小林英夫『帝国日本と総力戦体制』(有志舎、2004年)

  • 本書の趣旨(pp.2-3)
    • 日本と中国・東南アジアのを複眼的に見ながら、ファシズム型総力戦体制の形成と崩壊(満州事変勃発から日中戦争・アジア太平洋戦争終結)の過程を、総合的・構造的に明らかにしていきたい。
    • その際、戦前・戦中のファシズム型総力戦体制としては、アジアの植民地・占領地を取り込むことに失敗した日本が、一転して戦後においては、アメリカの冷戦型総力戦体制の一環に見事に適応し、戦前から継承された同じ総力戦型システムで日本国内とアジアを包む込むことに成功したことを指摘したい。
  • 日本の華北侵攻(p.27)
    • …日本軍の満州侵攻は、満州占領にとどまらず華北侵攻を生みだしていったが、それはどのような原因によるものなのだろうか……当初、満州統治の安定確保(つまり「防共」)という課題が主目的だった関東軍の対華北侵攻が、1933年5月の塘沽停戦協定締結以降、華北資源確保(より広くみれば「市場」をふくむ)の方向に転換していく…
  • 華北における「第二満州国」建国の失敗(p.33-34)
    • 華北分離工作を「第二満州国」を華北五省に作り上げるという日本軍部の当初の構想は、なぜ破綻したのだろうか。中国民衆の反日気運の高揚が大きかったことは事実だろうが、なによりも日本軍部をして侵攻を断念させた直接的要因は、1935年11月国民政府が実施した幣制改革の成功だった……かつて満州で日本軍が実施したような現地政権の金融的中枢をなす中央銀行の設立、幣制改革の実施→円経済圏への包摂という占領地支配のパターンは、国民党の幣制改革の実施により完全に破綻し、華北に「第二満州国」を作る構想は失敗に終わったのである。
  • 日中戦争の時期区分(pp.59-64)
    • 日中戦争の拡大過程は、1937年7月の盧溝橋事件以降1941年(昭和16)11月のアジア太平洋戦争突入まで大きく第1期とし、日米開戦以降、敗戦までを第2期とする。そして第1期は、1938年10月の武漢作戦の終了を前後して二つの小区画に分けることができる。
    • 第1小区画に該当する1937年7月以降38年10月までの時期の特徴は、英・米の対日宥和政策に助けられて日本軍の国民政府打倒をめざす戦争が、その極限までエスカレートした点にあり、他方、国民政府側も壊滅的打撃を受けることなく、重慶に後退し、中国共産党も占領区後方の華北に複数の辺区(解放区)を形成することにより、全体として中国側も抗戦体制の整備を完了した点にある。
      • …日本軍の軍事侵攻が、38年8〜10月の武漢作戦で限度に達していたことはそれを如実に物語る。武漢作戦で華北・華中に散開した日本軍の兵力は24個師団、これに朝鮮・満州に駐屯する兵力9個師団を加えると33個師団に達し、日本国内に残る兵力わずか1個師団というみじめな状況におちいっていたからである。
      • 国民政府を屈服させることができないまま、その戦争を極限までエスカレートさせたこの武漢作戦をもって、ほぼ第1期第一小区画の時期は終わりをつげる…
    • つづく第1期第二小区画の時期は、1938年(昭和13)の10月の武漢占領以降1941年12月のアジア太平洋戦争開始までである。この時期の特徴は、日中戦争が長期泥沼化状況を呈するなかで、日本側が、軍事侵攻方針から和平工作に重点を移しつつ占領地行政に主力を注ぎはじめること、これに対し国民政府側も抗戦体制の構築を本格化させる点にある。国民政府がこの時期を「第二期戦時経済建設」(興亜院政務部『重慶政府の西南経済建設状況』)と称する理由もそこにある。
  • 日中物資争奪戦と国民政府の幣制改革(p.68)
