢3;村田珠光は侘び茶の創始者。足利義政の同朋衆能阿弥に師事する一方で、大徳寺の一休さんに参じて茶禅一味の精神を身に着けた。侘び茶は村田珠光から武野紹鴎を経て千利休によって完成された。
- 選択肢4;大徳寺大仙院庭園は1513年ごろの作庭。多数の石組と白砂で構成された枯山水の庭園である。上下の庭は深山幽谷から水がほとばしる様、下石の庭はゆるやかに峡谷を流れる様を示す。
- 正解は選択肢1.濃絵は室町文化。障壁画のうち紺碧濃彩画を指し、余白を金銀地で仕立て、緑青や朱などの濃彩を用いた。狩野派画人がよく描いた。雪舟は水墨山水画の完成者。
大問2 原始古代 農業と社会の変化
リード文A 獲得経済から生産経済への移行と余剰生産物の蓄積による国家の誕生
- 【8】弥生時代に普及した農具(図版資料)
- 正解は選択肢4.
- Xは竪杵であり脱穀をするのに使われた。開墾に使うのは鋤とか鍬。
- Yは石包丁であり収穫の際に穂首刈りを行った。田植えに用いるのは水田面を平たんにする「えぶり」である。
- 正解は選択肢4.
- 【9】ヤマト政権(正文組合せ)
- 正解は選択肢2.いわゆる「誤植」によって世間を騒がせることとなった有名な問題。たまたま判定文「c」が外れだったので出題ミスを免れた。センター日本史の正文組合せは判定文a,b,c,dのうち必ず「a,bどちらか」と「c,dどちらか」が正文となる。しかし選択肢の組み合わせを見てみると「a・b」「a・d」「b・c」「b・d」となっている。つまり「a・c」が正解だった場合が選択肢にないのである。たまたま判定文「c」が外れだったので答えは「a・d」となったが、あわや出題ミスとなるところだった。ちなみに選択肢2の「a・d」以外「b」が入っているので、「b」が外れだと分かれば正解が出てしまうことになる。
大問3 中世から近世初期までの政治・社会
リード文B 戦国時代の四国と長宗我部氏について
- 【16】戦国期の主なイベント(リード文空欄補充)
- 【17】朝鮮出兵(正文選択)
- 正解は選択肢1.文禄慶長の役は朝鮮では壬申・丁酉の倭乱と呼ばれる。秀吉の対外侵略に関しては、明の国力衰退に対して日本を東アジアの国際秩序の中心にしようとしただとか、大名の領土要求を大陸に向けさせるとか色々と解釈されている。
- 【18】戦国大名や豊臣政権の法や政策(誤文判定)
- 正解は選択肢4.秀吉は太閤検地を行う際にそれまでまちまちであった枡の容量を京枡に統一した。
- 選択肢1は正しい。喧嘩両成敗法は理非にかかわらず喧嘩の当事者双方を処罰すること。私闘を禁止し紛争を公議としての大名の裁定で決着させたことで、領国内の司法権を確立した。具体例としては『甲州法度之次第』や『長宗我部氏掟書』などに規定がある。
- 選択肢2は正しい。戦国大名は指出検地を行った。指出検地とは申告方式による検地。家臣である領主に支配地の面積、収入額を自己申告させるものと農民に耕作地の面積、収入額を自己申告させるものがあった。必ずしも統一した基準で行われたわけではない点で、後の太閤検地などの丈量検地と異なる。
- 選択肢3は正しい。小学生が習ういわゆる楽市楽座とかいうもの。市の閉鎖性や、特権的な販売座席である市座を廃し、商品取引の拡大・円滑化を図った。
- 正解は選択肢4.秀吉は太閤検地を行う際にそれまでまちまちであった枡の容量を京枡に統一した。
大問4 近世の政治・経済・社会
リード文A 近世の飢饉
- 【19】近世の飢饉への対応・対策について (正文判定)
- 正解は選択肢3。寛政の改革における都市政策のひとつ七分積金に関する記述。町々に町費節約を命じ、節約分の7割を積み立てさせ、新たに設けた江戸町会所によってこれを運営させて、米・金を蓄え、飢饉・災害時に困窮した貧民を救済する体制に整えた。
