【随時追加】コロニアルツーリズム×コンテンツツーリズム。
1932年~1945年における満洲国の小説・紀行文・体験記を分析することで、何が観光資源となっていたのかを明らかにするという。
1932年
「中村少佐慰霊の旅」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1932年3月13日・14日
- (上)「中村少佐遭難現場に、慰霊の墓標建立」
- 中村少佐の慰霊が先延ばしになっていたが、新満洲国ができるのに延ばすのは国士に対する礼ではないと、蘇鄂公府山の中村少佐虐殺現場に到着して高さ8尺もある樫の樹の墓碑を立てて帰った。
「吉会線の大動脈を行く」『朝日新聞』東京/朝刊、1932年7月7日~7月16日
- 旅行の形態:朝日新聞記者の報道旅行
- (1)「吉会線大動脈に沿うて」
- (2)「ここは朝鮮北端の……清津、雄基、羅津 何れも北鮮の大連を目ざして」
- (3)「間琿地方開発の生命線!2大鉄道 東満北鮮国境に見る風景の数々」
- (4)「日、満、露が微妙に交錯する豆満江 その流域は「東洋のバルカン」」
- (5)「銀翼下に展開する肥よくな大平野 龍井村から敦化へ」
- 飛行機からの風景解説。
- 龍井村:東満間島における四十万の我が同胞雄飛の根拠地。間島平野。30年間肥料なくても平気。粟、黍、大豆、とうもろこし。東北方面には豆満江)
- 灰漠洞:朝鮮人家屋を中心に約500~600戸の小村。江上にはおびただしいジャンク。木材が積載レル。
- 局子街(延吉市):延吉市政管備処、地方審判庁、延吉県公署などの満洲街の中枢都市
- 天圖鉄道終着駅(老頭兒溝):豊富な炭田の描写
- フルハト渓谷:天宝山、ローラ道の木材運搬トロ、鮮満の部落
- 哈爾中嶺:間島と敦化県の境、これを越えると原野
- 牡丹江:黒鉄の橋梁が赤く彩られる
- 敦化:吉敦線の終端駅、標準ゲージの車両が景気よく煙をあげる、敦化城内には日の丸の旗
- (6)「わが軍の駐屯で沿線の面目一新 好況に賑う龍井村」
- (7)「「草木もなびく」 局子街の急発展 邦人を待つ無尽の宝庫間島」
- (8)「巧妙極まる戦法で匪賊群が死の乱舞 「馬よりは少し遅い」逃げ足」
- (9)「炎熱150度の東満に不眠不休の奮闘 皇軍の行く所住民恵沢になびく」
- 匪賊討伐の様子。
- 東満の酷熱。酷寒から酷熱へ。
- 匪賊がでまくるが、局子街では劣悪な兵の環境。
- 匪賊は飛行機を恐れるが、ゲリラ相手への飛行機の利用はなかなか困難
- 住民には女子供に菓子を与えて慰撫をするなど。
- (10・完)「無限の宝庫を抱え開扉を待つ敦化県 事変直後邦人の進出目覚し<」
- 敦化県の紹介。
- これまで敦化は馬賊に蹂躙され、邦人も少なかったが、満洲事変を契機に流入が進んだ。
- 6月現在、内地人は222戸982人、朝鮮人は530戸2721人、満洲国人2500戸25000人、合計3万に垂んとする。
- 前人未開の膨大な処女地。大森林15万町耕作可能地10万町歩。
- 牡丹江上流は大湿地ながらなお開拓の見込み。
- 石炭の大鉱脈、虎、ひょう、サル、狐、兎などの動物も産物の一つ
- 将来東満を貫く新大動脈が貫通すれば、大阪-大連経由で新京に送る賃金で、遥か新京をこして公主嶺まで輸送できる。
- ただ難関は匪賊
- 気候の関係上水田は北海道樺太苗でなければだめ。
- 農耕地、林野、鉱山、金など無限の宝庫が待っている。