    • …1935年11月の幣制改革事業の成否は、国民政府系銀行による金融支配と金融機構による全国的な物資流通機構の掌握いかんにかかっており、それが成功したということは、国民政府系銀行の全国制覇と全国物資流通機構の掌握がかなりの程度進行していたことを意味していた。こうした前提があれば、日中戦争勃発以降も、国民政府は極論すれば、一片の法令によって、日本占領地区後方に「陸の孤島」としてとりのこされた上海と中国奥地を結ぶ全国の金融と流通機構をコントロールできたのである。日本の側からみれば、広大な中国沿岸地域を占領したものの法幣を駆逐できず、物資争奪戦に勝利することもできなかったのである。
  • 総力戦と総力戦体制(p.104)
    • 総力戦の特徴
      • (1)航空機をはじめとする新兵器の開発にともない、戦場が抗戦諸国の全土に及んだこと
      • (2)そうした戦争の質的変化にともない、前線と銃後の区別が失われ、軍人のみならず全国民や植民地資源の戦争への積極的動員が重要な意味をもってきたこと
      • (3)全国民的規模での戦意の高揚が戦争の勝敗を決定したこと
    • 総力戦により求められた体制(p.104)
      • 戦争指導体制の一元化、とりわけ軍と企業家の間の連携強化を大前提に、国民諸階層と植民地の資源を戦争目的に動員していく体制の確立が重要な意味をもってきた…
    • 総力戦体制とは
      • 国家の総力をあげて世界再分割闘争に勝利することを保障する体制であり、その内容は、たんに、資源・資材・資金・労働力をどう配分するか、といった、物資を調達する体制にとどまらず、それを前提に、軍需「生産力拡充」を図り、急激に軍事力を強化して長期持久戦に勝ち抜く一個の政治体制だったのである。
  • 総力戦思想の日本への導入(p.107)
    • …多くの陸軍軍人がヨーロッパに派遣され、大戦中のヨーロッパの総力戦研究を行った結果、研究がより深まっただけでなく、帰国後、彼らを中心に、総力戦に備える体制づくりをめざす陸軍軍人グループが形成された…1921年10月、ドイツのバーデン・バーデンに集まった陸士16期の永田鉄山・小畑敏郎・岡村寧次による「バーデン・バーデンの盟約」やこれを端緒とするその後の石原莞爾に代表される陸軍軍人の活動は、それを物語っているといえよう。
  • 戦間期日本において重化学工業の発展を阻害した国内要因(p.112)
    • …三井・三菱といった既成財閥の構造そのもののなかに、重化学工業化を阻止する要因があったこと…「日本型コンツェルン」の特徴の一つは、資本の投下部面が種々様々であり、しかもこの種々様々な資本投下部面が非常にしばしばコンツェルンの基本的生産と殆ど何らの依存関係もなくまた結びつきもない」と指摘されていたように(ワインツワイグ、永住道雄訳『日本コンツェルン発達史』)、三井・三菱傘下の企業群を見れば、鉱業、製造業(鉄鋼・造船・肥料)、紡績業等に加え、商事・銀行部門も網羅しており、「依存関係もなくまた結びつきもない」どころか、利害関係が相対化する部門をも包摂していたのである。こうした種々さまざまな部門を網羅した既成財閥にとって自己の企業内での利害関係の統一を図ることがすこぶる困難だった…1920年代、欧米の重化学工業製品が対日輸出攻勢をかけている実情では、既成財閥が、その輸入に主力を注ぎ不況下の国内産業へは電力事業投資を例外とすれば、極力それをおさえ、大戦中に重化学工業へ投資した資金の回収に全力をあげたのは、けだし当然だったといわざるをえない。
  • 満州事変から2.26事件までの期間における軍部の国内体制改編の動き(pp.117-118)
    • …軍部によるクーデタの最大の特徴は一夕会…、桜会…に結集した少壮軍人や大川周明北一輝・井上日昭らの影響をうけた少数の軍人・民間人の参加によって決行されたこと…
