山室信一「新秩序の模索 1930年代」(『岩波講座 東アジア近現代通史 第5巻』岩波書店、2011年、pp.1-41)

  • 概要
    • 世界恐慌の打撃により「危機の時代」を迎えたアジアにおいて模索された新たな地域秩序と国際体系が論じられている。
  • 30年代の世界状況(pp.4-5)
    • 30年代を世界恐慌から始まって一直線に第二次世界大戦に至った時代と短絡的にみることはできない。また、ドイツや日本の経済的危機がそのまま軍事的拡張行動を促したのでもなかった。なぜなら、ドイツはヒトラー政権下で奇跡と呼ばれる恐慌克服を果たし、日本は32年後半には政府の財政拡張・為替切り下げによる輸出増加策によって世界に先駆けて不況を脱していたからである。対立を深めていた日中関係においてもイギリスの対日宥和政策を背景に、協調的経済外交も模索されていた……また、満洲事変後、アメリカは日本の軍事的拡張を警戒してはいたが対日投資は増加し、日本はアメリカから機械・石油・棉花などを輸入する一方で対東南アジア向け工業製品の輸出を増大させるなど、日本・アメリカ・東南アジアの経済的連関は深まっていたのである…
    • ……模索と混迷のなかで自らの危機を他者の犠牲のうえに回避しようとする軍事的拡張が自存自衛の方途とされたことによって危機はさらに増幅され、軍事力の激突によってしか解決を見出せない時代へと突入していくことになる…
  • 朝鮮総督宇垣一成による農山漁村振興運動の帰結(pp.10-11)
    • …振興運動によっては小作者の農地獲得と農村人口の過剰という問題は解決できなかった。そこで総督府が解決策として37年から採ったのが満洲への農業移民政策であった。37年から44年末までに朝鮮から集団開拓民として政策的に満洲国に送出されたのは2万1632戸で、個人での移民も多数にのぼった。振興運動によって改めて浮上した農村過剰人口という問題は、中国農民の土地を奪うという形で解決が図られた。朝鮮人満洲移民政策は日朝満一体化による食糧自給圏確立という総力戦体制形成の一環であったが、それは中朝間の新たな民族的対立を生む要因になったのである。
  • 満洲事変と「独断専行」(pp.18-19)
    • 関東軍満洲領有をめざす軍事行動は、朝鮮統治の攪乱要因であり続ける間島地域の朝鮮人独立運動を壊滅させるという目的において朝鮮軍とも通じるものがあった。そのため、朝鮮軍司令官林銑十郎は奉勅命令(天皇の裁可を得た命令)を受けないまま独断で軍を越境させていた。このように関東軍朝鮮軍が命令もないままに対外戦争を開始したことは、陸軍刑法では司令官に死刑を適用すべき重罪であった。しかし、軍事的成功が世論に歓迎されるなかで天皇が追認したことは、現地軍の「独断専行」への歯止めを欠くこととなった。満洲事変は政府や天皇の認可がないままに起こされた対外戦争であったという点で異例な戦争であったが、同時に事前に英米などの諸国の了解を得ていなかった点でも、それまでの日本の対外戦争と異質のものであった…
  • 総力戦体制構築のための満洲国(p.21)
    • 満洲国建国の課題は「内地及植民地と満蒙とを一体化して企画経済の下に統制を実行する」(関東軍参謀部「満蒙開発方策」31年12月)こと、すなわち計画経済と統制経済を導入して帝国日本を「高度国防国家」として建設することにあった。関東軍の要請によって組織された満鉄経済調査会は、日満一体の自給経済圏をめざす国家統制案の策定などに携わり、満鉄調査部の宮崎正義らはソ連の計画経済を参照して「産業開発五カ年計画」などのプランを作成し、この方式は日本でも採用された。もちろん、日本で統制経済が重視される契機となったのは、31年に制定された重要産業統制法と工業組合法であり、その導入にあたってはドイツのカルテル学説の商工官僚への影響もあったし、ソ連の五カ年計画や31年アムステルダムで開催された社会経済計画課会議での議論が参考にされたいた[白木沢 1999]。ただ、満洲国では日本に先駆けて国家総動員法や米国管理法や国土計画などを制定し、それらを総括した総務長官であった星野直樹が企画院総裁として、また総務庁で実務を担った岸信介椎名悦三郎をはじめとする「革新官僚」たちが帰国後に統制行政を遂行していった事実も無視できない[山室 2004]。
  • 総力戦体制と福祉国家(pp.22-23)