神尾茂「北満を一巡して」『朝日新聞』、東京/朝刊、1932年7月17日~19日、21日
「松花江の流れを下る」『朝日新聞』東京/朝刊、1932年7月22日、24日~29日
- (二)「ハルピンの憂うつ今はサラリと晴れ 白いロシア娘の足取りの軽さ」(7月22日掲載)(※引用者註:(一)の誤り。7月24日の記事に訂正あり)
- (三)「高句麗人の開いた牡丹江口の三姓市 物産集散地として輝く未来」(7月25日掲載)
- (四)「三姓は大豆の洪水 奥地は金と森林の宝庫 皇軍に市民の信頼深まる」(7月26日掲載)
- (五)「護衛兵に守られてツングース部族を訪ふ 仙境に原始的な生活振り」(7月27日掲載)
- (六)「満洲の農村も悩む 富錦で日満座談会」(7月28日掲載)
1933年
石井漠「満洲国リズム」上中下『朝日新聞』東京/朝刊、1933年7月22日~24日
- 旅行の類型:舞踏旅行
- (上) 張作霖、張学良、満洲国時代の奉天を比較し、次第に地方色が薄くなり異国情緒がなくなったと指摘。新京では都市開発が行われており勇ましい気持ちになったという。
- (中) 満洲国の首都新京は長春時代に比べて人口2倍。金儲け目的で人々が入りこみ旅館はいつも満員。変態カフェの流行も東京を凌ぐ。ハルピンに行くため北満鉄道に乗車。日本語は一切使えず、ロシア語と支那語のみ。
- (下) ハルピンには異国情緒がある。肥満したおばさんや若いロシア娘。アトランチック劇場で舞踏をやるが、趣味が低下している。本渓湖から安東に向かうが戦争気分がとれない。先駆列車の運行。大連に帰る。大都会大連は昼は暑いが衣は涼しいので助かり住んでみたい場所。
藤木九三「満蒙学術探検前記」『朝日新聞』東京/朝刊、1933年8月7日~11日
- 1.「毒蛇島の群蛇」
- 松花江上流域の沼沢地の草花、魚類
- 金州に近い大和尚山
- 旅順の離れ島「蛇島」における蛇の様子
- 大連の満蒙博物館
- 2.「万年雪を摸索」
- 7月26日。朝鮮西岸の多島海を縫って北上。
- 大黒列島 済州方面から北上する暖流 常緑広葉樹の繁茂 つばき油の産地
- 3.「黄塵の発射地」
- 7月27日。港に近い大山島周辺。
- 熱河省の砂漠の秘密、興安嶺、陰山山脈
- 砂塵の問題は地味や土地の肥沃に関係するので、産業政策を解決する重大問題
- 地質的な熱河の驚異「塩湖」
- 4.「新国家の熱意」
藤木九三「満蒙学術探検本記」『朝日新聞』東京/朝刊、1933年8月13日~21日
- (1)北票に第一触手
- (2)宝庫!北票炭坑
- 8月4日。地学班は北票炭坑。張学良が英国技師に整備させ設備はよい。 熱河第一の資源として大いに嘱望される
- 植物班は炭坑が排出する水が大凌河に通ずる沿岸に沿って採集に向かう。 小藍旗で松林の調査。
- (3)銅器の珍品発見
- 午後3時(8月5日)、調査の帰り際に熱河的な夕立にあう。
- 調査第一日における収穫の随一はスキタイ文化の銅器。 他にも新石器時代の土器や石器類を発見
- 動物班の採取は主として昆虫類。奇観の「タマコロガシ」の集団が至る所の路傍で観察
- 8月6日は北票に滞在。
- (4)雑踏の朝陽に入る
- 8月7日午前8時半出発、朝暘に向かう。
- 有名な朝陽市にそびえる二基の高塔、城門「朝暘太平門」、楼門「鳳鳴朝暘」
- 喇嘛寺の祭礼、境内の彫刻、碑文、
- (5)鳳凰山塊の植物群
