【資料・先行研究】旧日本帝国植民地遺産観光~満洲国 国都新京編~

先行研究リスト

高媛「記憶産業としてのツーリズム 戦後における日本人の「満洲」観光」『現代思想』29(4)、青土社、2001年、219-229頁

  • 本稿の趣旨
    • 「本稿は、「満洲」にまつわる記憶の商品化に焦点をあて、戦後における日本人の「満洲」観光の変遷を手掛かりに、ホストとゲスト社会を取り結ぶツーリズムという磁場のなかで、戦争と植民地の記憶がいかに抽出され、整合され、また相克するかを考察し、さらにポストコロニアル期における記憶の商品化とナショナリズムのかかわり合いをさぐりたい」(291頁)
  • 満洲観光空白期における慰霊と望郷の念の形成
    • 「戦後からおよそ35年間の長い間に、国交断絶と中国側の受け入れ体制の不備のため、一部の友好交流団体を除いて、一般の日本人は「満洲」を含む、中国全土への渡航はできなかった。しかし、この異様に長い「満洲」再訪までの空白期に形成されたテクストは、やがて80年代以後本格的に発足した「満洲」観光の行方を大きく左右した。戦後、満洲関係の戦友会や、拓友会、同窓会など経験共有者の集りが数多く形成されてきた。〔……〕満洲関係のグループは80年代以降に本格的に始まる「満洲」観光の重要な担い手のひとつとなった」(221頁)
    • 「望郷と慰霊-満洲体験者の内面に蓄えられた「満洲」へのまなざしは、やがて1979年以降中国の観光市場の門戸開放に伴って本格的に開始した観光市場の商品として、市場化されるようになったのである」(222頁)
  • 改革開放以前の中国観光
    • 「「満洲」観光の前夜、国交回復を機に進められてきた「友好」の旅は、ただ過保護にされた「友好行事」のみに終始し、「満洲」への郷愁も、歴史認識への追究も、まるで「雑音」のように封印されてしまった」(223頁)
  • 改革開放と中国の観光業
    • 「80年代以来、改革開放政策の急進に伴い、中国の観光事業もそれまでの友好交流とする「政治型」から新興産業としての「経済型」へと転換していった。〔……〕80年代以来の日本人の「満洲」観光は、企画主体が満洲体験の有無によって、次の二種類に分けられる。つまり、引揚者本人、家族、満州関係のグループが自分で旅行の企画を立て、ただ旅行会社に手配してもらう旅行と、旅行会社がパンフレットをつくり、店頭販売や新聞広告を通して一般向けに募集する「パッケージツアー」である。時期的に最も早く実施され、現在にいたっても「満洲」の観光市場の大半を占めるのは、前者である。名称(ママ)旧跡など一般客向けの観光スポットと異なり、満洲体験者の関心は、言うまでもなく、直接な体験と結びつくのような思い出の地(旧居、学校、会社、兵舎、開拓村、町並み、戦跡、収容所跡、集団自決跡)に向けられている。」(224頁)
  • 慰霊と現地住民の相克
    • 「〔……〕中国では、依然としては遺骨収集は実施されず、屋外での慰霊祭も許されずホテルの室内だけで行われるなど、いろいろと厳しく制限されている。開拓団の場合は、彼らは「大きくいって日本軍国主義の犠牲者である[中略]ある意味では、中国の農民と同じである」といった配慮から、80年代半ば以後、中国政府が1963年に建てた「方正県日本人公墓」にかぎって、慰霊祭は公にもできるようになった。開拓団以外の死者、特に元日本軍の慰霊祭は、「当地の人の感情を刺激する」とのことで、人目に触れるところで行われることが好ましく思われていない。」(225頁)
  • 中華ナショナリズム歴史認識の齟齬
