雑録

蘭信三編著『帝国以後の人の移動 ポストコロニアリズムとグローバリズムの交錯点』(勉誠出版、2013年)

蘭信三「はじめに」より

  • 「帝国以後の人の移動」という新視覚
    • 従来、内地対朝鮮、内地対台湾、内地対満洲、朝鮮対満洲という二地域・国家間での人の移動を捉える研究蓄積は相当なレベルに達していたが、日本帝国内における人の移動の連関性をトータルに捉えるという試みは少ない。以下、具体的な先行研究。
    • 大江志乃夫ほか編『近代日本と植民地 5 膨張する帝国と人流』(岩波書店、1993年)
    • 岡部牧夫『海を渡った日本人』(山川出版社、2002)
      • 海外移民と勢力圏への植民を総合的にアプローチ
    • 蘭信三『日本帝国をめぐる人口移動の国際社会学』(不二出版、2008年)
      • 内地から外地、外地から内地、外地から外地という三類型の人の移動から、「日本帝国をめぐる人の移動」の多様性と連関性を明らかにしようとする新視覚を提示。
  • 課題
    • 帝国形成期や帝国崩壊直後だけでなく、80年代以降のグローバリゼーション下の人口移動に「帝国をめぐる人口移動」の影が色濃く残っており、それらをポストコロニアルな人の移動、すなわち「帝国崩壊以後の人の移動」という文脈で考察すること。
  • 本共同研究の視座
    • (一)引揚げや送還という帝国崩壊後の人の再移動が中心。それ以降の冷戦期の人の移動や残留あるいは定着、そしてグローバル期の人の移動までを射程に収める。
    • (二)帝国拡大期における中心地と周辺をめぐっての移動(植民地への日本人の移動、移民・植民ととみに、内地への「自由移民」、強制連行、留学)とともに、帝国の周辺同士の移動(朝鮮から満洲、台湾から満洲、朝鮮からサハリン、台湾から南洋諸島)はどのようであったか
    • (三)帝国内の人口移動、日本内地から北米・南米・アジアへの移民、どのように関連していたのか
    • (四)人口移動を促進した移民政策や植民政策はどのように展開され、それぞれがどのように連関し、矛盾していたのか
    • (五)戦後の旧帝国圏において帝国形成に伴って移住した人びとが、戦後の引揚げや送還、残留、定着後の当該社会でどのように「包摂」されたか、あるいは「排除」されていったのか
    • (六)20世紀の東アジアの近代化・帝国化のなかで、いわゆる日本人、朝鮮人、中国人、ロシア人などの東北アジア諸民族の人の移動をより大きな、総合的な視点かたちで明らかにする
  • 『中国残留日本人という経験 「満洲」と日本を問い続けて』(勉誠出版、2009年)
    • 中国残留日本人とは
      • いわゆる残留孤児や残留婦人のことであり、主に戦前期は満洲移民として内地から満洲に渡り、敗戦前後の逃避行や引揚げの過程で緊急回避として中国人家庭にはいり、冷戦期の日本と中華人民共和国の国交断絶状態によって中国への残留を余儀なくされた。そして彼女ら彼らは冷戦体制が緩む1972年の日中国交正常化によって帰国が可能となり、81年以降の残留孤児の訪日調査、90年代の日中双方社会のグローバル化のなかで帰国が促進され、帰国し定着した。
    • 判明したこと
      • 中国残留日本人という経験に関する研究では、残留孤児や残留婦人だけでなく、その子や孫や配偶者を含めて対象としているため、その多様な属性によって経験に幅があり、主に世代や時期的な経験の違いが重要であることが判明した
    • 明らかにしたこと
      • 中国残留日本人を理解するためには、戦前の帝国形成期や戦後の帝国崩壊期だけでなく、冷戦期、デタント期、そしてグローバル化インパクトを与える現在までをも通して考察しないと十分でないことを明らかにした。
    • 結論
      • 満洲国崩壊との関連から「日本帝国の落とし子」でありポストコロニアルの象徴的存在と考えられてきた中国残留日本人も、帝国崩壊後の国際社会あるいは日中関係という大きな枠組みに基本的に規定されていた。
      • ポストコロニアルな移民が帝国以後の時代をどう生き抜いてきたのかを明らかにするという問題意識が培われた。