- 8月8日、9日、植物班は鳳凰山塊の山中を探り、熱河の植物景観を調査。
- 熱河と言えば一般には乾燥した砂漠を連想し植物の種類も少ないように考えられるが、朝陽の調査でそのことは間違っていることが分かった。熱河の地は植林が可能。
- (6)記録に遺る動物に幾多の興味を繋ぎ
- 熱河の地は大森林におおわれていたが、漢人種の侵入とともに濫伐、荒涼たる砂漠と化した。
- 四庫全書に記されている動物が現存しているかに興味が繋がれる
- (7)大凌河の珍魚
- (8)東亜の地帯構造を解決する珍化石
- 魚貝類の化石によってこれまで懸案されていた東アジアの地帯構造が解決された。
- 朝陽滞在の4日間のうち、第1日の分頭営子、第2日目の鳳凰山脈の石炭層、第3日目と第4日目の新黄家地における化石調査。
- 新たに発見されたのが新黄家地の魚貝類の化石層。
- (9)豊富な魚類の化石 瓦代わりに使用す
- 8月12日午前8時、大凌河の源流地「凌源」に向かって出発。太平房-葉柏樹-凌源
- 8月13日、凌源着。地層学、古生物班の一行は王家店にある有名な魚類の化石採集地に向かう。
- 王家店の部落では、門や土塀に魚類の化石をそのまま瓦代わりに使用している。
- 化石地から北方三里余の地の熱水湯という温泉地。蒙古時代に栄えるが現在は浴舎は五棟。元湯の後方には蒙古文字で彫られた温泉の由来記らしい碑、小さい蒙古廟もあり。
1934年
高宮特派員「露満国境線を往く」『朝日新聞』東京/朝刊、1934年9月4日~5日
- 「聞きしに勝る露側の大防備 満洲里は今や廃墟」
- 「無気味な砲塔林立 空軍の猛練習 彼我両兵西瓜問答」
- 黒河は無防備なので露側のトーチカが砲門を開けば消し飛ぶが無防備なのを露側が無気味に思っている。そのため毎朝4時ごろ複葉の偵察機がブラゴエを中心に飛んでいる。ブラゴエでは露の軍隊が猛練習をしている。
- 東寧の国境には警戒が緩く、ロシア側の兵士とやり取りができるほど。
- ロシアでは兵士が奴隷状態に置かれているが、将校やゲ・ペ・ウは贅沢をしてそれを見せつける。
佐藤十良一「高粱の間を行く」『朝日新聞』東京/朝刊、1934年9月13日~15日、20日
- (1)「日満結婚奨励論「都会ズレ娘は、日本人には不向」」
- (2)「湖畔に晴耕雨読 鏡泊学園生の活動舞台は無限」
- 国都建設途中の新京。塵煙濛々。4~10月までしか作業ができないのでフルスピードとなり佐官や大工の供給を日本に要求している。満洲国皇帝も簡素な生活、住まい。鄭孝胥国務総理の起居もまた簡素。
- 満洲の京都と呼ばれる吉林。城内外の吉林市街は北山と松花江の間に横たわる。
- 松花江では鯉、鮒、ライ、鯰などの魚が釣れる。
- 敦化附近の太平嶺という小駅で温泉発見。敦化では冬に木材の集積地となり木材業者が内地から往来する。
- 敦化の先に鏡泊湖がある。有名な鏡泊学園が湖畔に展開される。学園の修業期間は3年で冬期は学科、それ以外が農場で各種作業に従事。卒業後は鏡泊湖畔に15町歩ずつの土地を貸与されて自作農生活に入る。
- 鏡泊湖畔は一種の遊覧地帯と化して敦化や太平嶺の温泉を経て、一大楽園区域となるという予想。
- (3)「知人を頼る食客群 日本人飽和状態の哈市」
1935年
岡見特派員「蒙古の昿野をゆく」、『朝日新聞』東京/朝刊、1935年2月27日
尾島真治「満洲朝鮮を旅して 特に宗教問題の為に」1~6『読売新聞』朝刊、1935年8月10、13、15~17日
