なぜオスマン帝国は第一次世界大戦後にトルコ共和国となりえたのか?


オスマン帝国はトルコではない!オスマン帝国が再編され主権-国民国家となった姿がトルコなのである!!と、いうわけで結論をあらかじめ述べれば、ムスタファ=ケマルがオスマン帝国を倒し、国民国家トルコ共和国」を様々な政策によって創り上げていったからなのだわ。


上記のように、トルコ共和国建国期は、前半の「オスマン帝国を倒してトルコ共和国をつくる」時期と、後半の「トルコ共和国を主権-国民国家化するための様々な政策を行う」時期の二つの分けて考えると整理しやすいですよ。


じゃあ、まず前半ね。ケマルがオスマン帝国を倒すところまでを解説しなさい。


オスマン帝国第一次世界大戦の時に、どの陣営にいたかはすぐに言えますか?。そうですドイツ側の同盟国サイドにいたのです。バルカン戦争でフルボッコにされたので、3B政策をとっていたドイツに接近していたのですよね。


第一次世界大戦で同盟国側にたったオスマン帝国は、イギリスにシリアやイラクなどのアラブ地域を占領され、さらに英仏伊米軍にアナトリア南部を制圧され、そのうえギリシア軍にイズミルを征服されるのだったわね。このような中でイスタンブル政府は連合国に妥協的な態度をとっていたのだわ。


さぁ、ここでいよいよケマルの登場です。ケマルはシヴァスにおける諸州代表者会議の議長として主権・領土保全・国民議会の招集を決議。祖国解放運動を試みるのですね。1920年4月ケマルはアンカラに大国民議会を招集し新政府を樹立します。こうして二重権力状態となりアンカラ政府VSイスタンブル政府の戦いが始まったのでした。


1920年8月、イスタンブル政府は連合国とセーヴル条約を締結するわ。しかしこの条約はひどいのよ。トルコ領は連合国に分割されて3分の1程度になっていたのだわ。けれどこのひどい内容が祖国解放を煽ることとなったのね。


こうしてついにアンカラ政府は1921年8月にサカリア川の戦いでギリシャに勝利、22年にはイズミル奪回に成功します。そして22年10月にはスルタン制を廃止してイスタンブル政府を倒すことに成功したのでした。


さぁ、前半戦もいよいよラストに近づいてきたわね。1923年、連合国と新たにローザンヌ条約を結ぶことに成功するの。これは不平等条約を撤廃するものでもあり、連合国を撤退させるものだったのね。そして23年10月、正式にトルコ共和国が樹立されるのね。設問に対する答えの一つ目は、ケマル率いるアンカラ政府が祖国解放戦争に勝利してイスタンブル政府を打倒したからと言えるでしょうね。


しかし、ここで考えてほしいのはトルコ共和国を樹立したとしても、安定しているというわけではないのです。こうして新たに誕生したトルコ共和国を主権国民国家に育てていかなければならなかったのです。こうしてケマルの様々な改革が行われていくことになるのですね。


ケマルの改革のポイントは「世俗化」だわね。いままでイスラームの原理によって成り立っていた国家と社会を宗教から切り離し国民国家の創出をはかったのね。


じゃあ、まず国家の世俗化から見ていきましょう。1924年、カリフ制を廃止しました。カリフ制は国内外で擁護運動もあったのですが、結局はオスマン帝国の再現であるとして退けられ、廃止されたのですね。これにともなってイスラーム法廷やマドラサも廃止されました。そして国民主権と議会を原理とする憲法が採択されたのです。


つづいて社会の世俗化ね。


社会の世俗化は、これケマルで誰もが思い浮かぶ諸政策を挙げればOK。トルコ帽やヴェールの禁止、ヒジュラ暦にかわる西暦の採用、一夫多妻制の禁止、アラビア文字の廃止とラテン語の採用などですね。


設問の二つ目の答えとしては、宗教を原理とするイスラーム国家から国家と社会を世俗化して主権国民国家を創出したからと答えることができそうね。つまりは一つ目の答えのケマルの革命と二つ目の答えのケマルの国家と社会の世俗化をまとめていけばいいのね。


今回の元ネタです。

第一次世界大戦後のトルコ革命の指導者として、アタテュルク(ムスタファ・ケマル・パシャ)がトルコの国家と社会の近代化をめざして行った改革について、具体的に説明せよ。(30字×4行=120字)(東大1988-2-C)