蘭信三「帝国以後の人の移動」pp.4〜45

日本近代をめぐる人の移動の概説

  • 満洲研究における先行研究の整理(pp.8-9)
    • 1980年代までの研究
      • 満洲国は日本の傀儡国家(偽満洲)であり、その文脈に沿って満洲移民なども如何に中国農民を搾取したかという問題設定による研究が主であった。→満洲移民史研究会編『日本帝国主義下の満州移民』(1976)。
    • 1990年代の研究
      • 転換点を迎える。満洲国の実態やそこでの植民地官僚の日本帝国官僚との循環や大学などの研究機関を媒介とする知の連鎖などの実態が究明される。→山本有三編著『「満洲国」の研究』(京都大学人文科研究所、1993年)、山室信一『キメラ−「満洲国」の肖像』(中公新書、1993年)。
    • 近年の研究
      • 満洲国は、急増した人口、流動する人々をどのように統治し、管理したかという問題意識による研究が成果をみている。→山中峰央「「満洲国」人口統計の推計」(『東経大学会誌』245号、2005年)、郄野麻子「「満洲国」における労働者の管理と指紋法」(『年報社会学論集』第25号、2012年)、遠藤正敬『近代日本の植民地統治における国籍と戸籍−満洲、朝鮮、台湾』(明石書店、2010年)
    • 先行研究批判
      • 20世紀前半の満洲の人口増が19世紀後半のアメリカのそれと同程度であり、華北山東半島からの国内移民や朝鮮、日本からの移民を引きつけていた「人口急増地としての満洲」に関する人の移動という視覚による研究はいまだ十分ではない。
  • 中国の近代世界システムへの組み込み/組み込まれ(pp.12-13)
    • …東アジアと冊封体制の盟主であった清は英国とのアヘン戦争(1842年)に敗れ、南京条約(同年)によって五港を開港して海禁政策は事実上機能しなくなり、アロー戦争(58〜60年)後の北京条約(1860年)で、清は中国からの海外移民を公認し、海禁政策は終了した。
    • 西欧植民地帝国の中国進出のなか、中国は近代世界システムの荒波に呑みこまれた。しかも18世紀から大きく増加した人口が、アヘン戦争やアロー戦争によって民族産業基盤が破壊されたことで社会不安が生じ、社会変動も相俟って相対的な人口過剰と化していた。双方の需要と供給が相まって、中国(主に広東地方)から東南アジアや北米の労働市場に向けて契約移民(いわゆる中国苦力)が送出されだした。ここに奴隷に変わって中国人苦力という新たな低賃金労働力が発掘され、アジアの西欧植民地や北米の労働市場に新たな労働力として招き入れられた。世界労働力市場とアジア人契約移民がこのような経緯で19世紀半ばに出会ったわけである。
  • 日本の近代世界システムへの組み込み/組み込まれ(pp.13-14)
    • ……日本は、中国の経験に学び、開国によって欧米を中心とする近代世界システムへと参入し、明治維新後は西欧近代を基準とする国民国家形成を目指してスタートとしていた……明治日本は前近代社会から近代的な社会へドラスティクな構造転換のなかで様々な社会変動が生じた。なかでも「多産多死から多産少死へ」という人口転換をへて、人口増加率1%という急激な人口増加(人口爆発)社会となった。明治初年の1872年の人口約3500万人が1936年にはその倍の7000万人、1970年には三倍の1億人を超える人口規模になっていた……この「人口爆発」のなか、主に内地農村で急増した人口、とりわけ次男、三男は、農村の潜在的過剰人口となるか、国内の大都市や産業都市へと向都離村し、都市の雑業層(あるいは都市下層)を形成していった……
    • 日本からの国境を越える労働力移動(契約移民)は…世界的な労働力市場と中国人苦力とが出会い、ついで日本農村の過剰人口がそれに結び付いたことで生じた。すなわち、1850年奴隷制が廃止され、代替労働力を模索していたハワイのサトウキビ農園、60年代の米国大陸横断鉄道の敷設工事における労働力需要、80年代の奴隷貿易廃止によるブラジルのコーヒー農園における代替労働力への需要は、契約労働者として南欧やアジア(中国やインド)からの労働者を雇い入れだし、世界の労働力市場に新たな流れが形成されつつあった……
    • ちょうどその折に、日本は1884年以降の松方財政政策によって急激な農民層分解が生じており、農村に生計が成り立たない過剰人口が急増し、農民の流民化が促進されていた。このことで浮上した農村の人口問題の解決と、海外からの送金という二重の目的を実現しうる海外移民を推奨する政策のもと、ハワイ政府からの契約移民の呼びかけに正式に応じ、日本の過剰人口は海外移民へと通路づけられた。
  • 植民地・勢力圏における日本人の職業構成(p.17)
