【史料】新聞報道された満洲国の紀行文・旅行記について

【随時追加】コロニアルツーリズム×コンテンツツーリズム。
1932年~1945年における満洲国の小説・紀行文・体験記を分析することで、何が観光資源となっていたのかを明らかにするという。

1932年

「中村少佐慰霊の旅」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1932年3月13日・14日

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  • (上)「中村少佐遭難現場に、慰霊の墓標建立」
    • 中村少佐の慰霊が先延ばしになっていたが、新満洲国ができるのに延ばすのは国士に対する礼ではないと、蘇鄂公府山の中村少佐虐殺現場に到着して高さ8尺もある樫の樹の墓碑を立てて帰った。
  • (下)「兵賊撃退のお礼 珍味牛1頭 蘇鄂公府の王様の歓待」
    • 墓標を立てた後の帰りに現地調査。
    • 墓標を立てた蘇鄂公府山から中村少佐が食事中に捕まった三共飯店へ行く→蘇鄂公府の王様に墓標の保護を依頼するも華安公子の屯墾軍の討伐を依頼される→華安公子で討伐→蘇鄂公府に帰着→索倫(市中いたるところに新満洲国の新五色旗)→札薩克図王府→龍索口→図什業図王府(川島芳子の姉が王妃)→突泉→洮南に帰来。

「吉会線の大動脈を行く」『朝日新聞』東京/朝刊、1932年7月7日~7月16日

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  • 旅行の形態:朝日新聞記者の報道旅行
  • (1)「吉会線大動脈に沿うて」
    • 吉会線。吉林の荒野を走り間島から北鮮にはいだそうとする日満交通の新大動脈
    • 奈良平安朝にまたがる200年間吉林一帯に雄飛した渤海国と我国の契りの固い友好コースの1000年ぶりの再現
    • 敦賀清津連絡船は従来赤字続きだったが満洲国建国により資源をねらう視察者の渡航で客が急増、物資も満洲国がパン粉の輸入先をロシアから日本へ輸入を切り替えたので、日本は輸出増となる。
    • 清津入港、北上して羅南へ。羅南は軍人街。兵匪の討伐に悩まされ、まるで蠅であると例える。
  • (2)「ここは朝鮮北端の……清津、雄基、羅津 何れも北鮮の大連を目ざして」
    • 朝鮮北端の貧弱な港に過ぎなかった清津・雄基、羅津が急旋回した極東の時局に直面し、思惑者やブローカーなどが頻りと北鮮に乱れこんでいる。
    • 清津:北鮮一の大港、日露戦役の末期我国の物資揚陸地となって初めて知られる、港湾整備に大投資が行われる。近海は沿海州に次ぐ世界屈指の漁場。
    • 雄基:露満国境。最北鮮。開港場としてはまだ未熟だが、図們東部及び図們江から大豆、雑穀、木材と本揚の海産物が吐き出される。新興都市の建設。
    • 羅津:まだ小部落が点在しているだけで港の設備はできていないが、広大な港湾が着目されており、清津と雄基をつなぐ中心となっている。
  • (3)「間琿地方開発の生命線!2大鉄道 東満北鮮国境に見る風景の数々」
    • 二つの国境鉄道。一つは「吉会線」で知られた会寧から図們西部線。もう一つは図們東部線。
    • 両線が東満から北鮮への交通路として、間琿地方をつないだ二大幹線。
    • 汽車通学の朝鮮人児童
    • 豆満江のいかだ流しが見落とせない満洲国境情景の一つ
    • 会寧から軽便3時間で上三峰。この対岸にある満洲国の開山屯に架する全延長1055フィートのモダン橋梁こそ豆満江の国際鉄橋。
    • この橋から約1町のところに天図鉄道の江岸站駅、東満の荒野が連なりにんにくのにほいがする。
  • (4)「日、満、露が微妙に交錯する豆満江 その流域は「東洋のバルカン」」
    • 豆満江は日満露の国境で「東洋のバルカン」と称され、馬賊、匪賊、兵匪の巣窟。
    • 豆満江は10月から結氷し11月~3月末頃まで砲軍でもタンクでもドシドシ渡れる。
    • ロシアからアカが渡ってきて、坑夫の中にも混じる。密輸も多く武器、穀類、酒、煙草、阿片など。
    • 日本側の漁船をゲーペーウーがよく抑留するため紛争が多い。
  • (5)「銀翼下に展開する肥よくな大平野 龍井村から敦化へ」
    • 飛行機からの風景解説。
    • 龍井村:東満間島における四十万の我が同胞雄飛の根拠地。間島平野。30年間肥料なくても平気。粟、黍、大豆、とうもろこし。東北方面には豆満江)
    • 灰漠洞:朝鮮人家屋を中心に約500~600戸の小村。江上にはおびただしいジャンク。木材が積載レル。
    • 局子街(延吉市):延吉市政管備処、地方審判庁、延吉県公署などの満洲街の中枢都市
    • 天圖鉄道終着駅(老頭兒溝):豊富な炭田の描写
    • フルハト渓谷:天宝山、ローラ道の木材運搬トロ、鮮満の部落
    • 哈爾中嶺:間島と敦化県の境、これを越えると原野
    • 牡丹江:黒鉄の橋梁が赤く彩られる
    • 敦化:吉敦線の終端駅、標準ゲージの車両が景気よく煙をあげる、敦化城内には日の丸の旗
  • (6)「わが軍の駐屯で沿線の面目一新 好況に賑う龍井村」
    • 間島。広大な丘陵の耕地。大豆、とうもろこし、粟、黍
    • 天図鉄道は間島へ殺到するお客や物資の輸送で大わらわ。
    • 殊に二大市街である龍井村と局子街(延吉)は面目一新。料亭や旅館は大騒ぎ。
    • しかし兵匪問題では憂鬱。
    • 龍井では「下市場の市」が有名。牛がずらりと並び、穀物、雑貨、野菜、乾物、飲食店の屋台が立ち並ぶ。白衣の朝鮮人と黒衣の満洲人がざわめきあう。
    • 篤志家日高丙子郎が民族融和の立場から朝鮮人教育機関を設けている。
  • (7)「「草木もなびく」 局子街の急発展 邦人を待つ無尽の宝庫間島」
    • 局子街(延吉)は龍井村から北方4里。間島における邦人発展の新たなる一大根拠地たらんとしている。
    • 局子街は満洲国人、朝鮮人計1万9千の大都会で邦人の進出も激増している。
    • 土地熱も高まり地価上昇、資源も豊富
    • 35万町歩の未墾地、180万町歩の大森林、石炭・砂金・銅・鉄などの諸鉱山など無人の宝庫
  • (8)「巧妙極まる戦法で匪賊群が死の乱舞 「馬よりは少し遅い」逃げ足」
    • 匪賊の紹介。
    • ひとえに匪賊といっても様々な種類がいる。日中は密林に潜み夜から朝にかけて略奪する。
    • 俊足驚くばかりで、峻険な山腹でも1日15里、20里は兵器で「馬よりは少し遅い」逃げ足。
    • 大刀会、紅槍会匪らは支那河南省の宗教系の匪賊(マホメット道教カトリック、仏教の熱烈な奇態な信念)
    • 残忍なのは「共匪」。アカに染まる。
    • そんな匪賊だが、最近は糧食に窮している。我が軍は繁茂期でも鉄道沿線の高粱の栽培を近似、匪賊掃討を続けている。
  • (9)「炎熱150度の東満に不眠不休の奮闘 皇軍の行く所住民恵沢になびく」
    • 匪賊討伐の様子。
    • 東満の酷熱。酷寒から酷熱へ。
    • 匪賊がでまくるが、局子街では劣悪な兵の環境。
    • 匪賊は飛行機を恐れるが、ゲリラ相手への飛行機の利用はなかなか困難
    • 住民には女子供に菓子を与えて慰撫をするなど。
  • (10・完)「無限の宝庫を抱え開扉を待つ敦化県 事変直後邦人の進出目覚し<」
    • 敦化県の紹介。
    • これまで敦化は馬賊に蹂躙され、邦人も少なかったが、満洲事変を契機に流入が進んだ。
    • 6月現在、内地人は222戸982人、朝鮮人は530戸2721人、満洲国人2500戸25000人、合計3万に垂んとする。
    • 前人未開の膨大な処女地。大森林15万町耕作可能地10万町歩。
    • 牡丹江上流は大湿地ながらなお開拓の見込み。
    • 石炭の大鉱脈、虎、ひょう、サル、狐、兎などの動物も産物の一つ
    • 将来東満を貫く新大動脈が貫通すれば、大阪-大連経由で新京に送る賃金で、遥か新京をこして公主嶺まで輸送できる。
    • ただ難関は匪賊
    • 気候の関係上水田は北海道樺太苗でなければだめ。
    • 農耕地、林野、鉱山、金など無限の宝庫が待っている。