    • 「1982年の「教科書事件」に代表される、日本社会で起きた一連の歴史否認の動きに触発されて、中国、とりわけ戦争・植民地遺産の集中する東北地方では、発掘、保存、及び戦争記念碑、博物館の建設が着手されるようになった。さらに90年代に入り、天安門事件後、国民統合と経済発展の諸要素と絡み合いながら、これらの戦争遺産の整備は、いままでの「階級」の文脈から離脱して、「勿忘国恥・振興中華」というスローガンが語るように、「国民」「民族」を提示する「愛国主義教育」の一環として利用されるようになった。「満洲においては、我々は相当に中国側に力を尽くしたと思っていたのに、とりわけ、牡丹江市などは、日本人が建設した街なのに、その街の人がよく集まる公園に、此のような像[注:抗日軍の8人の女性英雄像]があり、碑があるのは、驚きであり、又、無念な思いがする」と慰霊団に参加した元関東軍軍人が当惑を示したように、「満洲」観光はこういった歴史観の齟齬を顕在化する場となっているのである。」(226頁)
  • 満洲観光と疑似郷愁
    • 「80年代半ば以降、日本の観光業者が企画主体となるパッケージツアーの登場が、「満洲」イメージの社会化に拍車をかけた。満洲体験者が自主的に企画したツアーとは異なり、パッケージツアーは満洲引揚者をメインの客層と想定しながらも、企画者側も参加者側も満洲体験の持ち主とは限らない。この種のツアーは、いままで引揚者内部に閉じ込められていた一時的郷愁を、パンフレットや新聞広告などのメディアを通して、社会的に浸透させる疑似郷愁の装置として成長してきたのである。」(226頁)
  • 市場主義による中国側観光業の変化 日本人ウケする観光形態
    • 「〔……〕中国側は、社会主義イデオロギーから経済発展へ邁進しているなか、最近になって、中国は、日本人観光客のノスタルジックなまなざしを意識して、積極的に「満洲」への「可視感」に訴えているパンフレットをいくつか出している。1972年に設立され、中国で二番目の国営旅行社を輝く(ママ)中国旅行総社が昨年(※引用者註-2000年か?)に特別企画した「北京・大連-想い出の旅」(日本語)の一節を紹介しよう。「清岡卓行氏の名小説『アカシアの大連』で、有名な大連は日本の方にとって、郷愁の町です。多くの方々は大連で青少年時代を過ごし、大連を第二の故郷と思われます。当時の面影を浮かぶ建造物はまだ沢山残っています。大連賓館(旧大和ホテル)、中山広場(旧大広場)などはみな当時の有名なスポットです。また、当時の路面電車はまだ走り、多くの大連市民に愛用されています。/改革・開放を実施してから、大連は現代中国と日本を結ぶ町となり、多くの日本企業が大連に進出し、大連日本工業団地まで出来ました。大連は日本の方にとって、もっとも違和感のない町です。」このパンフレットは、北京に所在する中国旅行社総社の中国人スタッフによって作られ、中国旅游局の東京事務局を通して、直接日本人の観光客の目に触れられる。満洲経験者にとりわけなじみの深い文学作品をてがかりに、路面電車や建造物など満洲体験者の「原風景」を、大連と日本の歴史と現在とのつながりを感じさせるような語り口である。被害者としてのホストと、加害者としてのゲスト、という不均等な関係を内包しながらも、20年間、「満洲」ツーリズムの市場を共有している結果、双方の観光業者のまなざしは整合しつつあることがうかがえる。」(227頁)
  • 帝国の記憶
    • 「「満洲」をめぐる日本人のノスタルジーの射程は、帝国の膨張、支配、崩壊の全過程まで敷衍する。半世紀以上置き去りにされていた「帝国の記憶」は、くりかえし「観光」の場で消費の資源としてよみがえってくる。戦後における「満洲」観光の歩みはそのまま、「失われた故郷」としての「満洲」の記憶化を刻み込んでいる。一方、社会主義イデオロギーから脱皮しつつ、経済発展とネーション・ビルディングを同時進行している中国では、このような失われた「帝国の記憶」の再記憶化に抵抗したり、または共振したりして、「満洲」観光に複雑に対応していることも見過ごしてはならない。」(227頁)

