満洲国の観光に関し、新京(日本建設)・哈爾濱(ロシア建設)・奉天(清朝建設)を比較するため、新京だけでなく哈爾濱・奉天についても『満支旅行年鑑』をはじめとし、『満洲グラフ』や『旅行満洲』、その他案内記、パンフレットを調べることとする。今回はまず『満支旅行年鑑』から。
奉天
都市(51頁)
- 概要
- 六条の鉄道を放射せしめ渾河の水路を加え満洲稀に見る恵まれた地点である。治外法権撤廃に伴ふ満鉄附属地行政権移譲と同時に、市政区域を拡大した大奉天は昭和17年始め人口140万余人(日本人約20万人)を数へ更に在奉苦力を加ふれば150万人を突破して、全満一の大都市である。満蒙に於ける交通、経済、工業の心臓部としての役割は北支の既に明朗化した今日愈々確固たるものとなり目下人口三300万を抱擁する「大奉天」の建設に邁進してゐる。古来この地を相して城を置き又都するもの、遠く渤海の時代より元、明、清の諸代、名も瀋州、瀋陽、盛京、奉天と変遷し満洲事変の起るまでは瀋陽の故名に復して張学良が東北4省の覇権を握つた土地、新たに満洲国の創建となつて首都は新京に移つたが今尚人口1千余万の奉天省公署の所在地であり満洲第一都として貫禄と実力を遺憾なく発揮してゐる。奉天の名称は清の順治14年(1657年)初めて生れた。外国語はムクデンで通り、ムクは蒙古語で樹の葉の萌えて伸び行く状態惹いて興隆を意味するものである。奉天は又日露戦役に於ける両軍の雌雄を決した屍山血河の巷として、更に満洲事変発生の地として永遠に我が光輝ある歴史に大書せらるべき記念の地である。一度日々4万余の乗降客を呑吐する奉天駅前に立てばあらゆる人種が交通機関は蝟集去来して大奉天の繁栄振りを如実に物語つてゐる。
- (視察)定期観光バス
- (土産)
- (視察斡旋)
名勝・旧跡(80-81頁)
- 【黄寺】
- 【西塔】
- 【奉天城】
- 城には元初に創建されたと伝えられてゐるが、清の太祖が天聰5年に現存のものに改築せし洵に清朝興隆の歴史と共に忘るべからざる発祥の帝城である。而して天命10年(西紀1625年)太祖高皇帝が遼陽から遷都して以来順治元年北京に遷するまで19年間の皇城で宮殿建築の一部は太祖の時に初まり(ママ)、太宗の天聰6年に完成し後に乾隆帝が大改築したものである。奉天城は故宮殿を中心として方形の内城とそれを囲む不整楕円形の辺牆とからなつてゐる。内城は瓦礫で城壁の長さ6粁、高さ10米66糎、8門を開いて内はこれ等に通づる大道が井字を為してゐる。故宮殿は奉天駅より4粁、大西門から入れば真直ぐに進んでその前に出ることが出来る。宮殿の一般拝観は禁止されている。
- 辺城は周囲16粁の土壁であつたが今は破壊されて概ねその形を失つてゐる。辺牆と内城との間も民家稠密して居り近年交通通信上の障害から大南門と小東門を除く他の六楼門並に十字路の鐘楼、鼓楼は全く取毀されて昔日の威風はないが、城郭は尚數かに城の固めを示し清朝の昔を語る宮殿の甍と共に今も都城の匂を高めてゐる。而して大奉天都邑計画に基き康徳8年度以降城壁の東部により取壊し作業が開始されたので数年後には一部城門のみを除いて完全に其悌を失ふ筈である。
- 【小河沿】
- 外城の東南隅にあたり大東門を出て南すれば小河沿に至る。これは旧運河の跡で本名を万泉河といひ小瀋水とも呼ばれてゐる。橋の布置面白く蓮を植えてあり花時は紅白の蓮花が美しい。夏季満人の遊園納涼地となつている。
- 【法輪寺】
- 【北陵】
- 【東陵】
- 城内から東方約14粁、天柱山福陵と称へ清の太祖高皇帝を葬つたものである。渾河の右岸に臨み全丘老松を以て蔽はれた中に朱壁縁瓦が聳えている。天然風水の勝はかの昭陵及び肇祖、興祖景祖、顕祖等の遠祖を葬つている永陵(興京)よりも遥かに秀で、その結構は北陵と全く酷似している。
戦跡(114-115頁)
- 【満洲事変】
- 満洲事変は昭和6年9月18日午後10時30分突如として奉天、文官屯間の柳条溝に於て、我が満鉄線を爆破したるに端を発した。
- 当時、虎石台独立守備歩兵第二大隊第三中隊は文官屯附近に於て、夜間警備演習中で、川本中尉の率ゆる線路巡察兵が線路上を南進して、北大営南方6,7百米附近に達した時、突如後方に一大爆音を聞き直に引返したところ、数名の中国正規兵が北大営方向に逃げるので、これを追撃して爆破地点の北方23百米、北大営構内に連なる高粱畑に達すると忽ち兵力2、3中隊を下らぬ部隊の射撃をうけたので直ちに文官屯附近にある所属第三中隊長に急報すると共に之に勇進応射し、第三中隊長は直ちに携行せる警備弾を以つて北大営西南地区により河本中尉を援護した。因みにこの北大営は奉天軍の精鋭王以哲旅団の兵営で、当時8千乃至1万と称されて居た。
