雑録

川村湊『異郷の昭和文学-「満州」と近代日本-』(岩波新書、1990)

  • この本の趣旨
    • 満洲をめぐって日本の文学者たちが、何を感じ、何を考え、そうしてそれらのことをどんな風に表現したかということをたどろうとしたもの」

以下、参考になった箇所など

  • 1990年時点では満洲文学に関する研究はほぼなかった(22-23頁)
    • 「〔……〕尾崎秀樹氏の「『満洲国』における文学の種々相」(『旧植民地文学の研究』昭和46年、勁草書房、所収)をほどんと唯一の例外として、日本の文学批評、文学研究の分野で、この問題(引用者註-満洲に関する文学についての問題)を真正面から取り上げて論じたものが、まったくといってよいほどない〔…〕」
  • 満洲文学の三類型(23-25頁)
  • 農民作・和田伝の『大日向村』 寄生地主制を解消するための満洲移民(28-30頁)
    • 「ひと山林地主と、炭焼きや山仕事や農耕との"半農半山"で生活している多数の貧農たち。村役場の村長、助役が相次いで辞表を提出してしまたのは、村自体がもはや"破産"状態になってしまったからだ。山主の山に入って原木を買い、それを炭に焼いて山主が兼ねる薪炭商に納める農民たちは、原木を高く買わされ、炭を安く買いたたかれ、借金まみれとならざるをえない。村の大半の住民が借金地獄に陥っているのに、村役場のみが裕福でいられるはずもないのである。村有林、国有林、私有林を食い潰して、森林の再生産を不可能にしつつある悪循環は、もとより心ある農民、山民にとって安閑としていられる問題ではない。だが、伐採して炭を焼かなければ今日明日を過ごすにも困窮する人間にとって、背に腹は替えられぬものであることも確かなのだ。浅川武麿が、この破産状態の村の村長として、都会から戻ってきたのは、生まれ故郷のこの村を何とかして更生させようという村人たちの熱い期待と願いにほだされたためだった。生命保険会社の課長の椅子を目前にして、村にUターンしてきた彼は、この疲弊した村を再建しようと努めた。そして、彼は時の満州開拓のための武装移民とは別に、「大日向村」を"二つに裂き、その一半をそのまゝ大陸に移し、もう一つの新しい大日向村を彼地に打建てよう"という、遠大な計画を建てたのである。〔……〕小説『大日向村』は、満州へ村を作ろうとする大日向村の村長・浅川武麿を中心として、貧農たちが自ら進んで村を二つに分け、その一方を満州開拓のために"新天地"に送り込むということを大筋の物語としている。」
  • 大陸開拓文芸懇話会(39頁)
    • 「「大陸開拓文芸懇話会」という文学者の組織がある。1939年(昭和14年)1月に設立された会で〔……〕会の目的は「大陸に関心を有する文学者が会合して関係当局と緊密なる連絡提携の下に、国家的事業達成の一助に参与し、文章報告の実を挙ぐることにある」ということであり、事業内容としては「大陸開拓に資する優秀文芸作品の推薦または受賞」と「大陸開拓事業の視察とならびに見学に対する便宜供与」ということで、前者は「大陸開拓懇話会賞」として、後者は第一次6名の作家による満州視察旅行として実現している(尾崎秀樹「『満州国』における文学の種々相)」『旧植民地文学の研究』)。この第一次には伊藤整田村泰次郎福田清人、田郷虎雄、近藤春雄、湯浅克衛の6名が参加しており、雑誌『新満州』(昭和14年8月号、満州移住協会)に"大陸ペン部隊リレー通信"ということで視察記を書いている。その中で満州の土地の広大さ、民族協和の夢、開拓義勇隊への期待が口々に語られており、当時の文学者にとって、満州視察がどんな意味を持ったものかがうかがえるだろう。」
  • 北海道農法と満洲農業(52頁)