    • …総力戦体制の構築においては「人的資源」の育成と動員のために、国家による生命と健康の管理が重要な政策課題となる。そのため日本では生活困窮者救護を目的に36年に方面委員が法制化された。38年1月には戦争を遂行していくために不可欠な「健民健兵」を育成することを目的に厚生省が設置され、4月には国民健康保険法が公布されて、個人商店主や農漁民などにも医療機会を保障することとなった…。また、動員兵士が後顧の憂いなく出征するための軍事援護制度として、軍事扶助法(37年制定)、恩給法(38年改正)、傷兵院法(39年制定)などの法整備が行われた。さらに38年には中国からの帰還将兵による性感染症の蔓延を防ぐため、主に私娼を対象とする公立専門病院を設置する花柳病予防法が施行された。
    • …このように日中戦争の長期化に伴って、日々戦死していく兵士を補充する体制が整備され、減少する「人的資源」を拡充していくための医療や年金などの社会保障が充実するという逆説が生まれた。その意味で30年代は、戦争状態 warfare が福祉 welfare を促進するという社会改造の模索時代でもあった…
  • 「日満ブロック」から「日満支ブロック」へ(p.25)
    • …32年1月、関東軍は長城線までが満洲国の領土であるとして熱河省に軍を進め、5月には北平(北京)・天津地区を脅かすに至った。このため国民政府は同月塘沽停戦協定を結ぶことを余儀なくされ、満洲事変はひとまず終結した(このため日中戦争15年戦争とみるか、盧溝橋事件以後の8年戦争とみるかが分かれる)。この協定によって国民政府は満洲国を事実上承認したこととなり、緩衝地帯として冀東(河北省東部)地区が設定されることになった。しかし、「日満ブロック」だけでは鉄・石炭など軍需資源の確保と日本製品販売においては限界があるとみた関東軍は、「北支に於ける帝国の経済的勢力の扶植並びに日満支経済ブロックの結成」を唱えるに至った。そして、33年10月には「帝国指導の下に日満支三国の提携共助を実現し、これより東洋の恒久的平和を確保し、惹て世界平和の増進に貢献するを要す」との閣議決定がなされた。ここに30年代を通じて日本が追求していくことになる「日満支ブロック」が東洋平和ひいては世界平和に貢献するための広域秩序構想として現れ、日中対立を激化させていくことになった。
  • 近衛声明と日中戦争の泥沼化(pp.28-29)
    • トラウトマン工作の失敗と第一次近衛声明
      • …「対支一撃論」しかなかった日本は、長期戦化を恐れてドイツの駐華公使トラウトマンに和平斡旋を依頼した。ドイツは36年11月に日本と防共協定を結んでいたが、国民政府軍に軍事顧問団を派遣するとともに軍需品や工業製品を輸出しタングステンなどの資源を輸入していたこともあって、戦争の長期化によって中国の対ソ依存が強まる事態を警戒していた。トラウトマン和平工作は日本側が南京入城後に条件を変更したことによって頓挫したため、日本政府は38年1月「爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす」との近衛声明(第一次)を発表した。近衛声明にいう「対手とせず」とは、「国際法上新例を開いて国民政府を否認すると共に、これを抹殺せんとする」主権の抹殺を意味するものであった。また、「新興支那政権」とは日本占領地域に作られた中華民国臨時政府、中華民国維新政府、蒙疆連合委員会などを指していたが、この声明によって日本は国民政府との和平の方途を自ら閉ざすことになった。この結果を受け、ヒトラーは日独提携を重視して中国への軍需物資輸出を停止し、5月には軍事顧問団を撤退させた。
    • 戦争目的の提示と傀儡政権の樹立
      • …38年10月の武漢会戦を経て国民党が奥地の重慶に移って以後、戦線は膠着状態に入り、攻めあぐんだ日本軍は占領地域に傀儡政権を立てて抗日勢力を封じ込める政策を採らざるをえなくなった。近衛内閣は38年11月に戦争目的を東亜新秩序建設にあると声明(第二次近衛声明)したうえで、12月には対日和平を模索していた汪精衛に日満華三国による善隣友好・共同防共・経済提携の三原則を和平基本方針として示し(第三次近衛声明)、40年3月に各地の傀儡政権を統合する新国民政府を南京に樹立させた。
    • 日中戦争の泥沼化と英米との対立
      • …「速戦速決」の方針によって開始されたはずの戦争は泥沼化し、61万から105万人におよぶ日本軍が広大な中国大陸に釘付けとなっていった。日本は戦局を打開すべく39年2月に海南島を占領し、6月には天津の英仏租界を封鎖するなどの行動に出た。しかし、これによってイギリスやアメリカの態度は硬化し、日米通商航海条約は破棄されて40年1月に失効した。以後、戦略物資の禁輸・資産凍結などの対日経済圧迫が強まったことから日米の対立は深まり、その打開策として北部仏印へと進駐したことによってさらに対立の度を高めていったのである…