    • 第二の特徴は、民衆の要求をくみあげ、民衆を組織化し、それを基盤に綿密な政権構想にしたがい事を運ぶという傾向は希薄で彼らの採用した主たる戦法は「君側の奸」の暗殺だったことである。彼らの暗殺リストにのり、かつ暗殺された者の大半が、重臣・財閥の巨頭だったことは、それを示しているといえよう。このように、国内政治体制改編をめざす彼らの実行力には限界があり、活動舞台は狭かったといってよいだろう…
  • 軍部クーデタの国内政治体制への影響(p.118)
    • …この時期の一連のクーデタは、綿密な政権構想をもたず展開されたが、こうした運動は、財界・政界の指導者を委縮させ、政党政治に終止符をうつうえで決定的役割を果たしただけでなく、「財閥転向」を生み出していった……彼らの行動が、軍部や新官僚の動きを活発化させ、軍部の路線に反対する反体制派への抑圧や思想統制が一段と強化された…これらの運動を通じて軍部の発言権が強まり、軍部(統制派)を中心に、彼らの考えていた総力戦計画の実現の具体的動きが進展しはじめた…
  • 石原構想(p.119-120)
    • 「石原構想」によれば、陸海軍協力のもとでの強固な中央集権的行政機構の確立をめざし、そのもとで軍需基礎素材部門を主体にした軍需産業の飛躍的拡大を図るために、本国(とくに、地方軍需産業の拡充)、植民地に軍需産業をおこし、農業の機械化により食糧増産を図ると同時に、農民を近代戦に転用しうる兵士に育てようという、じつに日本の産業構造そのものをかえてしまおうとするものだった。
  • 財閥、重化学工業へ(p.126)
    • …重要な点は、金解禁→外資導入→合理化→国際競争力強化をねらった井上財政(浜口雄幸内閣)が世界恐慌と重なる形で破綻したあと31年12月に金輸出再禁止により日本は金本位体制を離脱し、日満ブロック経済への道を歩むが、その結果、日本は低為替・輸出促進を採用したため、この時期は1920年と異なり、低為替を利用して日本国内で重化学工業が育成されやすい条件が形成されてきていたこと、および30年代中期以降の貿易統制強化のなかで、20年代に重化学工業投資を抑止する機能を果たした規制財閥傘下の商事部門が後退を余儀なくされたことがあげられる。
    • とくに、36年以降の財政膨張と投資の増大によりひきおこされた輸入の急激な増加と為替の悪化のなかで37年1月に大蔵省による「一号省令」が施行され、その後も日中戦争を契機に一段と貿易統制が強まる中で、三井物産の動きで明らかなように…商事部門の比重が後退し、既成財閥はその投資の重点を商事部門から重化学工業部門に移し、また、商事部門そのものも、国内市場と円ブロックにその重点を移していった…
  • アメリカによる対日禁輸がもたらした日本への影響(p.141)
    • …植民地・本国あげての統制経済体制の強化を不可避なものとしていった…植民地・本国あげて人的・物的資源の動員が行われぬ限り、物動計画の見通しがたたぬところまで日本がおいこまれていたといいかえてもよいだろう。
  • 中国における占領地政策(pp.160-161)
    • 日中戦争勃発当初、華北・華中の占領地行政の一環として鉱山・工場等の「敵産」の接収・管理にあたった機関は、35年12月に設立された興中公司であった。だが、38年後半にいたり、日中戦争が長期持久戦化し、占領地行政が長期化するにともない、恒久的な占領地開発機関の設立が必要とされるにいたると、興中公司にかわる新しい開発機関の設立が必要とされたのである。
    • 38年11月の北支那開発・中支那振興株式会社の設立と華北・華中の経済開発はそれを物語っていよう。設立された両国策会社は、華北・華中の運輸・通信・鉱山・炭鉱等の復旧と増産の中枢として重要な役割を演じたのである。その際、さきの興中公司が、満鉄や野村財閥等関西系資本のバックをうけていたのに対し、北支那開発・中支那開発振興の両国策会社が、三井・三菱といった規制財閥の出資をうけて設立された点は注目しておいてよいだろう。