    • 「北海道農法をモデルとした近代的な寒冷地農業についての技術的、科学的信仰が、満州農業における失敗(誤り)の原因であると指摘したのが、実は小説家である島木健作にほかならなかった。彼は昭和13年11月に設立された農民文学懇話会から派遣されて、昭和14年3月から百日間、満州へ渡った(ちなみに、農民文学懇話会は、第一近衛内閣で農相だった有馬頼寧が肝入り役となり、和田伝、打木村治、鎗田研一、島木健作などの農民文学の作家たちが集まった会であり、「開拓文学」の有力な実作者の集団であって、後に大陸開拓文芸懇話会と同様、日本文学報国会の農民文学委員会へと発展的解消となった-参照・「『満州国』にこける文学の種々相」)。その時の見分は『満州紀行』(昭和15年創元社)と、小説作品『或る作家の手記』(昭和15年創元社)という二冊の本となって刊行された。その中で彼は満州農業に対するそれまでの現状報告や宣伝を批判して、その問題点を取り上げてみせたのである。〔……〕島木健作はなぜ北海道式の農法が満州では適用できないかを具体的に説明している。その大きな違いの一つは、満州の耕作法が高畝作りというもので、この畝作り法を遵守する以上、北海道で使うプラウ、ハロウ、カロチベーターといった様式農具は役に立たないということ、さらに北海道農業が、播種、除草、刈取とその作業量が均一化しているのに対し、満州農業が除草の能力によって限定されていて、しかもそれは機械化が困難で、人手を頼りとせざるをえないことを語っている。」
  • 地主-小作関係の再生産(54-55頁)
    • 「〔……〕島木はこれまで満州農業を視察した人間がほとんど触れなかった点を指摘している。それは日本人移民の農業が、実は"満人"農民の労働力を使って行われているという事実であり、しかもその農法も結果的には在来の農法、すなわち満州式農法に依存していることを明らかにしているのだ。開拓農民はその家族労力だけでは、与えられた土地を活用、利用することは不可能であり、満人苦力の労働力を頼むか、満人農民に小作させることによってその農業を営んでいる。これが、「新天地」といわれる満州の開拓農業の実情であると彼は報告するのである。〔……〕農業移民が現地で地主-小作関係を再生産させるということは、日本の制度的矛盾の解決を目指した満州移民にとっても、言い逃れようのない植民地的収奪といわざるをえない。島木健作は、和田伝のように"既墾地である開拓地"といった奇妙な虚構性に惑わされることなく、開拓民の入植した土地が、満人農民から何らかの手段で購入あるいは交換された土地であり、そこで自作農が小作農に転落し、「民族協和」の掛け声による日本開拓民の入植が、先住の満人、朝鮮人農民にとって侵略的なものであったことを正確に指摘している〔……〕」
  • 中島敦と外地体験(73-75頁)
    • 中島敦が、朝鮮半島満州の大連に関わりを持ったというのは、彼が幼少年時代に父親の中島田人が中学校教師として、奈良県郡山、静岡県浜松、朝鮮の京城、関東州の大連と勤務先を変えたことによるものである。小学校時代の転校、中学校時代における、いわゆる「外地体験」は、中島敦の文学に大きな影を投げかけている。たとえば、朝鮮の京城での生活体験、旧制中学時代の体験は、『巡査の居る風景-1923年の一つのスケッチ-』と『プウルの傍で』と『虎狩』という、三つの習作風の短編小説として残されている。このうち『プウルの傍で』は、京城にあった新町遊郭朝鮮人娼婦と日本人少年との淡い情交を描いたもの、『虎狩』は、朝鮮人学生と日本人学生との友情めいた交渉を描いたものという意味で、作者自身の私小説的な体験をもとにした小説であると考えられるのに対し、『巡査の居る風景』は、1923年という年代(大正12年、この年関東大震災が起こり、流言によって多くの朝鮮人が虐殺された)を限定して、客観的に植民地都市としての京城の庶民たちの一日をスケッチしようとしたものといえる。〔……〕中島敦は、父親の勤めていた満州の大連についても、習作風、スケッチ風の短編小説を書いている。『D市七月叙景(1)』というのが、その作品だ。題名に(1)と入っているが、(2)以降が書かれたというわけではない。(1)だけの習作として終わったと見るべきだろう。しかし、この作品には「D市」すなわち大連に関する特筆すべき視覚からのとらえ方が提示されているように私には思える。それは大連という町を、一つの単純化した町としてとらえるのではなく、本質的に多重的な、多層な階層を含む都市としてとらえようとする観点である。」
