価値注入型教育に対する懐疑性

私は社会科教育の目的を「社会認識の深化」と考えており、世界史は「世界を解釈する」方法を学ぶと捉えています。価値観は多様であって良いと思っており、価値教育に対しては懐疑的です。特定の思想信条・政治的立場を取るように仕向けるのは価値観の押し付けであり、一定の価値観を生徒に注入することを危惧しています。

ある時、社会科教員の意見交換会を評価する仕事を担当したのですが、その際に平和教育に関して、ある教員の主張に違和感を抱いたのです。その人物が述べるところを要約すると「平和教育によって戦争を起こさないことや皆が仲良くするという思考回路を生徒に持たせるようにしたい云々」というものでした。「思考回路を持たせる」とか、どうみても価値注入型の平和教育です。教員が特定の立場にたちその価値を抱くような思考回路を生徒に持たせるというのは傲慢なのではないでしょうか。しかも問題点はそれだけではありませんでした。その教員がきちんと自分の深慮のもとでその価値観を確立したならばともかく、所属している研究室の教授や学会の影響をふんだんに受けており、それこそ価値観の再生産をされているだけだったのです。

この教員は戦争を無くすことが平和教育であるという短絡的な思考を植え付けられており、それをさらに子供たちに植え付けるという負の連鎖のパーツの一部だったのです。ゆえに私はこの教員に関してあまり評価をしなかったのですが、なんと他の審査員たちはこの教員に高い評価をつけました。その根拠を聞いてみると普段から特定の価値観やイデオロギーを持っているが所以だったのです(※民衆だの差別だの人権だのから牽強付会的に権力批判につなげようとするような感じ)。これらの類型の教員は無意識的に自己の価値観を絶対だと思っており、特定のイデオロギーを是としているような雰囲気があるのですが、自分たちの価値観がホントウに絶対的な価値観なのかと自分たちで思わないものなのでしょうか。