    • 1938年後半以降、占領地行政が安定するにともない、三井・三菱といった既成財閥は、従来、新興財閥の手にゆだねていた植民地の重化学工業の建設に乗り出し、軍との関係を、資源豊富な華北・華中でとり結びはじめたのである。
  • 日本の中国支配がなぜ点と線で終わったか(pp.163-164)
    • …日本側のヘゲモニーで「幣制統一事業」が成功していたと仮定すれば、強力な通貨金融力で既存の物資流通機構を掌握し「点と線」(都市、鉄道沿線地域)から面(農村)に支配を拡大して物資を収奪することが可能になる…ところが、国民政府と浙江財閥が1920〜30年代を通じ作りあげてきた華中・華北の既存の物資流通機構を日本側は破壊することも再編することもできぬまま、全体として物資収奪は大変困難におちいっていたのである。それを端的にさし示したものは、農産物収買の困難さだった。農産物収買の困難さは、植民地一般に共通する現象であったが、なかでも「幣制統一事業」が不成功で地方行政機構がほとんど確立していない華北・華中占領地域でそれが激しかった。
  • 船舶不足と占領地区の自活方針強化(p.181)
    • …輸送力不足は、「大東亜共栄圏」内部の相互関連をたち切り、折からの占領地区での通貨増発とあいまって、インフレを激化させ、占領地区経済を混乱させていった。そもそも、「大東亜共栄圏」構想実現のため、新たに南方開発金庫をつくり、南方開発金庫券を流通させる政策が展開された。しかし…輸送力不足による本国からの物資供給不足は、折からの通貨乱発と収奪の強化とあいまって占領地区に物資不足をよびおこした。軍政当局は、占領地区各地に「暴利取締令」「物資統制令」を公布し、物資配給機構を作って、これを回避しようとしたが、物資の絶対量の不足はいかんともしがたく、占領地区はインフレの波にあらわれ、インフレの進行は、占領地区の農民や商人の物資隠匿をうながし、ますます物資不足になる悪循環を促進した。もはや、「大東亜共栄圏」は、その「関内交易」網を船舶不足によりたち切られ、内的関連のない地域的経済圏に細分化されていった。こうした状況を反映し、日本軍は、43年5月には、「現地自活ノ強化」「現地民政ノ維持」を方針に、占領地区の自活方針の強化をうたわざるをえなくなったのである。
  • 1944年後半における米軍の対日戦略の変更(p.196)
    • …ヨーロッパ戦線でのソ連軍の急速な進撃とヨーロッパでの革命情勢の急激な進展のなかで対日政策を早期に終了させる必要がでてきた…そのためアメリカ軍は、中国大陸へ上陸しそこを拠点に日本を屈服させる基本方針を変更し、硫黄島から沖縄をへて日本本土を直接攻撃する作戦に切りかえたのである(佐々木隆爾『世界史の中のアジアと日本』)。この1944年後半以降における米軍の対日戦略の変更は、中国戦線をふくむその後の作戦に大きな影響を与えた。一つに、アメリカ内部で元駐日大使グルーに代表される親日派が台頭し新中国派が後退した。第二次世界大戦後に「反共防波堤=日本」を作る構想がみられはじめたといいかえてもよい。いま一つは、これと関連し、対日作戦上における中国軍のもつウェイトが減少し、国共合作下で国民党のヘゲモニーの下で新中国を建設する動きが積極化したことであった。
  • 戦後復興過程は総力戦体制の復活過程(pp.205-207)
    • 第一は、戦災復興のために1946年(昭和21)に9月に経済安定本部(安本)が設立されたことである。これは総理大臣が総裁となり国務大臣が長官となる強力な組織で、壊滅的打撃を受けた日本経済の復興を指揮する経済参謀本部だった。この機関は、目的が戦争から復興に変わったとはいえ戦前の企画院の役割を担ったのである。また、この機関は人脈的にも、採った手段としても戦前の企画院に酷似していた。たとえば片山哲内閣時の長官に就任した和田博雄は、戦前は企画院に籍をおき戦時経済の立案にタッチし、41年4月の企画院事件で検挙された前歴をもつ。また彼が長官の時に副長官に就任したのが都留重人と永野重夫で、財政金融局長が佐田忠隆、調査官は稲葉秀三、秘書官は勝間田清一だったが、都留と永野を除けばいずれも和田とともに企画院事件で検挙された面々だった。和田のあとで長官についた泉山三六も三井銀行出身であるが戦前には石原莞爾と親交を持ち企画院のメンバーと交友関係をもつ。