  • エキゾチシズムとノスタルジア(97頁)
    • 「〔……〕多くの満州案内記、旅行記、見聞記が流布したのは、エキゾチックな満州であり、引揚げの記録、体験記が強調したのはノスタルジックな満州にほかならない。そこには政治、文化、言語の角逐と葛藤の場としての植民地という本質を見定めることがすっぽりと抜けているのであり、おそらくそうした視点から旧植民地都市としての大連を眺めたとしても、それは偏った、個人の内部での郷愁や好奇心の範囲を結局は逃れることができないのである。」
  • 坂口安吾の『吹雪物語』と満洲新航路(100-103頁)
    • 坂口安吾の長編小説『吹雪物語』は書き出しは、「193×年のことである」とある。〔……〕「193×年」に日本の都市の顔つきが変わったこと。ここでいっているのはそれだけのことだが、ここにそれとなく「満州国との新航路開通」とあるのが、私の目を引くのだ。従来、日本から満洲へと向かうルートは、神戸、門司から大連へと直航する南部連絡ルートと、関釜連絡船で釜山へ上陸し、朝鮮半島を縦断して新義州、安東から満州へと入る中部連絡ルートがあったが、30年代には、敦賀、新潟、舞鶴などから羅津、清津などの北朝鮮の港に入って、図們、朝陽川経由で新京へと汽車で入るという北部連絡ルートが開発されたのだ。この北朝鮮経由が「内地」と満州国の中心部とをつなぐ最短路だった。すなわち、新潟-羅津-新京という、満州と日本とを結ぶラインが引かれたわけである。新潟から海へと向かって引かれた一筋のライン、それは海を渡り、半島を横切って、大陸の新首都につながっている。北陸の灰色の空に閉ざされた町に住む人々にとって、それは微かな光の穴として、精神的な脱出口と思われたのではないだろうか。」
  • 矢田津世子の身勝手なエキゾチシシズム(108-110頁)
    • 矢田津世子は、昭和12年(1937年)と昭和17年(1942年)の二度にわたって満州旅行を行っている。1回目は女流作家・大谷藤子といっしょであり、2回目もやはり大谷藤子と網野菊と同行している。いずれも1か月程度の旅であり、1回目の旅はその当時よくあった、満鉄が宣伝のために文学者を費用持ちで招待するというプログラムに乗った旅行である。〔……〕彼らは満州に独特のエキゾチシズムを知らず知らずに求めている。〔……〕矢田津世子は帰国後、「工業大学蔵前新聞」に寄稿した「吉林」という文章で、こう書いている(初稿発表は昭和12年10月。『矢田津世子全集』平成元年、小沢書店)。「満州を旅して私たちは倦きるほど内地の匂ひに触れた。佳木斯という奥深い小さな町にさへ銀座裏のネオン街があつた。真つ白に粧うた素足の女の人たちは何処にでもゐた。小料理室やおでんやの看板提燈も稀らしくはなかつたし、江岸に安手なぼんぼり提燈の並んでゐるのも見かけられた-けれど、このような内地風な匂ひは、どれも作為れたものであつた。無理をしてつくつて、内地風な雰囲気を出そうとする、満州独特の匂ひが、このような作為れた匂ひで害はれていくのは侘しいことである。」ここで彼女が不満の口吻を漏らしていることは、旅行者のほとんど身勝手なエキゾチシズムについての趣味から来るものと、さほど変わっているわけではない。満州に「内地風」を持ち込んだのは、当然、第一に植民者としての日本人であって、佳木斯の「銀座裏のネオン街」も、わざわざそこまで見物に来る日本人のためにあるのだといってもいい。「作為れた」ものとしてあるのは、植民地としての満州そのものであり、そこで作為としての内地、無作為なものとしての満州という二元論をいい立てたところでしかたがないのである。〔……〕満州にロマンチックな憧憬を抱きながら、それに対して「内地風」の現実を見ることによって、幻滅したのである。むろん、それは幻滅することが当然であるような旅なのだ。旅行者は「満州」あるいは「新京」に、「内地」にはない独特のものを求めているのだが、それは求めている人間の内部にしか、本当は存在しないような何物かに他ならないのだから。」