神尾茂「北満を一巡して」『朝日新聞』、東京/朝刊、1932年7月17日~19日、21日

  • 【一】
    • ハルピンやチチハルで薄らぐ匪賊の脅威
    • 10年前に比べてハルピンが衰退。キタイスカヤ街、傳家旬のショウ・ウインドウ
    • 吉林ではさらに匪賊は落ち着いている。
    • チチハル土地開発の様子
  • 【二】
    • 満洲集団移民についての一考察
    • 匪賊討伐に関する一考察
  • 【三】
    • 満洲の四頭政治批判(軍、領事館、関東庁、満鉄)
    • 日本の満洲国承認と支援の必要性
  • 【完】
    • 関東軍満洲統一案への批判
    • 奉天軍閥を一掃したのは日本だが、独立国の建設は満洲における住民の発願によるもの。支那自体の自壊によるもの。
    • 援助はしても、内面的に行い、満洲国の独立性を破壊してはいけない。

松花江の流れを下る」『朝日新聞』東京/朝刊、1932年7月22日、24日~29日

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  • (二)「ハルピンの憂うつ今はサラリと晴れ 白いロシア娘の足取りの軽さ」(7月22日掲載)(※引用者註:(一)の誤り。7月24日の記事に訂正あり)
    • 松花江の認識を深めることが目的。鉄路に恵まれない北満の唯一の交通の大動脈が松花江
    • ハルピンで赤系露人が威張っていたが影が薄くなり、侮辱されていた白系露人の憂鬱が晴れた。
    • 満洲事変後、キタイスカヤをのびのびと歩けるようになった白いロシア人の足取りの軽さ
    • 松花江の江岸における匪賊討伐に活躍する満洲国海軍。江防艦隊。
  • (二)「焼野ヶ原の通河所々に翻る日章旗 北極星が頭上高く輝いてゐる」(7月24日掲載)
    • 大豆輸送に利用される松花江松花江からハルピンに海運輸送し、ハルピンから大連へ鉄道輸送し、海外に輸出される。
    • 軍艦江清号で通河へ。通河は黒竜江省における松花江河岸一の都市だが匪賊との戦いで焼け野原となった。
  • (三)「高句麗人の開いた牡丹江口の三姓市 物産集散地として輝く未来」(7月25日掲載)
    • 老翁嶺、青山嶺の森林がイカダに組まれて松花江で輸送する。
    • 三姓で牡丹江が松花江に注ぐ。三姓は高句麗人が牡丹江を下って開いた町。東北満洲の物資集散地としての重要都市
    • 松花江の輸送は露人が暗躍し、黒竜江-ハバロフスク-ウラジオor陸路欧州のルートで搬出していた。
    • 松花江は凍るので、三姓-海林-雄基、羅津、清津等に達する最短コースの出現を渇望されている。
  • (四)「三姓は大豆の洪水 奥地は金と森林の宝庫 皇軍に市民の信頼深まる」(7月26日掲載)
    • 大豆であふれかえる三姓。そこで働く苦力
    • 三姓附近では、大豆の他に小麦。朝鮮人による稲作。牡丹江流域の林業。牡丹江の鯉。三姓、佳木斯、富錦一帯の背後地および対岸黒竜江側に秘められた砂金
  • (五)「護衛兵に守られてツングース部族を訪ふ 仙境に原始的な生活振り」(7月27日掲載)
    • 蓮江口、石炭のみの輸出港。鶴立崗炭坑から軽便鉄道で結ばれる。
    • 五桐金山
    • 佳木斯は三姓と富錦の間にある純然たる商港。人口は三姓、富錦に劣るが貿易額は両市を凌ぐ。大豆、小麦の輸出
    • 哈爾庫馬(ハルコマ)。ツングースの子孫が原始生活を送る。丸木舟の漁業、小麦、野菜類の栽培。
  • (六)「満洲の農村も悩む 富錦で日満座談会」(7月28日掲載)
    • 富錦。ツングースの酋長が開いた町で永く一寒村だったが数年来で急速に発展し人口は三姓を凌ぐ。交通の要衝だが、何も見るべきものがなく辺境に開けた町
    • 満洲国との座談会。農民に支援をしないと兵匪化してしまう。
  • (完)「邦人を待つ沿岸各地 水運は全部邦人の手に」(7月29日掲載)

1933年

石井漠「満洲国リズム」上中下『朝日新聞』東京/朝刊、1933年7月22日~24日

  • 旅行の類型:舞踏旅行
  • (上) 張作霖、張学良、満洲国時代の奉天を比較し、次第に地方色が薄くなり異国情緒がなくなったと指摘。新京では都市開発が行われており勇ましい気持ちになったという。
  • (中) 満洲国の首都新京は長春時代に比べて人口2倍。金儲け目的で人々が入りこみ旅館はいつも満員。変態カフェの流行も東京を凌ぐ。ハルピンに行くため北満鉄道に乗車。日本語は一切使えず、ロシア語と支那語のみ。
  • (下) ハルピンには異国情緒がある。肥満したおばさんや若いロシア娘。アトランチック劇場で舞踏をやるが、趣味が低下している。本渓湖から安東に向かうが戦争気分がとれない。先駆列車の運行。大連に帰る。大都会大連は昼は暑いが衣は涼しいので助かり住んでみたい場所。