    • …植民地の日本人の多くは農村出身者であったが、植民地の農村への入植者は少なく、植民地権益と結びつく都市での小売店など中小商工業経営者や、植民地官僚や、鉄道などインフラ産業や重化学工業などのテクノクラートが主であった。ちなみに、在台湾日本人の職業構成は、植民地官僚を示す公務・自由業(35.6%)と商業・工業(37.6%)で7割をこえ、在朝鮮日本人のそれも公務・自由業(39.5%)と商業・工業(39.5%)が実に8割になんなんとしていた。在関東州日本人のそれは公務・自由業(22.7%)、商業・工業(41.2%)、そして在満洲国日本人のそれも公務・自由業(25.1%)、商業・工業(36.7%)と、ほぼ同じで6割強を占めていた。当時の日本内地社会の5割が農業に従事していたことを思い返すと、植民地における多数の日本人人口の職業構成が植民地官僚や商業・工業に特化していたことは、きわめて注目すべきことであった。
  • 日本帝国と人の移動(pp.18-19)
    • 植民地支配の日本的特徴は、後発の植民地帝国として英米仏などの欧米列強に追いつくため、本国と植民地の地理的近接性もあいまって、植民地の産業水準を本土並にし、そこでの社会制度を「日本化」していこうとしたことである。そのために、日本的秩序や文化を植え込む尖兵として日本人が植民地や勢力圏へ移住していくのを推奨していた。その典型が、農村地区で反日ゲリラ運動を撲滅し、農村地域の治安維持と日本的秩序の樹立を目指して創設され、1932年から国策として送出された満洲国への27万人の農業移民事業であった…
  • 帝国の崩壊・引揚者の包摂と排除(pp.25-26)
    • ……帝国崩壊に伴って様々な(移動する)マイノリティを生じた。そしてそれは、単に人びとが「新たな国境」を越えて大量に動き、あるいは残ったというだけではなく、その人びとが戦後の当該社会にどのように包摂され、あるいは排除されていったのかという戦後社会における社会統合問題と関連していた。
    • …まず、このことを日本における引揚者の場合から見てみよう。終戦直後の日本社会は長期戦の総力戦体制によって疲弊し、戦災によって産業機能は著しく低下し、それに何よりも植民地の喪失による痛手から苦境に立たされていた。そこに、内地総人口の約1割に当たる復員兵や引揚者を受け入れ、経済的な苦境や社会不安が助長され、何よりも食糧難にあえいでいた。そのようななか引揚者は、戦後日本社会に十全に包摂されたわけではなかった。
    • 引揚者は外地から命からがら引揚げてきたが、その体験は周囲に理解されないどころか、多くは家族親族や地域社会から「穀潰し、余計もの」とのけ者にされた。たとえば、満洲への農業移民は、戦前の送出時には出兵兵士よろしく歓呼の声で送り出されていながら、引揚げの時には、極端な場合には親や親族から「暗くなってから帰ってきてくれ」と言われる始末であった。一般社会からも、「帝国主義の手先」、植民地支配に加担していた引揚者というスティグマを貼られていた。食糧問題解決のため終戦直後から国内緊急開拓事業が実施されたが、引揚者の約1割が人里離れた開拓地に入植していかざるをえなかった。そこは、隣接する既存村落社会から余計ものと排除され、一般社会からも隔絶されていた。満洲での引揚げまでの時と違って略奪の心配も生命の危機もないものの、祖国で排除され赤貧の生活を送り、祖国に帰りながらこんな辛い思いをするとは思わなかった、という。
    • だが、この疎外感も朝鮮戦争による特需、1955年以降の高度経済成長、そして社会保障制度の充実のなかで次第に薄れていく。経済成長のなか日本社会において戦争に関わる記憶が薄れていき、また生活にハンディのある引揚者は生きていくのに精一杯で過去を振り返る余裕もなかったという。何よりも、引揚者は国籍条項による排除はなく、経済成長、社会福祉の充実といった生活の質の向上を次第に享受していった。経済の高度経済成長は引揚者を含めていわゆる日本人の社会統合に大きく資したと言えよう……
  • 冷戦崩壊と人の移動(pp.28-29)
    • 日本と旧植民地・旧勢力圏であった東アジアや東南アジアをめぐる人の移動の第三の転機(引用者註:第一は敗戦、第二は冷戦)は70年代から80年代にかけての東西対立の弱まり(デタント)、冷戦体制の崩壊、そしてグローバル化にあった。
    • 戦後の東アジアは終戦の混乱がおさまるとともに冷戦体制に規定されだし、帝国崩壊後の様々な人の移動(還流)も次第に規制され、沈静化していった。冷戦下での人の移動は東西のブロック内移動が主であり、ブロックを越える国際移動は難しかった。ソ連でも中国でも基本的にはこの期間の海外移民は禁止されており、「竹のカーテン」によって引き裂かれていた中国残留日本人の再移動は1970年代の米中のデタント、直接的には72年の日中国交正常化を待つことになった。「鉄のカーテン」に引き裂かれていたサハリン残留日本人の一時帰国はペレストロイカ後の89年に実現し、永住帰国は91年のソ連邦崩壊の年となった。
    • 1971年の米中接近、同年十月中華人民共和国の国連代表選出によって、東アジアの冷戦体制も崩壊し、いよいよ本格的なグローバル化の時代となった。このような世界情勢の転換によって、人の移動に関してもそれまでの抑制から促進へと大きく転換した。日本や東アジアにおける国境を越える人の移動は再び胎動しだし、90年代になるとそれは次第に大きな流れとなって現れてきた。それは、まるで冷戦期の抑圧がなくなったことで、その間潜伏していた人の移動へのエネルギーがいっきに噴き出したかのようで、東アジアもグローバルな人の移動が躍動する時代になっていった…