  • 小林秀雄満州の印象』について(116頁)
    • 「〔……〕昭和13年(1938年)に満州を旅行し、エッセイ『満州の印象』を書いている。印象といってもこの文章は満州という"異国"のエキゾチシズムについては、はなはだぶっきらぼうで、こんなことを書いている。「エキゾティスムという見掛けの美しさは、旅行者を惑わすものだが、惑わされているのは、果たして旅行者だけだろうか。満州には満州の文学をという主張を、新京でも大連でも聞いたが、そういう人達も亦今の処未だ惑わされた旅行者を出ないのはあるまいか。」小林秀雄は、満州の現実が「内地風」であることを嘆くものでもなく、また、幻の地下の理想郷としての"大満州国"を思い描くのでもなく、「生活的にも思想的にも何も格別新しいものはない。僕は満州に来て、はじめて極当たり前に、だが根強く生活している日本人を見た様な気がした」と書くばかりである」
  • 北村謙次郎『春聯』について(125-127頁)
    • 川端康成は、北村謙次郎『春聯』(昭和17年、新潮社)の序文で彼が「満州国唯一の『専門作家』と言はれ」、「建国10年間の満州文学のおそらく最高の収穫が北村君の『春聯』であったことも、決して偶然ではない」と書いている。『春聯』は、川端の要約に従えば、「建国当時の蘇炳文の叛乱、国境警備の警官の遭難、彼を救護する白系露人達、また鋠作と貞造の兄弟が性格のちがひによる二つの道、それらを通じて満州国の希望と新生を語ろうとした」作品である。こういういい方だけではわからないと思われるが、この小説は基本的に小説の中にもう一つ小説を組み込んだ作品なのだ。〔……〕北満の荒々しい土地、まさしく「北方の曠野」を舞台とした、冒険小説、戦記小説的な物語を内部に孕んだ作品であり、その素材の目新しさやストーリー展開のテンポのよさは、この小説をエンターテイメント的なものとしても、十分に評価できるものに仕立てあげているといえるだろう。」
  • 芥川賞と外地文学(142-143頁)
    • 「〔……〕昭和10年代から20年代の、いわゆる「外地文学」の華やかなりし時期に、少なくとも創設初期の「芥川賞」という文学賞がそうした「外地文学」の興隆に大きく寄与したことは否定できない。これは菊池寛という人物と、彼の創設した文芸春秋社という出版社の体質や性格にも関わることであるかも知れないが、「昭和文学」の朝鮮半島、中国大陸、アジアへの進出と、「芥川賞」という文学賞の制度とが絡みあった様相を呈していることは指摘しておいてもよい〔……〕昭和初期の芥川賞が、「外地」的な志向を持っていたことは、その第1回の受賞作品、石川達三の『蒼氓』を見ることによってもうかがうことができる〔……〕菊池寛久米正雄山本有三佐藤春夫谷崎潤一郎室生犀星小島政二郎、佐々木茂索、滝井考作、横光利一川端康成の選考委員たちが選び出したのは、南米移民をテーマとして、移民船の中での、不安と希望との入り混じった移民者たちの群像としての心理が、その悲惨な状況とともに描かれた作品だった。逆にいうと、選考委員たちはプロレタリア文学からの転向文学も、私小説の伝統を踏まえた一族の物語も、新感覚派風のモダンな作風も選ばなかった。この第一回の芥川賞の決定が、海を越えた「外地」、日本の外地へと目を向けざるをえなかった昭和文学の、一つの象徴的な出来事だったことは、現実の時点から改めて顧みて明らかだろう。」
  • 芥川賞満州モノ(144-145頁)