藤木九三「満蒙学術探検前記」『朝日新聞』東京/朝刊、1933年8月7日~11日

  • 1.「毒蛇島の群蛇」
    • 松花江上流域の沼沢地の草花、魚類
    • 金州に近い大和尚山
    • 旅順の離れ島「蛇島」における蛇の様子
    • 大連の満蒙博物館
  • 2.「万年雪を摸索」
    • 7月26日。朝鮮西岸の多島海を縫って北上。
    • 大黒列島 済州方面から北上する暖流 常緑広葉樹の繁茂 つばき油の産地
  • 3.「黄塵の発射地」
    • 7月27日。港に近い大山島周辺。
    • 熱河省の砂漠の秘密、興安嶺、陰山山脈
    • 砂塵の問題は地味や土地の肥沃に関係するので、産業政策を解決する重大問題
    • 地質的な熱河の驚異「塩湖」
  • 4.「新国家の熱意」
    • 7月31日、新京着。 二大中心地 大同広場、順天広場
    • 関東軍司令部、大使館、国務院
    • 鄭総理の挨拶 学術調査により文化的基礎が強固に建設される
    • 熱河省における植林事業の構想について
  • 5.「日満国旗進む」
    • 8月2日、学術調査団の結団式。長春神社の社前で行われる。
    • 新京において溥儀執政と会見
    • 入京中の熱河省長張海鵬氏を訪問

藤木九三「満蒙学術探検本記」『朝日新聞』東京/朝刊、1933年8月13日~21日

  • (1)北票に第一触手
    • 8月4日、午前7時、錦州発の北票行列車 錦州から奉山線の支線 もともと北票炭坑の石炭積み出しを主とした 昨今は朝陽線の工事のため貨物車が主
    • 義州 奉天省熱河省との境界をなす駅 
    • 口北営子駅 内蒙熱河の一主要駅 苦力の建国風景
    • 駱駝営子駅 蒙古情趣をしのばせる駅
    • 午後12時30分、北票着。
    • 翌5日午前9時北票駅集合、地学、動物、植物、人類の各部門に分かれて科学の戦線を展開。
  • (2)宝庫!北票炭坑
    • 8月4日。地学班は北票炭坑。張学良が英国技師に整備させ設備はよい。 熱河第一の資源として大いに嘱望される
    • 植物班は炭坑が排出する水が大凌河に通ずる沿岸に沿って採集に向かう。 小藍旗で松林の調査。
  • (3)銅器の珍品発見
    • 午後3時(8月5日)、調査の帰り際に熱河的な夕立にあう。
    • 調査第一日における収穫の随一はスキタイ文化の銅器。 他にも新石器時代の土器や石器類を発見
    • 動物班の採取は主として昆虫類。奇観の「タマコロガシ」の集団が至る所の路傍で観察
    • 8月6日は北票に滞在。
  • (4)雑踏の朝陽に入る
    • 8月7日午前8時半出発、朝暘に向かう。
    • 有名な朝陽市にそびえる二基の高塔、城門「朝暘太平門」、楼門「鳳鳴朝暘」
    • 喇嘛寺の祭礼、境内の彫刻、碑文、
  • (5)鳳凰山塊の植物群
    • 8月8日、9日、植物班は鳳凰山塊の山中を探り、熱河の植物景観を調査。
    • 熱河と言えば一般には乾燥した砂漠を連想し植物の種類も少ないように考えられるが、朝陽の調査でそのことは間違っていることが分かった。熱河の地は植林が可能。
  • (6)記録に遺る動物に幾多の興味を繋ぎ
    • 熱河の地は大森林におおわれていたが、漢人種の侵入とともに濫伐、荒涼たる砂漠と化した。
    • 四庫全書に記されている動物が現存しているかに興味が繋がれる
  • (7)大凌河の珍魚
    • 8月8日、9日の動物班の調査。大凌河の魚類について
    • 珍魚「ドジョウ・カマツカ」。従来、揚子江、白河、黒竜江、朝鮮の漢江以外では知られていなかったが、熱河の朝陽で捕獲しえたことは学術上の大発見
  • (8)東亜の地帯構造を解決する珍化石
    • 魚貝類の化石によってこれまで懸案されていた東アジアの地帯構造が解決された。
    • 朝陽滞在の4日間のうち、第1日の分頭営子、第2日目の鳳凰山脈の石炭層、第3日目と第4日目の新黄家地における化石調査。
    • 新たに発見されたのが新黄家地の魚貝類の化石層。
  • (9)豊富な魚類の化石 瓦代わりに使用す
    • 8月12日午前8時、大凌河の源流地「凌源」に向かって出発。太平房-葉柏樹-凌源
    • 8月13日、凌源着。地層学、古生物班の一行は王家店にある有名な魚類の化石採集地に向かう。
    • 王家店の部落では、門や土塀に魚類の化石をそのまま瓦代わりに使用している。
    • 化石地から北方三里余の地の熱水湯という温泉地。蒙古時代に栄えるが現在は浴舎は五棟。元湯の後方には蒙古文字で彫られた温泉の由来記らしい碑、小さい蒙古廟もあり。

藤木久三「満蒙学術調査団だより」『朝日新聞』東京/朝刊、1933年8月25日~29日,31日~9月2日

  • 【一】「山岳景観の絶勝」(※引用者註:連載第1回のみ「満蒙学術調査団だより」ではなく「満蒙学術探検本記」となっている)
    • 8月15日凌源を出発し、熱河の首都承徳に入るまでの経路。
    • トラック移動による山中の踏破が記されている。
  • 【二】「天下の秘密 承徳離宮
    • 承徳府は「熱河の京都」清朝歴代の離宮を中心とする風光明媚な都市
    • 祭礼で支那劇を見る
    • 承徳離宮は自然の景勝と人工の妙を加味した点で東洋に類も少ない秘園
  • 【三】「八大伽藍の豪奢」
    • 有名な八大伽藍として知られた喇嘛寺を視察。
    • 離宮東北の「大佛寺」、西方窪地の「行宮須迷福壽」、総本山の「須迷福壽」、「羅漢寺」、「伊犂廟」、「暜陀羅廟」、「珠像寺」、「札汁倫布」
    • ルンペン僧、らくだ隊のキャラバン
  • 【四】「壮快極まる鹿狩り」
    • 8月19日から21日まで周囲16支里の山荘内の動植物の採集を開始
    • 秘密園承徳離宮の学術的解剖を行う。二百数十年間自然のまま放置されていた。
    • 離宮の鹿狩り。離宮の鹿の特徴は烏秋との共存共栄で、鹿の背中に寄生するはえの幼虫を食べてもらっている。
  • 【五】「離宮苑の珍鳥奇魚」
    • 承徳離宮の動物たちの紹介
    • 鳥ではカササギ、魚では河鰊、たらが特に言及される。
  • 【六】「水生植物の一奇跡」
    • 植物の紹介。陸生植物としては、北票以来、朝陽、凌源の各地で見られた北支那系の植物景観をひとまとめした観
    • 離宮内の特徴としては水生生物が繁茂していたこと
    • 苑内随一の収穫品は「文字摺り」(俗に「ねぢ花」)
  • 【七】「熱河第一の高峰 五龍山の探査へ」
    • 承徳の離宮内調査を終え7月22日から五龍山へ
    • 五龍三のそばだつ興隆県の地域は、従来河北省の飛び地として中華民国に属していた。満洲事変後、万里の長城を境界とすることとなったので、新たに満洲国の領域となった。
    • 民国が飛び地として長城外の飛び地として河北省に編入していたのは、資源が豊富だからと言われている。
    • 五龍山を調査するまえに航空機から観測し事前資料とする
  • 【八】「大森林は今はハゲ山」
    • 飛行機からの烏丹城方面の調査
    • 承徳盆地-平頂山-毛金嶺-老哈河-赤峰
    • 過去の大森林も今は耕され農地や牧地と化している