    • 第二の特徴は、安本が傾斜生産方式とよばれる復興方式を採用したことである。傾斜という言葉の意味は、ある特定の重点産業に資材と労力を重点的に投入するという意味で、鉄鋼と石炭に重点がおかれていた。これは、戦争中に企画院が実施した物動計画や生産力拡充計画と内容的に変わるものではなかった。
  • 冷戦構造と総力戦体制の復活(pp.208-210)
    • アメリカは…日本を強力なパートナーに育成していく方針を確定させる。換言すれば、日本は東西冷戦の狭間で、西側陣営の最前線に立って戦うことを余儀なくされたのである。対ソ戦という至上命令の前に総力戦体制の枠組みは再び息を吹き返すこととなる。……公職追放が解除され、52年から多くの政治家が復活し、戦前来の経営者もこれまた復帰することで、人的連続性が色濃く現れた。……大蔵・通産官僚の復帰率は高った。50年(昭和25)6月に勃発した挑戦戦争と朝鮮特需、それに続く輸出の拡大と高度成長のスタートは、それを指導する通産省の役割を次第に大きなものにしていった。
    • 通産省はまず輸出入貿易の管理を担当した。したがってこの管理運営は経済成長をめざす日本経済にとっては死活の重要性をもった。金融問題でも通産省は次第に権限をもちはじめた。かつての復興金融金庫はたしかに姿を消したが、日本開発銀行といった政府の金融機関に対する通産省の権限は非常に大きくなった。開銀融資をどの企業に与えるかは実質的に通産省の権限であった。さらに通産省は行政指導や法律を通じて次第にかつての統制指導に近い状況が生みだされてきたのである。たとえば1952年と55年の二度の綿業操業短縮勧告は前者の例であるし、55年から56年にかけて出された「石炭合理化法」「繊維工業設備調整法」「機械工業振興法」などの制定は後者の事例であった。その他、世界銀行からの導入や外国からの技術導入にも通産省は大きな権限を持ったのである。つまり朝鮮戦争から高度成長にかけて通産省は日本経済の参謀本部としての位置と役割を復活させたのである。通産官僚も戦前の商工官僚の系譜が復活した。
    • 1945年5月の発足以来商工官僚の主流であった岸信介椎名悦三郎ライン(いわゆる「満州派閥」)は、省内で冷や飯を食っていたが52年から56年にかけての大機構改革(課長以上9割におよぶ大異動)で息を吹き返し通産官僚の最高ポストである事務次官を握り、54年12月の第一次鳩山一郎内閣で石橋湛山通産大臣に就任した頃にはほぼ岸・椎名派が通産省を掌握したといわれている(秋美二郎『通産官僚』)。そして、この体制のもとで「奇跡」といわれた高度成長は達成されたのである。
  • 総力戦の時代の終焉とハイテク高度電子戦の時代へ(p.213)
    • 1989年(平成元)11月にベルリンの壁が崩壊し91年ソ連が解体することで、20世紀後半の国際政治を規定してきた東西冷戦の構造は終わりを告げた。それと同時に、むきだしの軍事力が支配する総力戦の時代からハイテクを駆使した高度電子戦の時代に突入し、アジア地域においても一部の地域を例外にグローバリゼーションの嵐がこの地域を支配し始めたのである。
    • 総力戦の時代は明らかに終わりを告げ、新しいハイテク戦争の時代に突入した。国民総動員は緊急不可欠の手段ではなくなり、軍事産業は相対的自立性をもって産業界の一部を構成する時代に変容しはじめた。もはや国民国家を総ぐるみの組織でコントロールする時代は終わり、メディアを駆使したバーチャルな映像・音響支配が決定的な意味をもつ時代が到来したのである。