源川真希『総力戦のなかの日本政治』(吉川弘文館、2017年)

  • この本の視点(p.9)
    • 筆者は、総力戦体制のもとで機能するいくつかの政策が、もともとは当時の資本主義的経済秩序の問題点を克服するための処方箋として提起されたことを重視する。そしてこれが読み替えられて、総力戦に転轍されていったものと考える。そして国民の戦争協力のもんだも、これと同様の構図を示している。
  • 総力戦体制論について(p.8)
    • 1930年代・40年代に各国で構築された総力戦体制が、従来の社会構造を事実上変化させ、戦後につながる経済、社会をつくったというものである。……ドイツ、イタリア、日本のファシズムと、アメリカのニューディールは、それぞれ資本主義の危機への対応策であるが、第二次世界大戦において敵対する関係にあることから、ファシズムニューディールは対立するものと描かれてきた。だが、ニューディールあるいは福祉国家も、総力戦のなかで国民を戦争に動員した点では、ファシズムと同じである。また国民国家による支配が貫徹されるという意味で、ニューディールも抑圧的である。……総力戦体制論は、現代の管理型社会が登場する歴史的背景を明らかにしようとしている。いいかえれば「現代化」ないし後期近代の抑圧性を指摘するという、きわめて実践的な戦略を持つ。
  • 戦時と戦後の連続性(1) 農地調整法(p.32)
    • …農地調整法は、耕作者の地位安定、および農業生産力の維持増進を図り、農村の経済更生および農村平和の保持のため農地の調整をなすものであった。本法案は貴族院で修正を受けたが、地主の土地所有権の一定の制限を行い、かつ小作争議に対する調停の権限を強化する面もあった…具体的には、市町村に設置された農地委員会により、地主に対する小作人の地位向上の基礎ができたのである。そして農地調整法改正が、戦後の農地改革を進める法制の一つを構成するのであって、戦時と戦後の連続性の起点にもなったと言われる…
  • 戦時と戦後の連続性(2) 福祉の諸制度(pp.65-66)
    • 日中戦争開始後、戦後にもつながる福祉の諸制度が整備された。国民健康保険法は1938年に公布され、労働者年金保険法は1941年に公布されている。また厚生省も1938年1月に発足していた。その点から戦争と社会福祉の関係について議論がなされてきた……戦時期の社会事業としての厚生事業には、従来とは異なる新しい意義づけが行われた。都市社会学者である磯村英一は、戦前・戦時期に東京市職員として厚生事業に携わったが、社会事業が貧困なるゆえに救済するという考えであるのに対して、厚生事業は考え方が異なっていると述べる。つまり、「人的資源」として利用、再生するために事業が行われるというのである……厚生事業と似ていて紛らわしいが、厚生運動はレクリエーション、身体鍛錬、文化事業を行う国民運動であった……厚生事業が「人的資源」としての再生・利用だとすれば、厚生運動は「人的資源」の質をさらに向上させるものであったといえよう……総力戦のもとでは、国民体力の向上が必要となるが、そうした観点からも厚生事業、厚生運動は推進されていった。
  • 翼賛会合憲論 〜宮沢俊義「大政翼賛運動の法理的性格」(『改造』1941年1月)より〜(pp.85-86)
    • 近衛が目指したのは、高度国防国家体制のため万民翼賛の実をあげる国民組織である。そもそも万民翼賛とは帝国憲法の大原則である。だが、国民は三年か四年に一度、選挙に参加することが政治に関係する唯一の機会である。それ以外に国民が政治に関わる機会はない。だから選挙を実のあるものにするため、国民の間に政党組織がつくられ、公選をより実効的に行うことが試みられた。だが、政党は一定の歴史的役割を演じたものの、結局のところ私的利害を代弁するものであった。現在のように、国民の総力を結集する必要性があるなかでは機能しない。よって政党も経済団体も文化団体も包括して、公益優先の観点から国民運動が行われたのである。だから大政翼賛運動は、憲法の精神に適合する。翼賛会は政党ではなく国民精神総動員本部のようなものだが、「高度の政治性」をもつ組織とうたわれる。また、政府と表裏一体の関係にあることへの批判もあるが、この運動は公的な性格があり、むしろ政府とまったく関係ない団体になることこそ、その本質に反するのである。したがって運営費用は国費をあてるべきである。翼賛会総裁が首相になるのではなく、首相が翼賛会の総裁になるのであって、翼賛運動は首相の制約を受けるのだ。