1936年
中西伊之助「満洲新風景抄」上中下、『読売新聞』1936年6月27日、28日、7月1日
- (上)「一旗組」
- (中)「北満を流す女の性格」
- 哈爾濱の女性。筆者は北満へ行く。そこで北満に流れてくる女を見聞する。筆者の友人は哈爾濱でカフェを開業したが、そこの女性は前借システムで雇われる。三百円程度前貸しして、借金のカタに年季奉公させるのである。ある時、ナンバーワンの女給がいなくなっていたので、借金を踏み倒されたかとと尋ねると、三百円返したとのこと。なんと昨晩相手にした男が金払い良すぎたので怪しいと目をつけて酔いつぶれさせると密輸業者であり、まんまと金を得たとのこと。
- (下)「慣れている第二世」
- 北満を旅行した時のエピソード。支那では斬首などにより死体が転がっているが誰も気にしない。北満でも子供が親よりも先に死ぬと親不孝だとして死体を野や山に捨て去っておく。ある時筆者が小学校の校庭を散歩したとき、木の枝に引っかかっていたが、それは子供の死骸であった。だが、小学校の児童は誰も死骸を起因せず、喜々として遊び戯れていた。
長与善郎「満洲このごろ」『朝日新聞』、東京/朝刊、1936年7月11日,13~16日,18~26日
- 1.「ロシヤ色の減退 凋落国際都市「哈爾濱」の哀調」
- 3.「愛路の使命 満洲ために明るし」
- 鉄路左右5キロ以内にある部落はすべて愛護村で鉄路の警護の任にあたる。愛護村の指導するのが自警村。
- 自警村にしろ愛護村にしろ生活の労働の傍らでは楽な任務ではないので、慰安列車がますます慰安になる。松花江では慰安船が出る。
- 北満に必要なものの話。独身者は性病にかかるものが多いので、健康な舎宅と明るいクラブが必要であり斉斉哈爾では6分完備した。
- 4.「若さが魅力 すすむ建設工作」
- 5.「快い避暑地 嘗ては露から臨時列車」
- 札蘭屯へ。哈爾濱から9時間。興安嶺の緩いスロープを登り、成吉斯汗駅を過ぎ、雅魯河に沿って進むと到着する。
- 蒙古名物タイメン(興安鮪) その郷の特産品を賞味するのが良い
- かつて札蘭屯はロシヤ時代にリゾート、殊に避暑地として慰楽と快適な保養が得られるように整備された。そのため日曜日ごとにモスコーから臨時列車が出るほど栄えた。
- 6.「北満の涯に 嬉しく匂ふ甘い香」
- 札蘭屯の紹介。ロシアが開発した保養地。海抜300メートルで夏涼しく、冬は暖かく乾湿適度、空気清純。
- ロシアが引き揚げた後、鉄路総局の福祉科が復興に取り掛かっている。
- 現鉄路クラブ(旧東支鉄道クラブ)。大がかりな劇場を内包しており豪華。
- 現在は寂れているが興安西公署という役所があり、人口6千。露人は家作を日本商人に貸したり牛を飼ったりしている。
- 7.「侘しき死の町 廃屋つづく満洲里」
- 興安嶺の奥へ駅を登った巴林が東部線(哈爾濱-綏芬河)の一面坡と共に風光明媚な避暑地及び絶好な釣の遊興地として評判。
- 海拉爾を通り、沙漠のコロンバイルを経る。満洲里は意外に寂しというよりも廃墟。欧州線との乗り換え駅としての一国境町に過ぎない。
- 8.「悠々たる放牧 露学校に並ぶ文豪の像」
- 9.「白夜の印象 文化風染む蒙古民衆」
- 10.「黄河色の湯 軍隊景気の海拉爾」
- 海拉爾と斉斉哈爾。
- 海拉爾は軍隊景気で活気づいている。小盗児市場、旅館の風呂の濁った水