    • 「第12回芥川賞の候補にあげられたのが、牛島春子の『祝という男』で、これは満州在住の日本人が書いたもので、「祝」という名前の"満系"の役人を登場人物とした、いわゆる「満州文学」であって、作者の牛島春子は、プロレタリア文学運動を経て、当時は『満州浪漫』の同人となっていた。なお、プロレタリア文学運動から「満州文学」へという転回の仕方は、牛島春子だけではなく、山田清三郎を筆頭として、多数の文学者を数えることができる。〔……〕第16回受賞が倉光俊夫の『連絡員』で、これも満州戦線での話。「満州文学」と「戦争小説」の合体した作風というべきだろうか。17回受賞が石塚喜久三の『纏足の頃』であり、発表誌が『蒙疆文学』という雑誌であることからもわかるように、満州国とともに日本軍が傀儡政権として、その独立を画策していた"蒙疆国家"を舞台としたもので、蒙古人と中国人(漢民族)との混血児であることの悩み、苦しみを描いたもので、日本文学には珍しいアジア的な民族問題をテーマとした作品だった。」
  • 文学賞満州(148-149頁)
    • 満州では、「満州文和会賞」が創設され、第1回目の受賞作は、日向信夫の『第八号転轍器』と高木恭造『鴉の裔』だった(第二回受賞は北村謙次郎『ある環境』)。満州文話会は満州ペンクラブを母胎として生まれた満州在住の文化人、文学者たちの総合団体で、「満州国」での文化活動の中心的役割を果たし、『満州文化年鑑』『満州文芸作品選集』を編纂発行したり、日満文化交流の窓口になるといった活動を行った。その活動の一環が「満州文話会賞」の設立であり、賞の存在自体が「満州文学」という枠組みをクローズアップさせるという意味を持っていたといえるのである。」
    • 満州国の公的な文学賞としては「建国記念文芸賞」があり、第1回受賞は牛島春子の短編『王属官』だった。彼女はこの受賞作で「満州文壇」にデビューし、『祝という男』で芥川賞の候補となった〔……〕満人作家への文学賞としては「満州国民生部大臣賞」が康徳5年(昭和13年)に設立され、第1回、穆篤里『副昭創業記』、第二回古丁『平沙』、第三回爵青『欧陽家の人々』の受賞作があった」
    • 「また、日本文学報国会が昭和18年に創設した「大東亜文学賞」には、「外地文学」としては第1回、第2回にそれぞれ庄司総一『陳夫人』(台湾)、鑓田研一『満州国史』(満州)が、次章として選ばれている(満系作家として爵青、袁犀、古丁も受賞している)。」
    • 「つまり、文学賞という「制度」は、この時代の植民地下においてきわめて政治的、国策的な意味を帯びて運用されていたのであり、それは明らかに外地における文化政策、すなわち植民地での民族協和、他民族の皇国民化、「国語」としての日本語の奨励といった目標を明確にした"アメ"としてあったのだ。むろんそれは、民族語への抑圧、民族主義への弾圧、非時局的、反体制的な表現活動の制限、圧迫といった"ムチ"と連動したものにほかならなかったのである。」
  • 他民族を描く(149-150頁)
    • 八木義徳の『劉広福』、牛島春子の『祝という男』、日向伸夫『第八号転轍機』と石塚喜久三の『纏足の頃』といった短編作品。これらはいずれも満州、および蒙疆の地域に生きる日本人以外の他民族の人間を主人公とした作品であって、いずれも「外地文学」として当時高く評価されたものであった。これらの作品に現れる「民族」間の葛藤と融和の問題こそ、外地文学が「内地文学」と異なるものとしてもったはっきりとした指標であり、そして、その後の昭和文学(戦後文学)において、主題化されることの少なくなったテーマということができる。」
  • 八木義徳『劉広福』について(150-152頁)
    • 「いわゆる満人と日本人との交渉を描いて、「民族協和」の模範例ともいえるような作品となっているのが八木義徳の『劉広福』である。題名は、語り手の<私>が勤めているアセチレン・ガスの工場に、<私>が保証人のような形で雑役係として雇い入れた満人労働者の名前で、彼は安い賃金で汚れた仕事、力仕事についても文句一ついわず黙々と働く吃音者の大男だった。彼はその並外れた体格と体力、寡黙でしかもねばり強く、誠実な仕事の態度を買われて、満人労働者の中でもいつしかリーダー格となってゆく。