課題追究型・課題探究型の歴史学習におけるアクチュアルな課題設定とカリキュラムの体系性について

教科書の内容をルーティン的に指導することに反論するためのメモ。思考整理用。

  • 課題追究学習・課題探究学習とアクチュアルな問題
    • 歴史学習の目的のひとつに歴史的な物の見方や考え方を育成することがある。現在とまったく繋がりを連想できない昔起こった内容をひたすら羅列的に丸暗記することが歴史教育なのではない。実際に起きている現代社会の諸事象が、歴史的にどのように発生したかを分析できることは、実際的で役に立つ。故にアクチュアルな問題(現実に当面している問題)を取り上げ、そこから時事問題→歴史的な問題設定→「なぜ」型の問いの設定→論証→結論と組み立てられれば、課題追究型・課題探求型の授業は成り立つ。そして最終的には生徒がアクチュアルな問題を自分で見つけてきて、自分で問題設定し、そしてその結論を見出すために論証していくという活動ができるようになることを目指す。
  • 課題追究学習・課題探究学習と体系的なカリキュラム〜探究学習におけるテーマ決定の恣意性〜
    • しかしこのような課題追究型・課題探究型の歴史教育は全く体系的ではない。その場、その場で五月雨式に授業を構成することとなり、断片的な知識と化してしまう。取り上げるテーマに一定の体系性が無く、教師や生徒が任意で課題設定を行うため、内容が恣意的になってしまう。
    • この問題をある程度解消するのが、内容で体系化するのではなく、身につける歴史的諸能力で体系化することである。例えば、国際バカロレアディプロマプログラムでは育成する歴史的諸能力として6つの能力を挙げている。歴史の変化の側面を分析する力、歴史の連続性を分析する力、歴史事象の原因を分析する力、その歴史事象によってどのような結果となったのかを分析する力、その歴史事象にどのような意義があるのかを分析する力、そして、その意義付けは誰のどの視点でどのような価値観で意義付けされているのかを分析する力である。
    • このようにして、歴史を通して身につける力を体系化しておき、その能力を育成するための題材としてその都度アクチュアルな課題を利用する。こうすれば、体系的な課題追究・課題探究学習を構築することはできる。
  • 教科書の網羅的な知識とアクチュアルな課題
    • だがしかし教科書内容を網羅的に教えることを重視すると非常に難しくなる。アクチュアルな課題を取り上げるとすると、絶対に扱われない内容が出てくるからだ。かつて教科書の配列どおりに授業をするよう強いられていたころ、その内容に関するアクチュアルな課題を探すのに非常に苦労したものである。で、実際に教科書全てが終わるわけもなく、途中で尻切れトンボで終了さ。学校によっては教科書配列どおりにひたすらルーティン化した授業をするように求めてくるところもあるので、原始古代中世近世近代の内容と近年のアクチュアルな課題がどのように結びつくのかを例示できれば効果が上がるのではないか。

所謂「主体的・対話的で深い学び」に関して

  • 活動型の学習と知識の陳腐化
    • 近年、ユビキタス社会により容易に情報にアクセスすることが可能となった。そのため知識を大量に蓄えることにさほど意味はなくなり、知識の活用が重視されるようになったといえる。故にALなど活動型の学習がさかんに唱えられるようになったが、それゆえに発生する問題にはどのようなものがあるか?
      • それは断片的な知識のカタマリであり全体像を俯瞰的に眺めたり、体系的な知識の中に位置づけることができないということ。その都度その都度、調べることによって知識を知ることはできても、断片的知識に終わってしまう。だからこそ教員が活動が終わった後、体系化する必要がある。
  • 活動型の学習と這い回る社会科
    • 近年、「主体的で対話的な深い学び」が唱えられ、ALなどのアクティブラーニングなどが盛んに行われている。確かに知識の活用が重視され、教員にやらされる学習ではなく生徒自身がやる学習として一定の効果はある。だがしかし結局、生徒にただ活動させているだけで体系的な知識の中に位置づけられていないという批判もある。これに関してどのように考えるか?
      • 全体のカリキュラムの中で体系的な歴史像を描いておいて、その中で活動型の学習を取り入れる。例えば、実践しているのが言語活動を取り入れ、授業を受けることで社会認識がどのように深まったかを視認化させ、それを周囲のグループでコメントしあう活動。まず最初にその内容の前提知識やイメージを書かせる。次に授業を受ける。授業を通してどのように変容したかを書く。それをグループで回し読みし批評する。
  • 教員の役割変化
    • わざわざ学校へきて授業で知識を教えることに意味はなくなる。なぜなら情報のアクセス性が容易になり、別に教員の授業をわざわざ学校で聞かなくとも、予備校講師の講義録が出回っているし、インターネットの普及によりe-learningで事足りるからである。動画共有サイトを見ればいくらでも受験対策講義を見ることができる。教員の質を安定的に確保することは難しく、また質の良い教員も摩耗する。ゆえにそのうち授業の上手い教員の授業が録画され誰もがアクセスできる動画共有サイトにUPされるようになる。
    • そうすると生徒が学校に来る意味はなくなるのではないか?また一斉授業により知識を伝達する教員など要らなくなるのではないか。その通りである。そのため学校では知識の伝達ではなく集団が集まることでしかできない学習が求められるようになってくるのである。グループ作業とかコミュニケーション能力の育成だとか。教員も教員でよくいうファシリテーター役としての立ち位置が求められる。しかし教員の専門性が要らなくなるかといえばそうではなく、逆により幅広い知識と柔軟な対応力が求められる。集団を統率する能力が必要であるのはもちろんのこと、場の流れを断ち切らないように当意即妙に答えることが求められるし、議論が止まったら流れるように問題提起できる知識量が必要となってくる。あと生徒を管理する事務能力。教員としての在り方が変わるのである。