1934年

高宮特派員「露満国境線を往く」『朝日新聞』東京/朝刊、1934年9月4日~5日

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  • 「聞きしに勝る露側の大防備 満洲里は今や廃墟」
    • 満洲里、大黒河、ポクラニチナヤ、東寧等の露満国境を視察。
    • 満洲里の国境線は草原の中に割石をピラミッド型に高さ一条ばかりに積み重ねたものを諸所に置いてあるだけ。日本の防備は手薄。ロシアは高地に監視所を並べ鉄条網をめぐらし大きな軍隊を持つ。たびたび露軍が手を出してくるので満洲里の人口は激減、廃屋が連なる。
    • 大黒河の国境線はアムール河を境にしているため容易には渡れない。黒河の対岸はブラゴエ。二つの町は昔から貿易地であり満洲国側では砂金とアヘンが出るので賭博が盛んだったが露側の封鎖で貿易は停止した。黒河は住民が四散していたが満洲国の恩恵で復活のきざし。ブラゴエは大半は兵舎で幾重のトーチカがある。
  • 「無気味な砲塔林立 空軍の猛練習 彼我両兵西瓜問答」
    • 黒河は無防備なので露側のトーチカが砲門を開けば消し飛ぶが無防備なのを露側が無気味に思っている。そのため毎朝4時ごろ複葉の偵察機がブラゴエを中心に飛んでいる。ブラゴエでは露の軍隊が猛練習をしている。
    • 東寧の国境には警戒が緩く、ロシア側の兵士とやり取りができるほど。
    • ロシアでは兵士が奴隷状態に置かれているが、将校やゲ・ペ・ウは贅沢をしてそれを見せつける。

佐藤十良一「高粱の間を行く」『朝日新聞』東京/朝刊、1934年9月13日~15日、20日

  • (1)「日満結婚奨励論「都会ズレ娘は、日本人には不向」」
    • 満洲の田舎の良家に育った娘は体格が良く純朴であるので日本式訓練を施すと良い奥さんになる。日満結婚の将来は両国の関係に良い。だが最近の流行では満洲娘がノーストッキングで満洲服の下半身のホックを止めず太股をあらわにしてのしまわる。
    • 奉天の北大営の張学良の兵営跡に日本国民高等学校なる農民塾ができている。農場で野菜を栽培し、奉天城内の市場に運ぶ。満洲国の繁栄には農民塾のような人たちが奥地へ進出していくことでなしえる。
    • 百貨店の最高頂からの俯瞰。渾川岸の新築家屋。渾川のライ魚はうまい。
  • (2)「湖畔に晴耕雨読 鏡泊学園生の活動舞台は無限」
    • 国都建設途中の新京。塵煙濛々。4~10月までしか作業ができないのでフルスピードとなり佐官や大工の供給を日本に要求している。満洲国皇帝も簡素な生活、住まい。鄭孝胥国務総理の起居もまた簡素。
    • 満洲の京都と呼ばれる吉林。城内外の吉林市街は北山と松花江の間に横たわる。
    • 松花江では鯉、鮒、ライ、鯰などの魚が釣れる。
    • 敦化附近の太平嶺という小駅で温泉発見。敦化では冬に木材の集積地となり木材業者が内地から往来する。
    • 敦化の先に鏡泊湖がある。有名な鏡泊学園が湖畔に展開される。学園の修業期間は3年で冬期は学科、それ以外が農場で各種作業に従事。卒業後は鏡泊湖畔に15町歩ずつの土地を貸与されて自作農生活に入る。
    • 鏡泊湖畔は一種の遊覧地帯と化して敦化や太平嶺の温泉を経て、一大楽園区域となるという予想。
  • (3)「知人を頼る食客群 日本人飽和状態の哈市」
    • 北鉄のロシア人車掌の様子。赤ちゃけたウォッカ顔。
    • ハルピンの様子。全盛を極めるキャバレー・ファンタージヤ。
    • 日本商品の進出。ユダヤ人経営のハルピンの百貨店でも日本商品で満たされている。
    • ハルピン馬家溝の大きな飛行場からチチハルへ。松花江の氾濫の様子。
    • ハルピン-チチハル間の空路からは、満溝と安達の二つの市街が点在するだけで後は農地。
  • (完)「北満に日本語熱 日本人の商売は共食い式」
    • チチハル黒竜江省の首都。馬占山時代の日本人は惨めだったが、今は大手を振って歩ける。チチハルでは日本語熱が盛ん。望みは将来にかかっている。
    • チチハルから四洮鉄道で洮南へ。洮南は泥土の市街。木材が払底しているため、燃料は枯草。満鉄公署や近代的建築がボツボツでき始めてきている。