高媛「「帝国後」と満洲観光」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005年、博士論文、233-280頁)

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周家彤「長春市における「満州国」遺跡群」『愛知淑徳大学現代社会研究科研究報告』(6)、2011、97-111頁

  • 趣旨
    • 「本稿は、「満州国」の首都「新京」であった長春市に現存する帝冠様式を中心とする建築群を取り上げ、それを紹介しつつ、その遺産の複雑な性格を明らかにし、その歴史的意義や現代社会における文化遺産の価値、観光資源としての可能性について検討することを目的としている。」(97頁)
  • 満洲国をめぐる日中のギャップ
    • 「日本人による観光客は、「満州の観光」、「大連と中国東北地方の旅」、「歴史の旅」、「懐旧の旅」などなどと進められ、かつての暮らしの跡を探るための旅のはずが、いざ観光地に到着したら、地元の雰囲気なじめず、当初の目的を果たせないということもあるようである。また、中国人の側では、「偽満州国」と言われるかつての日本植民地としての「満州国」での存在について、国辱という意識を持っているので、「満州国」についての観光事業活性化をしようにも、具体的にどのようにしたら、進退きわまる状況に陥っている。」(97頁)
  • 歴史遺産としての整備不足
    • 「歴史遺産についての建築様式や機能などについて資料不足のため、広く観光客への展示案内や解説は、通り一遍の表面的なものである。」(97頁)
  • 長春における「満洲国」遺跡
    • 長春市における「満州国」建築の主な遺跡には、「二宮」と「九部」がある。ここに「二宮」とは、「仮宮殿」と「新宮殿」であり、「九部」とは、「駐満日本関東軍司令部」と「満州国八大部」のことである。〔……〕「満州国」遺跡群の特徴としては、「偽皇宮」を除き、その遺跡は文化広場周辺に集中して存在し、その各々の様式は“独特”である。すなわち、それらは中国の伝統的な建築様式とは明らかに異なっている。その遺跡群はまた「満州国」時代の行政と社会システムの縮図でもある。」(98頁)
  • 新京における満洲国「八大部」
    • 「新民大街に沿って、「満州国」の「国務院」を始め、「八大部」と称する「軍事部」遺跡、「司法部」遺跡、「経済部」遺跡、「外交部」遺跡、「交通部」遺跡、「農業部」遺跡、「文教部」遺跡、「民生部」遺跡がある」(98頁)」
  • 現代長春において満洲国時代の遺跡がどのような現況であるかを紹介
    • 仮宮殿、新宮殿、国務院、八大部、総合法衙、神武殿、中央銀行関東軍司令部、司令部官邸、ヤマトホテル、汪兆銘駐満大使館の現況が紹介されている。
  • 「全国126 景観」
    • 「「満州国八大部遺跡」は、1988 年に「全国126 景観」の一つとして「中国国家級景観区」に指定され、近年、観光スプート(ママ)として注目されている。それとともに、「満州国」遺産の価値も質的に変化してきた。2007 年12 月の長春市第13 期第1 回の人民代表大会では、人民代表李立夫が「満州国」遺跡は「世界警示性文化遺産条件」をみだす(ママ)と述べ、「満州国」遺跡を文化遺産として申告するために、各方面の準備をしなければならないと提案した。李は、「満州国」遺跡を「警示性」すなわち「教訓」の遺跡として再評価することを提案したのである。」(109頁)
  • 満洲国」遺跡を利用した長春の観光業
    • 長春旅行局が近年、積極に開放方針を推進し、「満州国」遺跡を文化財として活かし、歴史の視点から文化交流課題に転換させ、さらに、文化経済課題に転換させている。新しい時代の要請に応えて「満州国」遺跡は、すでに「旅行資源」となっている。2009 年8 月長春市では、「満州国」遺跡観光専用の二階建ての観覧バスの運行を開始した。バスの始発と終点は「偽皇宮」であり、観覧バスは、「光復路」、「人民大街」、「文化広場」、「新民大街」、「人民広場」など16 個バス停を経由し、「満州国」時代の遺跡を全て観覧できるルートを提供している」(110頁)