しかし、向上の倉庫からカーバイド缶が盗まれ、現場に残されていた地下足袋の足跡から、劉広福が犯人として警察に連れて行かれ、留置所に入れられる。彼を信じていた<私>は、劉との面会のために警察署へ行き、真犯人を探し出す手がかりを彼から聞こうとする。するとはたして、挙動不審の満人労働者の組頭の男が浮かび上がって来て、それをきっかけに工員全体の荷物検査を行い、その男が収入に見合わないほどの病院の治療費(花柳病)の受け取りを持っていることが判明し、警察で彼が犯行を自供して劉広福の嫌疑が晴れる。そうしたやりとりの中で、劉広福には、奉天の料亭で下働きをしている那娜という許婚者がいて、彼が安い賃金でも奉天を離れずに働き、お金を一生懸命に貯めていることの理由が<私>にもわかり、二人に協力する気持ちになる。ある日、工場で火災事故が発生し、あやういところを劉永福の活躍で大事故となることから免れることができた。しかし、彼は両手、顔などにひどい焼傷を負い、生命は助かるけれど、大きな後遺症が残るといわれる。那娜の献身的な看病。退院した劉広福を見ると、焼傷以前と変わらぬ状態になり、さらに一皮剥けて男ぶりが上がったようにさえ見える。<私>はその生命力、治癒力の強さに感嘆する、というのがこの小説のあらすじである。」
    • 「こうしたストーリーだけを追ってゆくと、これが「五族協和」「王道楽土」という満州国のスローガンに則ったもので、国策的なものの期待を裏切らない作品ということができる。劉広福と<私>との信頼と友情。与えられた職務に忠実で、不平不満をいわずに黙々と働く勤労態度。劉と那娜との童話的愛情の物語。火災事故のエピソードに見られる、劉の義務感と犠牲心の強さ、そして驚嘆すべき彼の生命力と回復力。こうした一つ一つの要素が、「満州文学」に求められていたものであり、そのお手本、典型として推奨されても不思議ではないものだった。」
  • 牛島春子『祝という男』について(156-159頁)
    • 「牛島春子の『祝という男』(『昭和戦争文学全集1』)の主人公・祝廉天は、劉広福とはほとんど対照的な"満州人"ということができるだろう。彼は県長弁公処(地方官の役場)付きの通訳で、日系職員の間で最も評判の悪い職員だった。というのも、彼は"満系職員"らしからぬ"一種の険しさ、鋭さ"を持ち、それが周囲の人間から煙たがれる理由だったのである。新しく福県長として赴任して来た風間真吉は、祝の評判と彼の人物像の隔たりに驚き、祝がむしろ「日本人」的な行動パターン、原理で動くことが、彼をかえって疎んじらせる理由であることに気がつく。「非常に官僚的だよ、満系であれ程傲慢な奴はいないな」という祝の評判は、いってみれば祝があまりにも「日本人」的であり過ぎることへの反発なのだ。彼は住民からの訴訟に対しては、公平で事情の調査をよく行うし、満系警察官の不正に関してもそれを揉み消してしまうようなことはしない。有力者の息子を募兵からはずすようなことはしない。これらのことは、コネや金や人間関係で動いている満州人社会において「日本的原理」、近代社会のルールを持ち込んだもので、いわば祝という満人は、当地の日本人よりも日本的な職業倫理、官僚制度の原理に忠実なのである。むろん、そのことは彼を満州人の社会から必然的に浮き上がった存在とする。本人も「満州国が潰れたら、祝はまっ先にやられますな」とうそぶくように、彼は満洲人からも日本人からも拒まれ、憎まれる存在なのだ。日本人よりも日本人化した満州人。下層官僚として融通の効かないその性格は、まさに"植民地人"の一つの典型というべきものなのである。それは満州国が近代国家として発展するならば、官僚として必要とされるタイプの人間ということになるだろう。彼は副県長の真吉の有能な部下として活躍する。しかし、彼はその満州国の地方の官僚としての有能さのために、自らの「民族」「民族性」を、植民者、侵略者の側に売り渡さなければならなかったのである。作者・牛島春子は、こうした矛盾した存在としての満洲人・祝廉天を描き出した。