高宮特派員「露満国境ところどころ」『朝日新聞』東京/朝刊 1934年9月26日~30日

  • 〔1〕「極東軍備成れども人の和なき露国」
    • 満洲里ではソ連側が国境監視哨がいくつもあり鉄条網や電信電話線があるが、満洲国側は監視哨も少なくしかも1監視哨に1人か2人。
    • 満洲里の市街は荒らされており「死の都」
    • 戦争に過敏な国境人の心理
  • 〔2〕「匪賊道(?)退廃を浩歎する頭目
    • 吉林奉天の匪賊事情。頭目に渡りをつけて襲われないようにする工夫。日本人が匪賊相手に武器弾薬の商売をする悪例など。
  • 〔3〕「赤露を呪ふ復讐心命懸で慕う隣国」
    • 三河地方、白系ロシア人5000人。ロシア領から逃げ出してくる脱走兵。ゲ・ペ・ウへの反抗。露に密偵にされた蒙古人が満洲国側に寝返り。
  • 〔4〕「祖国愛を胸に―国境の日系官吏」
    • 満洲事変以前は旧東北政権の排日により満鉄附属地以外で日本人が事業をなすことは難しかった。しかし事変後、日本人及び日本の投資を歓迎するようになったので一攫千金を夢見る連中や利権屋が押し寄せるようになった。
    • 国境付近では資本が投下されない。料理屋、旅館、陸軍の御用商人、雑貨店などに過ぎない。
    • 満洲里の荒廃。北鉄交渉、掃匪工作、交通網の完成が人及び資本投下の条件
    • 人と資本の誘致のためには、実質上在満諸機関を指導しあらゆる方面に最高権威を持っている陸軍が注意を払うことが必要。
  • 〔5〕「儚き栄華のあと 衰亡の蒙古民族」
    • 蒙古人の紹介記事。満洲里の国境近くに成吉斯汗塁址があり、蒙古人全盛期を偲ばせる。
    • 蒙古人は混血が進み純粋の蒙古人は少なく衛生思想がないので性病にかかり子供が少ない。
    • 蒙古人の馬術、蒙古犬、羊の品種改良。
    • 心ある日本人はコロンバイルで牧畜を営むとよい。

1935年

岡見特派員「蒙古の昿野をゆく」、『朝日新聞』東京/朝刊、1935年2月27日

  • 「夕日に映ゆるラマ僧の緋の衣」
    • 内蒙古へ。玄関口の洮南を経て突泉へ。突泉県全人口蒙古人を主として約7万。突泉城には7千、その間日本人は5世帯9人。
    • 蒙古人、牧畜で羊を飼う。
    • 突泉を出て興安南省図什業図王府へ。王府内の巡覧。ラマ廟の見学。

尾島真治「満洲朝鮮を旅して 特に宗教問題の為に」1~6『読売新聞』朝刊、1935年8月10、13、15~17日

  • 旅行の類型:宗教旅行
  • キリスト教徒の尾島氏が満鮮のキリスト教事情を報告する。東京から大連に行き、満洲を回ってから朝鮮に下るルートをとる。満洲に関しては、連載第二回において、大連、撫順、奉天、新京のキリスト教事情が紹介されている。

田中貢太郎満洲国漫歩記」1~3『読売新聞』朝刊、1935年10月1日~3日

  • 旅行の類型:文学旅行
  • 聊斎志異』の蒲松齢の子孫と文学的な解釈を題材に話し合ったりや孔子の子孫と会ったりする。

正宗白鳥「新京一瞥」『読売新聞』夕刊、1935年10月26日

  • 旅行の類型:立ち寄り観光
  • 北支に船で行くはずが船が満員であったので、朝鮮経由で陸路鉄道で目指すが、乗り換え駅の奉天に惹かれて途中下車。北稜、東陵、千代田公園に感銘を廻り奉天を古代と現代が交錯して生存を争っていると評価。新京にも足を延ばし、特急アジア号で北へ向かう。車内の美しい女の群れ、赤い夕陽の満洲、満員のホテルの様子。新設されたカフェなどは内地の模倣であるが北国の魅力がハルピンや満洲里への旅情を誘う。自動車で40分市中見学した後、汽車で奉天に逆戻りし、北平に向かった。

1936年

中西伊之助満洲新風景抄」上中下、『読売新聞』1936年6月27日、28日、7月1日

  • (上)「一旗組」
    • 筆者は満ソ国境を旅行するために渡満。まず大連に着くと、没落した「一旗組」を見る。彼らは成功せず生活するために、今川焼や焼き鳥や一文菓子を屋台で売っており、日本人が植民地的特権を持つ人々ではないことを満洲人に露呈してしまっていると指摘。また、内地で官立大学を出たが先輩と衝突して就職できず満洲へ渡り奥地へ行くも匪賊に襲われかたわになりヘロイン中毒になった。このように満洲へ流れ出て下層の生活を送る日本人がゴロゴロいる。
  • (中)「北満を流す女の性格」
    • 哈爾濱の女性。筆者は北満へ行く。そこで北満に流れてくる女を見聞する。筆者の友人は哈爾濱でカフェを開業したが、そこの女性は前借システムで雇われる。三百円程度前貸しして、借金のカタに年季奉公させるのである。ある時、ナンバーワンの女給がいなくなっていたので、借金を踏み倒されたかとと尋ねると、三百円返したとのこと。なんと昨晩相手にした男が金払い良すぎたので怪しいと目をつけて酔いつぶれさせると密輸業者であり、まんまと金を得たとのこと。
  • (下)「慣れている第二世」
    • 北満を旅行した時のエピソード。支那では斬首などにより死体が転がっているが誰も気にしない。北満でも子供が親よりも先に死ぬと親不孝だとして死体を野や山に捨て去っておく。ある時筆者が小学校の校庭を散歩したとき、木の枝に引っかかっていたが、それは子供の死骸であった。だが、小学校の児童は誰も死骸を起因せず、喜々として遊び戯れていた。

