イギリス帝国護持をはかったチャーチルだが、帝国の変容と解体を目にしながら死んでいく。
♰「イギリス帝国の落日と、それを支えようとし続けてきた老政治家の落日とが、シンクロナイズしたときであった」
- この本の趣旨
- イギリス帝国の展開と解体の軌跡をチャーチルを通して考えること
- 軍人チャーチルの帝国支配肯定観
- 「戦う諸部族に平和をもたらすこと、暴力のはびこるところで公正な統治をおこなうこと、奴隷から鎖を断ち切ること、土地から豊かさを引き出すこと、商いと学びの最初の種をまくこと、彼らが楽しむ力を全体として増し、苦しみの機会を減らすこと――人間の努力を引き出すうえでこれよりも美しい理想やこれよりも貴重な報酬があるだろうか。その行為は徳に満ち、その実践は人を力づけ、その結果はしばしばきわめて有益である」
- 保守党への復帰
- 帝国の変容に対して帝国護持をはかる
- 第二次世界大戦後のチャーチル
- 保守党は野党となり、チャーチルは野党党首。鉄のカーテン演説やヨーロッパ統合を主張。チャーチルは国際政治に対し、英連邦・英帝国、英語世界、統一されたヨーロッパの3つに関わることで、イギリスの発言権を増そうとした。チャーチルにとって一番重要なのは英連邦・英帝国であった。
- 1951年の選挙で保守党が勝利。チャーチルは首相となるが十分なリーダーシップをふるうことのないまま首相の座に固執。55年4月に辞任しイーデンを後継とする。その後、2度の選挙で議席を保つが政治活動はせず。1956年スエズ戦争が勃発するが世界各国に非難されアメリカ・ソ連が批判姿勢をとるなかで、すぐに停戦。帝国主義時代には当たり前だった帝国支配の行動がまったく当たり前でなくなった時代が到来。チャーチルはエジプトに強行姿勢を見せていたが、スエズ戦争開始直前に右半身マヒ。「イギリス帝国の落日と、それを支えようとし続けてきた老政治家の落日とが、シンクロナイズしたときであった」。
- イギリス帝国解体の動きは加速し、57年にはマラヤとガーナが独立。60年代には次々とアフリカが独立し、イーデンを継いだマクミラン首相が「変化の風」を受け入れなけれなならないと演説。チャーチルは嫌悪感を示し、この風についていけないことが明確化。1965年1月にチャーチル死去。