それはむろん八木義徳の一種の"神様"としての満人像と較べると、ほとんど逆の"悪魔"に魂を売った男ということになるだろう。しかし、忘れてはならないのは、そうした満州人の二つの典型像は、いずれも日本人の満州支配という社会状況が生み出したものであり、満州国という植民地国家の「民族協和」「王道楽土」といったスローガンの表と裏ということだ。〔……〕『祝という男』の最後の場面は、副県長として祝の上司だった真吉が転任する場面で、転任が決まると祝の態度が冷ややかになり、真吉は祝が上司-部下という縦の人間関係でしか人とのつながりを持てない人間ではないかと思うところがあるが、むろんそのような形でしか祝の"人間性"を摩滅させたのは、満州国という制度にほかならない。」 
  • 日向伸夫『第八号転轍機』について(160-162頁)
    • 「日向伸夫の『第八号転轍機』(『昭和戦争文学全集1』)は、満鉄に勤務していた作者のものらしく、ソ連の経営していた旧北鉄(北満鉄路-ソ連満州国との合弁事業だった)からそのまま満鉄に引き渡された満州人の転轍手の物語である。満鉄の正式名称が南満州鉄道株式会社であることからわかるように、満鉄は当初長春以南のいわゆる南満を中心とした鉄道網だった。やがて朝鮮半島から縦断する朝鮮鉄道の移管を受け、さらにソ連が経営権を握っていたハルピンを中心とした北満横断線の北満鉄路を吸収して、満州国の全国にわたる大動脈としての鉄路網を完成させたのである。『第八号転轍機』はそうした満鉄の拡大、膨張の過程で生み出された片隅の一つのエピソードである。旧北鉄時代に覚えたロシア語は何の役にも立たず、慣れない日本語の学習で苦労している老転轍手の張徳有。彼は同僚の李連福が、鉄道に見切りをつけ、退職金を資本に開店しようとしているパン屋の話に加わらないかと誘われている。北満時代のロシア式のやり方に慣れている彼らは、能率と時刻表厳守の満鉄式のやり方についてゆくのが困難で、さらに日本語での連絡ミスも重なり、勤労意欲を失っている。それに満鉄では北鉄時代からの満人社員を人員整理しようとしているという噂が流れてくる。張徳有は、長年扱い慣れてきた"第八号ポイント"を手放して、李のように転機を図ろうかどうかと迷っているのである。ここでは時代の流れに素早く対応することのできない満州人の老鉄道員の姿が描かれている。彼の妻のベリカは、元、張と親しかった白系ロシア人の路警の妻だったが、夫がチブスで死ぬと張の家に入り込み、ずるずると居座った女だった。家では、ロシア語を使い、すっかりロシア式の生活をしている張に、「日本時代」への切り換えは、うまくいかない。つまり、時代の流れに合わせて"ポイント"をうまく切り換えることのできない転轍手の満州人が、ここでは主人公なのであり、それは次から次へと目まぐるしいまでに変転する満州地域の政治、軍事、経済事情を暗喩していると考えてもよいだろう。線路のポイントを切り換えることを仕事として、その第八号転轍機に、いわばしがみついて生きてきたような半生。しかし、時代の波はこうした運転手の運命さえも大きく変えようとしている。新時代、新天地、新体制といったスローガンの下に、右往左往しなければならない満州の下積みの人間の生がそこでは描かれているのであり、それは朝令暮改的な日本の満州支配と植民地政策に対する、密かな抵抗といえるかも知れない。小説は、人生のポイント切り換えを行おうとして失敗した李連福(開店したパン屋が火事で焼けてしまう)の話や、さしあたり張の属する駅では人員削減は行われなかったということで終わるのだが、もちろんこうした結末がハッピー・エンドであるというわけにはいかない。父親の代から受け継いできた転轍手の仕事も、李のいうように先の見えたものにほかならず、首がつながっているのも一時のものと考えざるをえないからだ。妻リベカとの老後のことを考えれば、やはり彼も何らかの人生のポイント切り換えを行わざるをえないのである。」
  • 小泉菊枝の『満州少女』について(163-164頁)