長与善郎「満洲このごろ」『朝日新聞』、東京/朝刊、1936年7月11日,13~16日,18~26日

  • 1.「ロシヤ色の減退 凋落国際都市「哈爾濱」の哀調」
    • 6月3日哈爾濱着。去年訪問した時との比較。去年は復活祭の折りでアメリカン・バアで白露貧民窟ナハロフカのダンサアたちが着飾り人形の様だった。
    • 哈爾濱のロシア色が減ったというのは、哈爾濱の地理的位置づけにあるから。交通の要衝であり松花江もある哈爾濱では新京や大連のような新開地風景に塗りつぶされていく。
    • それでも哈爾濱は面白くキタイスカヤ街は内地でも南満でも見られない風景がある。そして哈爾濱の長い夜。8時頃街頭に明かりがついてから哈爾濱は目を覚ます。
  • 2.「沙漠に慈雨 慰安列車買占の匪賊」
    • 哈爾濱から満洲里行きの広軌列車に乗る。
    • 安達の駅で慰問列車を見る。鉄路総局慰問列車。
    • 日用雑貨の原価販売、演芸、映画、病人の診察や薬
  • 3.「愛路の使命 満洲ために明るし」
    • 鉄路左右5キロ以内にある部落はすべて愛護村で鉄路の警護の任にあたる。愛護村の指導するのが自警村。
    • 自警村にしろ愛護村にしろ生活の労働の傍らでは楽な任務ではないので、慰安列車がますます慰安になる。松花江では慰安船が出る。
    • 北満に必要なものの話。独身者は性病にかかるものが多いので、健康な舎宅と明るいクラブが必要であり斉斉哈爾では6分完備した。
  • 4.「若さが魅力 すすむ建設工作」
    • 新京と奉天に関するコメント。
    • 新京は国都らしくなってきており、まだ落ち着かないが不揃いな不体裁感はなくなり。
    • 満洲で一番落ち着いており都らしい都は奉天奉天が一番永住し易い。豊富な水、美しい史蹟としての東陵・北稜、四庫全書を蔵めた文遡閣や博物館。
    • 1935年6月に開館になった奉天博物館について「唯この異色ある一博物館を観に行くだけの目的で満洲へ出かける価値があるといふを憚らない」
    • 旅順博物館について。陶器の部の遼代の三彩類が並んでいる一室が見事
    • 特急「あじあ」について。金髪のロシア娘のお給仕
  • 5.「快い避暑地 嘗ては露から臨時列車」
    • 札蘭屯へ。哈爾濱から9時間。興安嶺の緩いスロープを登り、成吉斯汗駅を過ぎ、雅魯河に沿って進むと到着する。
    • 蒙古名物タイメン(興安鮪) その郷の特産品を賞味するのが良い
    • かつて札蘭屯はロシヤ時代にリゾート、殊に避暑地として慰楽と快適な保養が得られるように整備された。そのため日曜日ごとにモスコーから臨時列車が出るほど栄えた。
  • 6.「北満の涯に 嬉しく匂ふ甘い香」
    • 札蘭屯の紹介。ロシアが開発した保養地。海抜300メートルで夏涼しく、冬は暖かく乾湿適度、空気清純。
    • ロシアが引き揚げた後、鉄路総局の福祉科が復興に取り掛かっている。
    • 現鉄路クラブ(旧東支鉄道クラブ)。大がかりな劇場を内包しており豪華。
    • 現在は寂れているが興安西公署という役所があり、人口6千。露人は家作を日本商人に貸したり牛を飼ったりしている。
  • 7.「侘しき死の町 廃屋つづく満洲里」
    • 興安嶺の奥へ駅を登った巴林が東部線(哈爾濱-綏芬河)の一面坡と共に風光明媚な避暑地及び絶好な釣の遊興地として評判。
    • 海拉爾を通り、沙漠のコロンバイルを経る。満洲里は意外に寂しというよりも廃墟。欧州線との乗り換え駅としての一国境町に過ぎない。
  • 8.「悠々たる放牧 露学校に並ぶ文豪の像」
    • 国境方面に行くためには特務機関と連絡を取る必要があり、S大尉の紹介名刺を用いて国境監視所へ。
    • ロシア学校に立ちよる。ロシアの文豪、ツァーや皇后の肖像が掲げられる一方、町のクラブにはレーニンスターリンの写真が飾られ万国の労働者団結せよのスローガンがぶら下がる。
    • 日照時間永い満洲、駱駝の放牧
  • 9.「白夜の印象 文化風染む蒙古民衆」
    • 満洲里での一夜。放牧に日本人が馴染めるかという考察。
    • 満洲里のキャバレー。ラッパ一つにピアノ一台。樽のようなロシア娘のおしくらのようなダンス。
    • 宿泊したニキチン・ホテル。家族的な家人並みの飯。
    • 翌日、海拉爾へ引きかえす。
  • 10.「黄河色の湯 軍隊景気の海拉爾」
    • 海拉爾と斉斉哈爾。
    • 海拉爾は軍隊景気で活気づいている。小盗児市場、旅館の風呂の濁った水
    • 斉斉哈爾着。新築されたばかりの駅の大きさと駅前の自動車の数に驚く。ゴミゴミした海拉爾に比べ落ち着いている斉斉哈爾。
  • 11.「『住めば都』だ 満洲農業果たして不適?」
    • 北満における魚市場の様子。嫩江で釣れるというので行く。繋留場程の埠頭葫芦頭から川下の富拉爾基へ遊山の発動艇が出る。
    • 平康里、蒙古人の師範学校を視察。北上の汽車に乗り黒河へ。
    • 黒河へ行くには斉斉哈爾からにしても哈爾濱からにしても北安で一泊しなければならないので厄介
  • 12.「茫洋たる大原 乱れ咲く夏草に芳ふ菫」
    • 北安-黒河間の鉄道。龍鎮ではビールの空き瓶に1本10銭で茶を売る。買いに降りた際に自警村の団員と立ち話。
    • 北安-黒河間で最大の街が孫呉。軍に関係があり開発が進む。北の国境における西の海拉爾になるべき要所。
    • 黒河着。黒竜江の対岸がブラゴエ。
  • 13.「敬虔に満つ河 裏書きされる露軍の充実」
    • 素晴らしい黒竜江
    • ブラゴエに配備される水陸両用のタンク30台や超重爆撃機が200何十機
    • 重工業だけでなく軽工業も行えるソ連の余力
  • 完「露兵士の郷愁 国境の町で日満饗宴」
    • 黒竜江をモーターボートで下ったり上ったりする
    • 対岸のロシア兵の様子
    • 国境の街での饗宴、公開賭博場、阿片窟
    • 飛行機で黒河から哈爾濱へ4時間

1937年

室生犀星「船の初旅」『朝日新聞』東京/朝刊、1937年6月2日-5日

  • (一)哈爾濱までの旅行に出発。普段は和服だが洋服を新調したため、服を着るのが嫌になり神戸から大連までの船内では毛布にくるまって景色も見ずに過ごす。
  • (二)大連行きの船内の食事風景。一等船客は5皿の肉と野菜を食べ、ビールと見ずを飲み、最後に果物にコーヒーを啜る。洋服のズボンの話。奉天ではとある紳士のズボンのボタンが外れていた。筆者は哈爾濱行きの急行でズボンのポケットが破れたが哈爾濱の北満ホテルでは女中が縫い上げてくれた。ボーイよりも女中のすばらしさ。
  • (三)大連から新京までの鉄道の車窓風景。駱駝色の低い丸い山々が続く。人々はこれを荒野というが、筆者は美しさを感じる。新京から哈爾濱までの鉄路を警護する兵隊について。二町置きぐらいに両側に直立した兵隊が列車に背後を見せて警護する様子。
  • (四)筆者は主に観光資源を消費するのではなく、現地の街港を行き阿片窟や淫売屋や小盗皃市場やナハロフカをぶらつく。朝日新聞社の通信局長の坂本静一氏の男性的な態度に筆者(室生犀星)は女性的な気分になり坂本氏に甘える。

杉山平助満洲だより」『朝日新聞』東京朝刊、1937年7月19日・20日

  • 満洲だより」(1)/羽田→大連 奉天同善堂
    • 朝7時羽田飛行場発、福岡、京城を経て大連へ16時着。ヤマトホテルへ。移動時間が短かったので、東京近郊のホテルにでも泊まっているような感じ。人力車で市内観光。夜はダンスホール
    • 奉天では同善堂を見学。奉天では誰もが北稜や東陵を見物するが、一部の人は同善堂も見学する。同善堂は捨て子収容所として有名。東京では捨て子収容に関し、戸籍や方面委員の証明が必要だが、同善堂では窓口に置いてくるだけ。
  • 満洲だより」(2)/蛙と満洲語 満洲と空襲/杉山平助
    • 湯崗子温泉。閑寂清楚な良い温泉。日本人が満洲へきても満洲語を覚えない件について。
    • 満洲の空襲警戒が異常に緊張していることの紹介。星ヶ浦のヤマトホテルは通常なら外人の避暑客で混雑しているが空いていて慌ただしい感じ。