  • コミンテルンの方針転換と抗日民族統一戦線の成立(p.32)
    • …多くの団体から要求されていた抗日民族統一が実現する契機となったのが、35年7月から開催された第7回コミンテルン大会で反ファシズム人民戦線戦術路線が採択されたことであった。共産党は28年の第6回コミンテルン大会で決定された「中間勢力主要打撃論」に拘束されて、満洲事変以降の政治情勢に対応した勢力結集ができなかった。しかし、第7回大会においてファシズムこそが主要敵であり、これに対抗するためには広範な中間勢力を結集することが緊急の任務であるとする統一戦線戦術へと転換することとなった。同時に、民主主義や自由、愛国主義などをプラス・シンボルとして重視するという価値転換も行われたが、これは中国共産党に民族統合論という新たな政策選択を与えるものであった…。
  • 日中戦争による東アジアとヨーロッパの国際関係の変容(p.33)
    • 日中戦争を通じて中国の政治空間の布置図は大きく変貌していったが、それは同時に中国とアジアや欧米とのつながりの変容を促すものでもあった。39年8月、蔣介石は重慶を訪れたインドのネルーと会談し、国民会議派は医療使節団を派遣していた…さらに39年10月、蔣は東アジアでの戦争をヨーロッパの戦争に連結させて勝利に導くことを強調したが、それは取りも直さず日本も日中戦争の解決においてアジアとヨーロッパとの関係を考慮せざるをえないことを意味していた。そして、日中戦争と太平洋戦争が結びついたことにより、戦前には主権国家としての国権回復を課題としていた中国が英・米・ソと並ぶプレゼンスを獲得していったのである。
  • 欧米により構築された国際秩序への挑戦(p.34)
    • 第一次世界大戦後、欧米との協調を基本にアジアで権益拡張を図ってきた日本にとって、30年代は欧米とアジアに対する関係を問い直すことが強いられた「世界変局」の時代であり、東アジアにおける広域秩序構想が様々に提起された。また、中国にとっては主権尊重や領土保全を掲げるワシントン体制も、日本の満洲権益を認めるなど列強が中国で権益を保持し続ける限りでは、自立のために打破すべき体制であった。30年代の広域秩序論は、戦争終結の模索であると同時に欧米が主体となって構築した既存の国際秩序や東アジア秩序に対する異議申し立てでもあった。
  • 1930年代の貿易ネットワークの構築(p.36)
    • …東南アジアにおける貿易に着目する限り、30年代は華僑の通商ネットワークを通じて日本製品の販路が拡大し、それまで欧米諸国に独占されてきた工業製品市場に浸透していった時代でもあった…そのため、インドや蘭印などで摩擦が起き、日印会商や日蘭会商が行われたものの問題は解消しなかった。ただ、より巨視的にみれば、日本からの輸入の急増は東南アジアの経済循環を大きく混乱させるものではなく、安価な日本製品流入は東南アジアにおける実質賃金の低下を緩和し、イギリスやオランダによる貿易・海運事業とも補完性をもっていた。さらに、自動車産業のゴム需要などに応じるアメリカへの原材料輸出と日本からの工業製品の輸入急増によって、東南アジアでは「対米輸出と対日輸入によって経済の循環軌道がタイへようを一巡するという一種の三角分業体制」…が生まれ、アメリカ→東南アジア→日本→アメリカという戦後に再現される決済構造ができつつあった…
  • 人材交流における戦中戦後の連続性(p.39)
    • …「鮮満一如」の呼号の下、関東軍が育成した満洲国軍には間島特設部隊という朝鮮人部隊が創設されたが、満洲国軍軍官学校から日本の陸軍士官学校に留学した朴正煕などが戦後の大韓民国国軍や維新政権を首導することになった。このほか、日本はアジアで孤立することを避けるために、また文化工作の一環として、30年代には中国、満洲国、モンゴルのみならずアフガニスタンビルマ、タイ、インドネシアなどアジア全域から留学生を招請したが、その受け入れには善隣協会や国際文化振興会、国際学友会さらには新興亜会、日本タイ協会などの機関があたった。また、43年からは南方特別留学生が招致されることになったが、その中からアセアン事務総長となったウマルヤディをはじめとして戦後日本と東南アジアの架け橋となった人々が輩出している…。日本の占領によって欧米への留学の機会を奪われた人々にとって、戦争は日本との交流を促すという事態を生んでいた。こうして戦火の中で生まれた様々なクロスボーダーの人流が、戦後東南アジアを形成する底流となった。その意味で新秩序を模索した30年代は、戦後世界を用意しつつあったとみなすこともできる…