周家彤「長春市における「満州国」遺跡群の諸様相」『現代社会研究科研究報告』(7)、2011年、139-149頁

  • 趣旨
    • 中国の解放戦争、解放初期、文化大革命、経済改革開放の4つの時期における遺跡の諸様相から、歴史遺産の時代性を明らかにし、そして現代市民社会の論争における「満州国」遺跡群の様相を明らかにする。
  • 国共内戦
    • 「「満州国」遺跡群は、国民党第60 軍の支配下にあり、大部分が国民党の軍政機関に使用されていた。中でも「満州国」皇宮は「松北連中」となった。「松北連中」とは、松花江北の解放区からきた逃亡した地主や資本家の子弟学校である。「満州国」国務院は、「励志社」と称するアメリカと国民党政府の連合米蒋特務機関に使用された」(140頁)
  • 国共内戦終結
    • 宮廷府と国務院のその後
    • 建造が中止されていた溥儀の新宮廷府が、国共内戦後に再開され、完成
      • 満洲国新宮殿は太平洋戦争中建造が中止され、基礎の部分しかなく使用価値もなかったが、工事は再開され梁啓超の息子の梁思成により完成した。「1954 年に中国科学院院長郭沫若により、「地質宮」と命名され、「長春市地質学院」の教学棟として使用されてきた。2011 年現在それは吉林大学付属地質博物館となっている」(141頁)
    • 「偽満洲後宮陳列館」の誕生
      • 「1962 年7 月に、中国共産党中央宣伝部副部長周揚が「偽皇宮」を観覧したことを契機として〔……〕1962 年12 月1 日に吉林省常務委員会は、周揚の指示により〔……〕「偽満州国皇宮」遺跡を吉林省文化局に引き渡し、陳列館を企画する決定について合意〔……〕そして12 月31 日〔……〕「偽満州皇宮陳列館」に「弁公」・「陳列」・「研究」・「資料」の4 室を設置し、事業人員編制68 名を割り当てるという報告がなされた。それを受け、翌1963 年7 月に「偽皇宮」に「偽満州国皇宮陳列館」と「吉林省博物館」が併設された。こうして「偽満州国皇宮陳列館」は、吉林省の文化事業の一部として、歴史的に「満州国仮宮殿」の姿を国内各地の見学者に開放することになった。」(141頁)
  • 文化大革命
    • 「「満州国」遺跡も「破四旧」の対象とされ、一部は破壊され、他のものは破壊されていないまでも疵つけられた。閉館した博物館も紅衛兵によって破壊され、収蔵されていた文物の大半が流失してしまった。長春市における他の「満州国」遺跡はこの時代に、無産階級を擁護する文化大革命に対立するシンボルであるかのように破壊の対象とされていた。」(142頁)
  • 改革開放期
    • 「1982 年8 月4 日に、吉林省編制委員会が「偽満州国皇宮陳列館と省博物館自然部の回復と増員に関する74 号文件」を下し、8 月16 日、「偽満州国皇宮陳列館」の回復を発布した〔……〕2 年という時間を経て、「勤民楼」復元工事が完了し、元「満州国」皇宮の物品6 千余件が収蔵され、展覧が開始された〔……〕。2003 年2月「偽満皇宮博物院」に改称され〔……〕2004 年8 月15 日に復元工事が完成し、全面的な開放が実現された」(142頁)
    • 「2007 年までに吉林省文化庁は、前後6 回省内の271 所文化財を考察し、保護政策を策定した。その内、保護価値がある「満州国」遺跡は、第2 回目の調査では1 処、第3 回目3 処、第4 回目1 処、第5回目2 処、第6 回目で7 処であった。その結果、今日吉林省長春市に限って言えば、近現代史跡及び代表的な建造物の価値として認定されているのは表4 に示した14 点である。」(142頁)
      • 1 皇宮遺跡、第2 回・1981.4、偽満皇宮博物院、光復路3 号
      • 2 日関東軍司令部遺跡 第3 回・1983.11、中共吉林省委員会、人民大街47 号
      • 3 国務院遺跡 第3 回・1983.11、吉林大学医学院、新民大街2 号
      • 4 中央銀行遺跡 第3 回・1983.11、吉林省人民銀行、人民大街91 号
      • 5 建国忠魂廟遺跡 第4 回・1987.10、空軍長春飛行学院、人民大街193 号
      • 6 司法部遺跡 第5 回・1999.2、吉林大学新民校区、新民大街8 号
      • 7 総合法衙遺跡 第5 回・1999.2、空軍461 病院、新民大街8 号
      • 8 交通部遺跡 第6 回・2007.5、吉林大学地方病学院、新民大街1163 号
      • 9 経済部遺跡 第6 回・2007.5、吉林大学第3 病院、新民大街829 号
      • 10 軍事部遺跡 第6 回・2007.5、吉林大学第1 病院、新民大街71 号
      • 11 民生部遺跡 第6 回・2007.5、吉林省石化設計院、人民大街3623 号
      • 12 外交部遺跡 第6 回・2007.5 、太陽会館、建設街1122 号
      • 13 新京警察庁遺跡 第6 回・2007.5、長春市公安局、人民大街2627 号
      • 14 日憲兵司令部遺跡 第6 回・2007.5、吉林省政府、新発路329 号
  • 現在の長春市における満洲国遺産への対応
    • 「2009 年7 月、長春市人民政府が「満州国」遺跡の保存を「2008-2012 長春市文化事業と文化産業発展計画」に取り入れ、2008 年から2012 年の間に「主な文化事業建設の任務」(第3 項第3 条)のひとつとして「文化遺産の保護」を重点政策としていた。具体的には「満州国」遺跡を長春市内の文化遺産として保護し、ユネスコ文化遺産登録のための準備を計画した」(147頁)