杉山平助満洲だより上・下」、『朝日新聞』東京/朝刊、1937年8月5日・6日

  • (上)
    • 匪賊の話。匪賊襲撃のパターン。一方から機関銃を掃射し、客が反対側から逃げ出そうとすると待ち構えていた剣付き鉄砲が突き刺す。京図線、安奉線の夜行が襲われやすく、朝鮮近くの安東も物騒。
  • (下)
    • 匪賊の話。吉林からの新京への帰り。匪賊と戦う兵が少年であることへの驚き。斬首される際の匪賊が泰然自若な態度であること。満洲国総理張景恵に会った際に質問すると、命数の思想を説かれる。

1938年

和田伝「槍騎兵/満洲だより」『朝日新聞』東京/朝刊、1938年11月27日

  • 旅行の類型:移民村視察
  • 吉林省四家房の信州大日向村を視察。八十何歳かのお婆さんが移住していることで全国的に有名。見に行くと、よそ行きのあらたまった姿で現れ、家人には名刺を要求された。これまで集めた数百枚の名刺を見せられたのである。視察者の軽はずみな好奇心が信州の山の中の老婆を観光資源としたことを指摘。

和田伝満洲だより 大陸の花嫁」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1938年12月6日

  • 哈達河移民団で一泊した時の様子。30歳前後の若い夫婦が晩飯の支度をする際、夫が赤子の子守をする。この夫婦だけでなく隣も向かいもはす向かいも同様であった。満洲では内地のように嫁が赤子を背負いながら炊事をすることはない。内地のような男尊女卑ではない。

1939年

伊藤整「槍騎兵/満洲の印象」、『朝日新聞』東京/朝刊、1939年6月21日

  • 満洲の移住地を視察して。農業移民は団員の傾向や団長そのた指導員の思想によりかなり団毎に違う。ある村では共有経済で土地の分割を認めない。一方、個人経済に早々に分ける団もある。満洲は大きな実験だとコメントしている。

石井漠「ソ満国境を行く」『朝日新聞』東京/朝刊、1939年7月26日~28日

  • (一)
    • 陸軍省派遣の慰問旅行。慰問舞踊隊を組織し、ソ満国境の第一陣地を回る。
    • 異邦の山間僻地に、しかも、国境守備の責任を帯びながら、黙々として忍苦の戦闘を続ける。
    • 東京発、朝鮮経由、東部国境の虎頭に着く。あまりにも露骨な国境線に驚く。すぐ丘の下が烏蘇里江。3百メートル対岸がソ連邦。イマン河の合流地点でイマン市が広がる。
    • イマン市はハバロフスクに次ぐ極東の大都会。浦塩まで2時間の重要都市。
    • イマン市の風景をバックに丘の上に舞台を作り慰問舞踊。兵士たちからたいそう喜ばれる。
  • (二)
    • 陣地を回る。女の顔を見たのが1年半ぶりだという兵士。三岔口のある舞台では日本の女の声を聞かせてくれという注文がある。一行の一人に国民歌謡を歌わせるとすばらしく熱狂。
    • 国境近くでトラックがぬかるみにはまりソ連兵がトーチカから出て来た際も女連中にハンケチを降らせるとソ連兵の態度が変わり、投げキッスの風をみせる。ソ連兵も女は珍しいに相違ないとのこと。
  • (三)
    • 東寧に着く。部隊長が筆者の郷土の大先輩。このお力により綏芬河で郷土舞台の慰問をやることに。
    • 綏芬河での舞台。見物の兵隊が一杯に詰めかける。雨に降られ一時中止しながらもプログラム進行。終わり際に次の慰問について話すと、靖国神社ですよとの答え。
    • 慰問袋の手紙において、蔣介石をやっつけてくださいとの見当違いの慰問により気を悪くする兵隊。支那方面の皇軍と違う国境沿いの皇軍のことを日本人に認識させる必要性。

藤武夫「満州の忠霊塔」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1939年8月2日~4日

  • (上)
    • 早大工学助教授の建造物研究の旅行
    • 満洲各地にある忠霊塔を見ると国民的なプライドが湧きがってくる。国民の血液。
      • 「最初彼地を訪ねて帰来したとき、私は何かに次のやうに書き記したことを覚えている。「私の今度の旅行での一番大きな収穫は、色々な識見上のことより何より、私自身の血液が国民的にきれいにそして純粋になったと言ふ感じです……」と。今でもこの気持ちに変わりはないし、その気持ちがかうした戦跡や碑を訪れ参詣したときに深く浸み込まされたことが大きいと言ふことを感じてゐるのである。」
  • (中)
    • 旅順
      • 白玉山頭に屹立している表忠塔が忠霊塔の中で第一位として推せる。日露戦争後に建築。ルネサンス様式、太い円柱の上に戦争を象徴する大砲、基部には丸い列柱を廻らす気品の高いもの。
    • 大連
      • 中央公園内の丘上に聳える。市内の何処からも仰ぎ見ることができる。日露戦争戦没者を合祀。最初は市内の土佐町にあった祠堂を大正14年に移す。建造物の全体の構成としては余り関心しない。
    • 新京
      • 満洲事変の英霊を合祀。国家的祭典の記念広場を持つ。昭和9年関東軍司令部内の忠霊塔建設委員会によって図案を懸賞募集し一等当選案を忠実に実施。白眉な出来栄えだが、新京の構図的調和においては雄大な規模をもちたかった。貯水塔の構図的迫力に押され気味。
    • 哈爾濱
      • 市の東方、香房の近くの広い原野の中にある。
      • 200尺近い1本の5稜の断面を持ったオベリスク風の塔。周囲の濶達と対比して見事な調和。赤い夕陽が尖塔の上半身を映え染める光景。
    • 奉天
      • 千代田通りにある。日露、満洲両戦の英霊を合祀。大連のものと同じ傾向。新京同様貯水塔が肩を並べており心ない。
    • 鞍山、牡丹江
      • 小規模ながら却ってその巧まに姿が善い
    • 熱河承徳
      • 新京のものを規模を小さくしたようなもの
    • たくさんある小銃弾型の小さな記念碑
      • 造形的意図にたくらんだものより好感が持てる。
    • 旅順の黄金山にある閉塞隊の記念碑など
      • 特異な意匠において注目されていいモニュメント
  • (下)
    • 忠霊塔に関する考察。
    • 日露戦争直後にできたものが出来栄えにおいて優っている。満洲事変後に新設されたものが懸賞競技の結果、見るべき点がある。その中間期のものは傑物が少ない。
    • 忠霊塔のような記念建造物の意匠様式の問題について。できるだけ抽象的で「現代日本」「此一隆たる国運」を「八紘一宇」とする大理想を象徴させる。
    • 周囲との調和や均衡が重要で新京や奉天の例は悪く、哈爾濱や白玉山の事例はよい。規格を一律化して周囲との調和を無視してはならない。新京と承徳の忠霊塔の酷似は期待外れ。