    • 「康徳6年(昭和13年)に月刊満州社から出され、満州においてよく読まれたという小泉菊枝の『満州人の少女』という本は、自分の家に満州人の少女をお手伝い、子守りとして引き取った日本人主婦が、その少女との交流を綴った生活体験記だが、そうした本が在満の日本人社会で読まれたということが、日本人社会が基本的には満州人(庶民以下の)と無関係に営まれていたことを物語るものだろう。」
  • 石川喜久三『纏足の頃』について(166-167頁)
    • 「石川喜久三の『纏足の頃』は、蒙古人の父親と中国人(漢民族)の母親との間に生まれた漢蒙混血の子供たちの物語である。長女の潤芝は父親のチュルガンの反対で纏足をせず、そのために20歳になっても「支那人」と結婚できないまま家にいる。その失敗を次女の李艶で繰り返さないために、母親の鳳琴は嫌がる李艶に無理やりに纏足させようとしているのである。ただでさえ、蒙古人と支那人との混血児と蔑まれているのに、それで纏足もしていないということになれば、娘たちは支那人のところへ嫁に行けない。鳳琴が纏足にこだわるのも、そうした理由からなのだ。長兄の奎栄は、部落の蒙古人ベンドザンクが人売りから買った漢民族の少女・菫翠花を嫁に貰うということになっていたが、廟祭の前日、菫翠花が部落から逃げ出した。彼女は許婚者の奎栄が嫌だというわけではなく、彼と結婚すると混血児を産まなくてはならないことになるという理由で、養い親のベンドザンクのところから逃げ出したというのである。〔……〕混血児であるために、嫁に行けない潤芝、そのためにより「支那人」的になるために纏足を強制される李艶、そして貧しい蒙古人の家に生まれたために、医者にもかかれず、病気に苦しむ慶亭。そうした弟妹たちの面倒を見なければならない奎栄は、そうした翠花の言葉に何もいいかえすことができず、ただ彼女の立ち去ってゆくのを見送るだけなのである。」
  • 国籍法のない満州国(173-174頁)
    • 満州国の教育司長で、通俗的満州国イデオロギーを鼓吹した田村敏雄は『満州満州国』(昭和16年有斐閣)という著書の中でこういっている。「満州国は、いふまでもなく、複合国家の国です。そうして、日本人は、日本帝国臣民として、そのまゝ満州国の国民なのです。天皇陛下のおほみたからとして、すめらたみとして、同時に満州国の構成分子、指導的、中核的構成分子なのです。これは、いはゆる、二重国籍などといふ、形式概念的な、単なる法律的な状態ではなくて、もつと本質的な問題です。はつきり申せば、日満不可分一体関係を現実化する、生きた力が、満州日本人なのです。」ここでの法律的な不明解さは、現実的にはまったく問題にならなかった。「日本帝国臣民が同時に、満州国の中核的構成分子だといふことは、天下公知の事実」(田村敏雄)だからである。すなわち、それは単に宗主国人の植民地支配を、そうとは認めようとしなかったことの文飾にほかならなかったからだ。満州国はついに国籍法を持たなかった。つまり、日本人を日本国籍から離脱させ、満州国籍に"帰化"させることは論外であって、この隘路を満州国に集まった"優秀"な法律家たちもくぐり抜けることはできなかったのである。さらに満・朝・蒙・露の各民族とまったく同等の資格において満州国人となることは事実上日本人には耐えられることではなかったのだ。"形式概念"的な論議を否定しなければならなかったのは、そうした形式論に耐えうる国籍法を満州国は創出できなかったからであり、満州国人は国籍なき国民だったのである。」
  • 引揚者精神(217頁)
    • 満州の少年少女たちは、多かれ少なかれ国家や制度、法体系やイデオロギーといったものに対する不信と嫌悪の念を抱いている。安部公房が無国籍的といわれ、あるいはコスモポリタンといわれるのは、彼が「日本」の伝統性や民族的なものといわれているものに、深い拒絶感を抱いているからだろう。あるいは、木山捷平のような飄々とした風貌の底に隠されているものは、権威あるもの、政治的な制度や体制の秩序の擁護者に対する深い不信と軽蔑の思いといってもよいのである。」