- 斉斉哈爾着。新築されたばかりの駅の大きさと駅前の自動車の数に驚く。ゴミゴミした海拉爾に比べ落ち着いている斉斉哈爾。
- 11.「『住めば都』だ 満洲農業果たして不適?」
- 北満における魚市場の様子。嫩江で釣れるというので行く。繋留場程の埠頭葫芦頭から川下の富拉爾基へ遊山の発動艇が出る。
- 平康里、蒙古人の師範学校を視察。北上の汽車に乗り黒河へ。
- 黒河へ行くには斉斉哈爾からにしても哈爾濱からにしても北安で一泊しなければならないので厄介
- 12.「茫洋たる大原 乱れ咲く夏草に芳ふ菫」
- 完「露兵士の郷愁 国境の町で日満饗宴」
- 黒竜江をモーターボートで下ったり上ったりする
- 対岸のロシア兵の様子
- 国境の街での饗宴、公開賭博場、阿片窟
- 飛行機で黒河から哈爾濱へ4時間
1937年
室生犀星「船の初旅」『朝日新聞』東京/朝刊、1937年6月2日-5日
- (一)哈爾濱までの旅行に出発。普段は和服だが洋服を新調したため、服を着るのが嫌になり神戸から大連までの船内では毛布にくるまって景色も見ずに過ごす。
- (二)大連行きの船内の食事風景。一等船客は5皿の肉と野菜を食べ、ビールと見ずを飲み、最後に果物にコーヒーを啜る。洋服のズボンの話。奉天ではとある紳士のズボンのボタンが外れていた。筆者は哈爾濱行きの急行でズボンのポケットが破れたが哈爾濱の北満ホテルでは女中が縫い上げてくれた。ボーイよりも女中のすばらしさ。
- (三)大連から新京までの鉄道の車窓風景。駱駝色の低い丸い山々が続く。人々はこれを荒野というが、筆者は美しさを感じる。新京から哈爾濱までの鉄路を警護する兵隊について。二町置きぐらいに両側に直立した兵隊が列車に背後を見せて警護する様子。
- (四)筆者は主に観光資源を消費するのではなく、現地の街港を行き阿片窟や淫売屋や小盗皃市場やナハロフカをぶらつく。朝日新聞社の通信局長の坂本静一氏の男性的な態度に筆者(室生犀星)は女性的な気分になり坂本氏に甘える。
1938年
1939年
佐藤武夫「満州の忠霊塔」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1939年8月2日~4日
1942年
坪田譲治「満州・絵ばなし」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1942年3月24日~29日、31日~4月3日
高畠達四郎「美しき満州風景」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1942年8月5日~7日
- (上)
- 北満最前線旅行。
- 三河ナラムトのカザツク部落。海拉爾から北180キロの北辺。
- 家畜の群れ。カザツクの家。屋内には冬季酷寒に対する唯一の暖房装置ペチカ。
- (中)
- 海拉爾の西南ホロンバイル高原。大規模な放牧を営む蒙古人。ポオを作って散在。燃料は牛糞。馬は蒙古地帯の下駄。
- 東満の旅は、鉄道で牡丹江に出て虎林線を北に東安を経て、最終点虎頭まで行った。
- 東安より30キロ入った南五道崗開拓団を見学。
- (下)
- 哈爾濱の近郊、太陽島。北満唯一の大水浴場であり大避暑地。5月末の日中は暑い。
- 男女が海水着を着てボートを漕ぎ、泳ぎ、釣りを楽しむ。
- レストランも趣向を凝らし、美しいロシア娘
- ウスリー河を隔てたソ連領を対岸に見る。岸より数キロのところにイマンの街。製粉工場と製材工場。