なぜインド求法行路で法顕の方が玄奘よりも大変だったといわれるのか?


受験世界史ではインドに渡った中国僧シリーズ(渡印僧・求法僧)はそれはもう頻出よね。世界史選択者の皆さんは、機械的に僧侶の名前-著作物-インド王朝-ルートの組み合わせを丸暗記させられたわよね。法顕・玄奘・義浄は必須事項でテスト前に生徒たちが陸海・陸陸・海海ィィィィとか叫んでる姿をよく見たわね。


この渡印僧は出題者にとっても扱いやすいんですよね。東西交渉史とかシルクロードとかで。現在はグローバルヒストリーなんかも流行りですので、同時代史の横の流れをつかむのに人口移動はうってつけのテーマなんですね。ほれあと地理との連関も唱えられているので、大旅行家の行路図とか出題しようと思うんですよ出題者は。


あと東大ではアフガニスタン史の前近代の問題を作るのに、パミール高原から渡印僧に繋げて出題したこともあったわ。


アフガニスタン前近代史ではカイバル峠使えば、アーリヤ人の侵入やアレクサンドロス大王のインド侵入を扱えるし、アレクサンドロス大王からのバクトリアクシャーナ朝という流れも出題できます。


で、本筋に戻るけど、法顕と玄奘を比較すると「法顕の方が大変だった」とよく言われるわよね。それはなぜなのかしら?


法顕はスーパー老人シリーズなんですね。日本だと伊能忠敬とかが挙げられるけど、法顕は60過ぎてからインドへ向かい、中国にもどってきたのは80歳を過ぎてから・・・。さらに法顕はその行路が玄奘と対比されるのです。法顕の往路はタクラマカン砂漠を渡り、カラコルム山脈を越え、インダス川を渡河してインドに入ってるんですねー。



法顕といえば『仏国記』。世界史は日本史と違って史料問題をあまり見かけないけれども、『仏国記』は簡潔な名文として有名なので引用しておくわ。

沙河中多く悪鬼熱風あり、偶えば則ち皆死に、ひとりとして全き者なし。上に飛鳥無く、下に走獣無し。はるかに望み目を極めて渡るところを求め欲すれど、則ち擬するところを知るなし。ただ死人の枯骨をもって幖幟となすのみ。
【訳】
(沙河中はしばしば悪鬼、熱風が現われ、これに遇えばみな死んで、一人も無事なものはない。空には飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もいない。見渡すかぎり(の広大な砂漠で)行路を求めようとしても拠り所が無く、ただ死人の彼骨を標識とするだけである。)


一方で、玄奘は法顕とは違って、うまくシルクロード沿線を利用するのですね。玄奘は唐の許可がおりなくて密出国だったので結構たいへんじゃね?とツッコミを受けたりもしますし、『大唐西域記』だと、すげー苦難の道のりなんすけどと指摘されたりもします。


けど玄奘は高昌の国王:麹文泰(きくぶんたい)から手厚くもてなしをうけたうえで旅装を準備してもらい、さらに臣下に護送までされて西突厥に辿り着いているのだわ。しかも高昌と西突厥が婚姻関係にあったので西突厥の統葉護可汗(とうしょうごかがん)にもあついもてなしをうけるのね。そして西突厥は、ヒンドゥークシュの南のカービシー=カーブル国と親和関係にあったからヒンドゥークシュの南まで護送されていったのね。


日本シルクロード文化センターでは玄奘は政治家でもあると評しています。

玄奘三蔵は当時の国際情勢を巧みに利用することができ、各国のお布施も受けることができ、シルクロード沿線の政治権力をうまく利用していったのである。別のいい方をすれば、玄奘は、政治家であったということであろう…


以上により、法顕が高齢で過酷な行路を辿ったのに対し、玄奘シルクロードの政治権力を利用できたので、法顕の方が大変だったとされているのだわ。そして今回の元ネタよ。

パミール高原の難所をこえて、インドの求法の大旅行をした代表的中国人2名をあげ、その事跡を述べよ。(30字×3行=90字)(東大-1989-2-A)