- 選択肢1は誤文。寛政の改革の農村政策は出稼ぎ制限・公金貸付・囲米。田旗永代売買の禁令が解かれたのは明治時代の地租改正の時。地券が地主・自作農に交付され土地所有権が確立した。
- 選択肢2は誤文。上米は農村から余った米を買い上げるのではなく、参勤交代の緩和を代償に石高1万石について100石を臨時に上納させた制度。参勤交代は主従関係を確立するため行われていたので、その緩和は将軍側からは「恥辱」と認識されたので財政再建に見通しがつくと上米の制は廃止された。
- 選択肢4は誤文。天保の飢饉の時、富裕な商人は米を買い占めて暴利をむさぼった。大坂町奉行も窮民救済策をとらず大坂の米を大量に江戸へ回送していたので大塩平八郎の乱が起こった。
- 正解は選択肢3。寛政の改革における都市政策のひとつ七分積金に関する記述。町々に町費節約を命じ、節約分の7割を積み立てさせ、新たに設けた江戸町会所によってこれを運営させて、米・金を蓄え、飢饉・災害時に困窮した貧民を救済する体制に整えた。
リード文B 天保の改革
- 【22】天保の改革(空欄補充)
- 【23】近世後期の対外問題への幕府の対応(時系列整序)
- 正解は選択肢2。
- 1792年にラクスマンが来航すると幕府は蝦夷地の海防を迫られると1798年に近藤重蔵をして択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てさせた。その外側に異国ロシアとの境界線を引く発想だった。幕府は1799年に東蝦夷地を直轄化すると1800年に八王子千人同心100人を蝦夷地に入植させ、02年に東蝦夷地を永久の直轄地として居住のアイヌ人を和人とした。
- レザノフは、ラクスマンが幕府から得た信牌を持って1804年に来航したが、冷淡な対応をされたので樺太や択捉が攻撃され銃撃戦を経験した。幕府の衝撃は大きく1807年に松前藩と蝦夷地全てを直轄化して松前奉行の支配下においた。しかし1811年のゴローウニン事件により日露関係は改善され、1821年に蝦夷地は松前藩に還付された。
- アヘン戦争は1840年〜42年。清が敗れたことが伝わると異国船打払令は緩和され薪水給与令がだされた。
- 正解は選択肢2。
第5問 明治期の立法機関
リード文 帝国議会以前の立法機関と帝国議会
- 【25】リード文空欄補充
- 正解は選択肢4。空欄(ア)は太政官の下に設置された機関と空欄(イ)は元老院が設置された根拠を答えればよい。外れ選択肢がザルなので消去法でも解けるが正攻法で解くと以下の通り。空欄(ア)は内閣制度成立までの中央官制の変遷をおさえておく必要がある=三職→太政官制→太政官制(二官八省)→太政官制(三院制)→内閣制度。このうち要求されているのは太政官制(三院制)であり、答えとなる「左院」は立法の諮問機関であり、憲法草案・刑法・治財法・商法の起草に着手した。空欄(イ)については大阪会議後に出された「漸次立憲政体樹立の詔」において、元老院・大審院を設け、地方官議会を招集して国会開設の準備を進め、「漸次二国家立憲ノ政体ヲ立」てる旨を示した。
- 【26】明治期において海外における当時の先進的な知識などを日本に導入した人物(人物と出来事の組み合わせ)
- 【27】明治期の経済(正文判定)
- 【28】鉄道(正誤組合せ・史料)
- 正解は選択肢3
- X:誤り。幹線鉄道は唯一の鉄道会社によって経営されていたのではない。史料文「北海道より九州に至る僅々二千哩にも足らぬ主要なる幹線すら尚且つ数箇の管理に分かれて居るという有様でございます」とある。主要幹線の民営鉄道17社が買収されて国有化された。
- Y:正しい。史料文中に「……軍事に経済に国家はいかなる不利を被っている居りまするか、理の見やすきことと考えます」とある。
- 正解は選択肢3