周家形「長春市における「満州国」遺跡群の位置づけ : 「新民歴史文化名街」を例として(東海地区2012年度第3回例会,例会報告要旨)」『現代中國研究』(32)、2013年、80頁

  • 趣旨
    • 満洲国の首都新京において形成された「順天大街」建築群は、中華人民共和国に接収され、大学、病院、博物館などに利用されるようになった。「順天大街」は文化の中心となり「新民大街」と称されるようになった。1982年に公布され、その後3回改正された「文化財保護法」では、旧日本帝国の満洲国遺産のうち「国務院」遺跡、「総合法衙」遺跡、「軍務部」遺跡、「司法部」遺跡、「経済部」遺跡、「交通部」遺跡が長春市、吉林省文化財として位置付けられた。そして2012年6月には「新民大街」は「中国歴史文化名街」となった。この歴史文化遺産を負の文化遺産と見なすのか、それとも国際交流の遺産とするのか、その保護の姿勢が問われている。

周家彤「長春市における「満州国」遺跡群の保護状況に関する考察」『愛知淑徳大学現代社会研究科研究報告』(9)、2013年、79-90頁

  • 趣旨
    • 戦後中国では文化財保護法によって満洲国時代の数多くの遺産群が保護の対象となった。満洲国の遺産が保護される理由は「再び同じような歴史を繰り返さないため」であり「現代社会へその歴史を訴えるような「警告的な性格」を持つ」からである。その遺産の一部は観光などで活用されているが、多くは保護するだけにとどまっている。
  • 現代中国における満洲国遺産を利用した観光
    • 国務院と宮廷府
      • 「1994年には、長春市旅遊局に支持され、民間投資による「偽満州国国務院博物館」が開館した。これに長春市旅遊局は補助金を出している。それはその後の約9年間にわたり、長春市の観光業に大きな役割を果たし、国際的な注目を集めた。だが、2003年、建物の使用権を持つ吉林大学は教学用施設の不足を理由に賃借契約を終了させたため、その展覧館は閉館を余儀なくされた。閉館に至るまでその「偽国務院国務院博物館」は、「偽満皇宮陳列館」と共に国内外の観光客を集め、「満州国」に関する歴史的、文化的な認識を高めさせた。他方2001年2月18日、「偽満皇宮陳列館」は展示内容を充実させ名称も「偽満皇宮博物館」と改名された。その名称には歴史的遺跡の学術的性格を見て取れる。」(83頁)
    • 宮廷府と八大部(軍事部・司法部・経済部・外交部・交通部・農業部・文教部・民生部)
      • 「1988 年に「満州国」皇宮と「八大部」遺跡が「中国国家級126 景観区」の一つとして国家旅遊局に活用されて以来、観光の名所として注目されている。」(83頁)
    • 長春市の観光政策 「世界警告性文化遺産
      • 「2007 年12 月の長春市第13 期第1 回の人民代表大会では、人民代表李立夫が「満州国」遺跡は「世界警告性文化遺産」であることを述べた。李は、「満州国」遺跡を「警告性」すなわち「歴史教訓」の遺跡として再評価することを提案したのである。その提案は2009 年3 月8日、長春市長崔傑により全国人民代表大会に提出された。一方、2009 年8 月長春市では、「満州国」遺跡観光専用の二階建ての観覧バスを運行し、「満州国」遺跡群をさらに活用し始めた。その後、2009 年1 月20 日、長春市政府は「吉林省旅遊産業発展に関する決定」を発表した。続いて「長春市光復路旅行文化産業園建設項目」を決定した。さらに、文化経済効果を創出するために、長春市旅遊局が「満州国」遺跡群を観光の中心にすえた『長春市旅遊発展総体企画(2011―2025)』19)を作成し、並行して「長春市偽満遺跡保護と開発專題研究」を行った。」(85頁)