井上震治郎「満ソ西部国境を行く」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1939年12月14日~16日

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  • (上)「酷寒・砲声なき戦場 神経質なソ連陣営 犬一匹にも八方」
    • 満洲里郊外の国境監視所への訪問。満洲里は戦争に不利。ノモンハン事件を経て、ロシアの軍備が一層増強された。
    • ソ連の国境線の最端駅86待避駅が目の前に見える監視所への訪問。駅のすぐ近くに二階建ての大きな建物とその横には兵舎がずらりと並ぶ。町全体は鉄道関係と軍関係。モロトフ鉄道が敷かれる。
  • (中)「日暮れ待つ列車 秘密漏洩恐れ ソ連鉄道員も隔離」
    • 満洲里駅に乗り入れる国際列車の話。
    • ソ連領では86待避駅で満洲里駅入りの時間を待っている。なぜかというと86待避駅のすぐ裏手が軍都マチエフスカヤであり、情報規制のため夕暮れを待っている。
    • かつては国際列車の乗務員がそのまま満洲里駅に入ったが、現在では防諜のため、モロトフ鉄道の乗務員に代わる。
    • ノモンハン事件について。外蒙古に対してはソ連軍の勝利を宣伝し、外蒙軍の功績を称賛してその功労者を抜擢して要職に就けている。
  • (下)「反共の闘志燃ゆ 平和郷カザツク部隊」
    • 満洲里の南、札賚諾爾炭田の視察 将来は撫順炭坑を超える可能性 周辺の永久凍結層
    • 札賚諾爾炭坑から海拉爾へ。ノモンハン事件の英霊を弔う。大和魂思想の強調。肉弾をもって鉄にあたる。
    • 海拉爾から三河地方の国境近くにあるカザツク移住部落を訪問。カザツクたちはロシア革命をおそれて移住してきた。三河では国境警察隊が新設されたが、其の隊員がカザツク民で信念に燃え立つ若者が応募し警察隊員となった。

1940年

藤田たき「満洲見聞記」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1940年9月11日

  • 津田英学塾教授の満洲訪問。満洲には日本人の花嫁が必要。
  • 哈爾濱の南、双城堡で満人女学校を参観。元気な女学生。黄色い声を張り上げ、ノーストッキング・ブルマーの軽装で建国体操をする。
  • 若い日本婦人が満人婦人を指導。家事炊事をする日本婦人を満人婦人は旦那のいじめと見なしていたが、現在は満人婦人のなかでも下女を廃してボーイを解雇し家事炊事をするものもではじめた。

三井実雄「哈爾浜だより」『朝日新聞』、東京/朝刊、1940年12月10日~11日

  • (上)
    • 白樺、雪の小路、ロシア人娘
    • 赤系露人と白系露人の見分け方。白系は教会に祈りを捧げ、十字を切る。
  • (下)
    • 哈爾濱には二十数か国の外国人が住むが、主要登場人物は白系ロシア人
    • 家で下働きに雇っている白系ロシア人オリガ婆さんのはなし。おいしいパンを食えずバターも口に入らないことを共産党のせいにしている。
    • 11月の木枯らしの時期には木々の幹が白けて寒々とした風景になり、寺院の鐘が鳴り響いて旅人の心を詩的なものに落ち着かせる。

1942年

坪田譲治満州・絵ばなし」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1942年3月24日~29日、31日~4月3日

  • (1)「てふざめ」
  • (2)「虎の子」
    • 牡丹江省の山の中の話。バスの運転手が虎の子を捕えて連れ去ったら、親の虎が自動車に向かって吠えるようになった。
    • 満洲で虎のいるところは、東安省牡丹江省間島省など満ソ国境地方。
  • (3)「ロシア国民学校
    • 哈爾濱でのロシア国民学校を参観。ロシア人児童が日本語を習う。号令なども日本語。満洲国民学校ではロシア人も満洲人も蒙古人も日本語を習う。半島人はいうまでもない。
  • (4)「忠霊塔」
    • 満洲の大きな都会には日本の忠霊塔が立っている。明治以来たくさんの兵隊が満州で生命を散らした。旅順、奉天、新京、哈爾濱、承徳、遼陽、大連たくさんある。
    • 英霊は静かに眠っているが斉斉哈爾だけは違う。黒煉瓦の堡塁形の台の上に立ち北方の雪原を見下ろしている。英霊は生きており北の鎮めとなっている。
  • (5)「撫順炭鉱」
    • 炭坑のように地中に穴を掘って石炭を取り出すのではなく、芋掘りのように上の土をのけて石炭をとる天然掘り。それが撫順炭鉱。さらに石炭の絵にある油母貢岩からは油がとれる。
  • (6)「大豆」
    • 様々な用途のある大豆。その大豆が満洲では500万トンもとれ世界産額の6割。満鉄の駅々には綺麗に積み並べてある。
  • (7)「清の太祖」
    • 満洲皇帝の起源説話。満洲の東の長白山の中の池で3人の天女が水浴をしており、その天女から清の太祖が生まれた。
  • (8)「河の汽船」
    • 満洲の河川についての話。松花江黒竜江は大きい河で河川交通が盛ん。汽船ハルピン丸には861人が乗れる。しかし冬になると大河が堅く凍る。
    • 山は高くなく朝鮮との境にある白頭山が2742メートルで一番高い。
  • (9)「奥地のラジオ」
    • 在満日本人は約80万。全人口の100分の2。だが日本語はどこでも通じる。
    • ラジオも通じる。シンガポール陥落のニュースを聞いたのは北安。さらに翌日、黒河で黒竜江の彼方にロシア領を眺めながらその詳報を聞く。
  • (10)「北満の平原」
    • 斉斉哈爾から2駅。寧年開拓団を訪問。北満の平原は広く、遮るものがないので、遠い所も一直線先に見える。

高畠達四郎「美しき満州風景」、『朝日新聞』、東京/朝刊、1942年8月5日~7日

  • (上)
    • 北満最前線旅行。
    • 三河ナラムトのカザツク部落。海拉爾から北180キロの北辺。
    • 家畜の群れ。カザツクの家。屋内には冬季酷寒に対する唯一の暖房装置ペチカ。
  • (中)
    • 海拉爾の西南ホロンバイル高原。大規模な放牧を営む蒙古人。ポオを作って散在。燃料は牛糞。馬は蒙古地帯の下駄。
    • 東満の旅は、鉄道で牡丹江に出て虎林線を北に東安を経て、最終点虎頭まで行った。
    • 東安より30キロ入った南五道崗開拓団を見学。
  • (下)
    • 哈爾濱の近郊、太陽島。北満唯一の大水浴場であり大避暑地。5月末の日中は暑い。
    • 男女が海水着を着てボートを漕ぎ、泳ぎ、釣りを楽しむ。
    • レストランも趣向を凝らし、美しいロシア娘
    • ウスリー河を隔てたソ連領を対岸に見る。岸より数キロのところにイマンの街。製粉工場と製材工場。