その他論文メモ

  • 上田貴子「中華帝国の溶解と日本帝国の勃興」(pp.46-56)
    • 日本帝国は前近代における中華帝国冊封システムの上に成立したが、前近代のゆるやかな国際体制とは異なり、近現代の日本の支配は国民国家としての制度適用が多くのところになされたため、文化的摩擦が起こった。
  • 猪俣祐介「満洲引揚げにおける戦時性暴力」(pp.249-270)
    • 引揚げ日本人女性への性暴力はソ連兵や原住民によるものばかりクローズアップされていたが、引揚げ中に日本人男性が日本人女性に性的暴行を加える事例もあった。なぜそれが取り上げられなかったかというと、日本人女性がソ連兵に暴行を受けたという被害者性が薄れてしまうから。
  • 安岡健一「戦後農地改革のトランスナショナル・ヒストリー」(pp.541-580)
    • 戦後農地改革では地主の土地が国家により買収され小作人に売却された。戦前・戦時中に国外に進出していた土地所有者たちも、最終的に不在地主とされ土地を買収された。これに対し、在米不在地主たちは抵抗運動を行いもしたが、アメリカへの永住・帰化が目指されるようになり、将来の帰国を希望する不在地主たちの要望は埋没した。
  • 外村大「高度経済成長期後半の日本における外国人労働者問題」(pp.603-636)
    • 高度経済成長後半においては外国人労働者の使用が求められるようになった。技能研修や沖縄などでは外国人労働者の導入が図られたが、過去の植民地支配や強制連行を想起させることもあり、即時導入にはならなかった。そしてオイルショックが起こり高度経済成長が終焉したため、外国人労働者の導入の議論もいったんは収束した。その後、バブル経済となり外国人労働者の導入の議論がまた始まるが、その時には帝国の記憶は随分と薄れていた。
  • 中山大将「サハリン残留日本人」(pp.733-782)
    • 日本の敗戦により、樺太では国民国家建設が行われたのではなかった。発生したのは、国民帝国の競存体制から脱落した日本帝国の植民地・樺太ソ連という別の国民帝国が編入するという事態であった。特に韓人の家族として残留した日本人は、日本、ソ連、韓国、朝鮮と複数の国境を跨ぐことになった。1950年代後半の日ソ間、ソ朝間の関係変化や1970年代のサハリン墓参団を経てポスト冷戦期に新たな局面を迎える。日本及び韓国への一時・永住帰国を選択肢に持つようになった。だが祖国への永住帰国に際して、家族との軋轢も生じさせている。