津田良樹「海外神社跡地から見た景観の持続と変容 旧満洲国国都新京(長春)の海外神社跡地調査」、『非文字資料研究』(28)、2012年、18-19頁

https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=8787&item_no=1&page_id=13&block_id=21

  • 要旨
    • かつて満洲国の新京にあった新京神社、宮廷府建国神廟、建国忠霊廟、忠霊塔、関東軍司令部が現在(2012年3月当時)どのようになっているのかを調査した報告。
  • 新京神社は幼稚園になっている。
    • 「旧境内が現在吉林省人民政府高官の子弟の幼稚園と長春市政府高官の子弟の幼稚園とに分割して使用されている。〔……〕社殿で残っている部分は拝殿とかつて本殿へと繋がっていた幣殿の一部である。外観は切妻造で木造の破風板や垂木などが残り、かつての面影を残している。とはいえ拝殿の建物だけが時代から取り残されたかのように、周囲を取り囲んで建てられた園舎はパステルカラーで彩られメルヘンチックな様相である。旧拝殿内部にも入ることができたが、残念ながら昨年大改修が行われたとのことで、真新しい床・天井が張られ、柱を赤、壁面や長押を白で真新しく塗装され、園児達の遊戯場に変身している。そのため、拝殿時代の様相を伺う痕跡もほとんどない」。内部が改装されているとはいえ、拝殿の外部が残っていることは興味深い。
  • 建国新廟
    • 宮廷府は現在、偽満皇宮博物館となっており、かつての建国新廟は跡地として残っており「天照大神防空壕」が確認された。
  • 建国中霊廟
    • 建国中霊廟は、中国空軍の管理下に置かれているが、荒れるがままに放置されており、廃品回収業者が住み着いている。
  • 新京忠霊塔
    • 跡形もなく軍関係の学校となっている。
  • 関東軍司令部

松村嘉久「長春における満州国時代の観光資源をめぐって」『日本地理学会発表要旨集』 2014a(0)、2014年、171頁

  • 趣旨
    • 長春における満州国時代の近代遺産が現在,「観光」という文脈のもと,どのように保全・利用されているのか,加えて,見る側と見せる側のせめぎあいのなか,満州国時代の観光資源がどのように編集されてきたのかに迫りたい」
  • 現存している満洲国建築
    • 満州国時代の近代建築が現存しているのは,旧市街地の人民広場や新民広場や文化広場の周辺,南北に走る人民大街や新民大街の沿道である。これら近代建築の多くは,補修保全され大学や病院などの施設として利用されていて,文物保護単位などで史跡指定はされているものの,一般の観光客は立ち入り難い状況にある。」
  • 観光利用されている満洲国遺産
    • 「観光利用されているのは,太陽泛会所(旧満州国外交部)と松苑賓館(旧関東軍司令官官邸)くらいである。」
  • 関東軍司令部
  • 博物館となっている宮廷府と満映
    • 「旧市街地の中心の人民広場から,東北の外れに立地する「偽満皇宮博物館」と,西南の外れに立地する「長春電影制片廠」(旧満映)は,博物館として内外の観光客に公開されている。」
  • 中国に送り出す日本側での宣伝と中国側での解説のギャップ
    • 「中国では国内観光振興と愛国主義教育との連動が強まり,見せる側の観光資源の意味づけも変容し,「愛国」・「抗日」・「中華民族」といったナショナリズムを喚起する言葉が目立つようになる(松村 2000)。日本人の中国東北観光では,送り出す日本側での宣伝と,受け入れる中国側での解説に 80 年代からギャップがあり,90 年代に広がった。」
      • 松村 嘉久 2000. 祖国中国をいかに見せるのか─観光,スペクタクル,中華民族主義─. 中国研究月報623:1-26
  • 中華ナショナリズムと利用される満洲国遺産と観光資源化されない満洲国遺産
    • 「偽満皇宮博物館や長春電影制片廠などは,域外からの国内観光客の対内的なまなざしを意識して,満州国の負の記憶を増幅し,ナショナリズムを強化する象徴として,利用されている。しかしながら,その他の近代建築の多くは,それらを日常生活のなか淡々と利用することが,負の記憶を克服する手段であるかのように,全く観光資源化されていない。」