- 独立守備第二大隊長島本中佐は、第三中隊の報告に接して中国軍の有力なる部隊が攻撃前身を企図し、既に両軍間の戦闘の事態を惹起して居るのに鑑み、今や我が寡兵を以て十数倍の敵に対抗するには迅速なる攻勢以外我が軍民の自衛と国威保全との途なきを察し、断然機先を制して攻撃に決し、大隊本部及び第一、第四中隊は列車に搭じて午後11時50分柳条溝に下車、既に北大営西北の一角に地歩を占めて居た第三中隊に連繁して攻撃を開始した。
- 北大営の兵舎は、中隊毎に煉瓦造の平屋根を占めて並んで居るので、一棟づつ猛激して之を奪取し、突撃に次ぐに手榴弾を以てして、逐次敵の抵抗を打ちまくつて行つた、数時間に亘る頑強な敵の抵抗を排除して払暁には逐次北大営東北地区に進出し午前5時30分頃には同営全部を完全に占領するに至つた。この戦闘に於ける我軍の戦死者2、負傷者22で我軍の埋葬した敵屍は320に達している。
- 当時奉天にあつた第二師団の平田連隊は事変を知ると直ぐ緊急集合をなし奉天城と兵工廠を占拠東大営並飛行場を始末するため、夜半から行動を開始し、夜明迄には城内全部を占拠した、又夜明けと共に、遼陽から多門師団長以下同地の歩兵隊、海城から野砲隊が続々到着したので、師団長の指揮で午後二時迄には、東大営の飛行場、兵工廠等全部我が手に帰した。この間中国兵は機先を制せられ、遂に壊滅して東方に敗走した。
- 日露大会戦
- 奉天の大会戦は、奉天を中心に半径約12粁の圏内は総て当時の修羅の跡である、クロバトキン大将を総帥とする露軍は、従来の敗戦から一挙に奪回してわが軍に致命的の打撃を加へんとし、東は撫順馬群丹から、西は黒溝台遼河に亘る実に80余粁の間、渾河を前にして彼我対陣した。我軍は既に沙河の冬営中に全軍の集中を終り、明治38年2月26日、大山総司令官より命令一下、奉天総攻撃火蓋は切つて落され奮戦激闘の後、3月10日、遂に奉天城頭高く日章旗を翻へし、わが名誉ある歴史を飾つたのである。この会戦に参与した兵は、わが軍の25万に対し敵32万の多数で、わが軍死傷7万、敵は9万と算せられている。鹵獲の主なるものは、軍旗3旒、砲48門、俘虜2万2千。
- 【乱石山】
- 【昌図】
- 駅西3粁、山上に日露戦役に於ける「満洲軍最終陣地記念碑」が立つている。列車が駅に入る前、線路の西沿に其の道標が立つている。
- 【旗盤山】
- 駅の東約4粁、天橋山に次ぐ高い山で昭和7年9月付属地を襲撃せる匪賊討伐のため出動せる警官隊が苦戦奮闘の末水間巡査部長以下4名枕を並べて戦死せる所山頂に四勇士の記念碑が建立してある。
哈爾濱
都市(56頁)
- 概要
- 北満洲の政治、経済文化の中心都市としてまた過ぐる日まで東洋の巴里として特殊の異国情緒を持つ国際都市哈爾濱も1898年東清鉄道の起工された当時は僅か5、6戸の家民が散在する広漠無名の一漁村に過ぎなかつた。哈爾濱の歴史は東清鉄道の建設によつて始まり之を中心とする露支両国の勢力を不断に反映しつつ発展した。そして昭和10年3月23日の北満鉄路譲渡を契機として今日の哈爾濱は最早「東洋の巴里」でもなく又「東洋のモスコー」でもあり得ない。「哈爾濱夜話」時代を遠く過去に葬り去つて今や新興満洲国の一心臓として躍進しつつある。
- 気候は緯度からみれば北海道の北端に当り冬期には零下30度の極寒にも達するが平均15,6度で家屋の防寒設備によつて耐え易く、夏季は最高34度位に昇ることもあるが平均22度、大陸性気候の特徴として朝夕は殊の外涼しい。人口は昭和17年4月現在約71万余人(日本人約7万8千人、外人並に白系露人3万4千余人)を数へ国内では奉天に次ぐ大都市である。
- (視察)
- ▼貸切バス3時間50円、タクシー2時間20円程度
- (土産)
- ルパシカ(露製上衣)、宝石類、毛皮、白樺細工、露西亜菓子、ロシア食料品
- (視察斡旋)
- 東亜旅行社(中央大街78、丸商百貨店内、傳家旬、昌平二道街、ヤマトホテル内)観光協会(中央大街20号)
名勝・旧跡(88頁)
戦跡(117頁)
奨健地 避暑地と水郷(152頁)
- 【哈爾濱】
- 【哈爾濱ザトン】
- 哈爾濱松花江対岸の楡と泥柳の森に囲まれた一帯の地をザトンと称されて居り、一流銀行会社の保健館、露人別荘が樹間に並び建ち、哈爾濱人士のオアシスとして親しまれている。
関連(観光案内・パンフレット)
奉天・哈爾濱共通
- 『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、昭和14(1939)
奉天に関するもの
- 『観光地と洋式ホテル』鉄道省、昭和9(1934)
- 鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4
哈爾濱に関するもの
- 国立国会図書館デジタル(一般公開)
- 国会図書館デジタル(図書館送信)
cf.新京に関するもの
- 『満支旅行年鑑』
- 各種パンフレット
- 地図・観光資源