  • 近衛新体制と資本主義の克服 「福祉国家」化への移行の必要性に、戦争の長期化による国防国家体制構築の要請が重なる。(pp.81-92)
    • 近衛新体制をめぐって展開された抗争は、単に政局における対立というものではなかった……これは1930年代の国際環境で生き残るための政治、経済、社会体制の変革をめぐって起きた抗争であるともいえる。そこでは、政治制度だけではなく、自由主義的資本主義にもとづく経済秩序、旧来の日本社会を形づくってきた諸制度などを変革するのか、あるいは保守するのか、ということをめぐって闘争が行われたのである。1940年夏に矢部貞治が起草し、近衛が木戸内大臣を通じて天皇に渡した文書には、近衛周辺の認識があらわれている(「国策についての上奏文」国立国会図書館憲政資料室蔵「近衛文麿関係文書」R1)。
    • 近代において自由権は、人格の自由、創造の自由を実現するというよりも、むしろ生存競争の自由放縦のための自由の傾向を帯びるようになり、財産権は人格と生存の保持のためよりも、むしろ人間を搾取し支配する権利となった。またこれらと同時に成立した議会政治、選挙、政党も著しく階級的な道具となり、法治主義も有産階級を保護するものとなった。そうしたなかで、国家は経済、社会に介入し、国民の生存を保障し、富の公正な分配をはかる必要が生じ、個人の自由権や財産権にある程度の制限を加え、自由放任の経済に全体的交易の立場から統制を行わざるをえなくなった。
    • そのため権力分立をすてて、むしろ強力な国家権力の集中をはかり、執行権を強化し、議会は政治の中枢から後退せざるをえない。そしてこの傾向は、国防国家体制の必要からしてますます強められている。アメリカ、イギリスなどでも自由権、財産権を国家と国民のために制限することが行われている。
    • 日本の憲法は欧米諸国とは異なるが、政体の組織をみれば権力分立主義の傾向があり、資本主義も欧米と同様の性格をもって発展してきた。よってこの時期に、国家の総力を集中一元化するべく、政治体制の強化をなす必要がある。そのためには、憲法改正のことをいうのははばかられるが、帝国憲法第八条(緊急勅令)、第十四条(戒厳の宣告)、第三一条(非常大権)、第七〇条(緊急財産処分)などを活用することを考慮されたい。
  • 東条内閣と二き三すけ(p.120)
    • 東条内閣は、彼自身が陸相・内相を兼任した。両大臣を兼ねたのは、軍と警察の掌握を意図したことを示している。内閣書記官長に就任した星野直樹は、満洲国で重工業開発を進めた人物であり、第二次近衛内閣期の企画院総裁、無任所大臣として、物資動員計画の立案などにたずさわった。関東軍時代の東条と関係が深く、満洲国の行政や経済の中枢を担った「二き三すけ」(東条、星野、松岡洋右鮎川義介岸信介)を構成した。また岸信介も商工大臣として入閣した。外相には東郷茂徳が就任するが、彼は開戦に慎重な態度であった。第三次近衛内閣以来のことだが、当初の閣僚のなかに旧政党人がみられないのも特徴であった。
  • ハル・ノートにより日本はやむにやまれて開戦した」説の否定(p.125)
    • 日本がハル・ノートを受け入れられないと判断した理由の一つに、満洲国を含む中国からの軍の撤退と要求があった。原文では、The Goverment of Japan will withdraw all military,naval,air and police forces from China and from Indo-China.となる(『日米交渉資料』)。アメリカ側は満洲国を承認してはいないが、そこからの日本軍の撤退は要求したことはない。よって、このChinaが満洲国を含むかどうかを、確かめることはしてもよかったのではないか……陸軍はあくまでも中国への防共駐兵を絶対条件としていたことを指摘しなければならない。それは交渉の余地を決定的に狭めてしまったのである。だから11月下旬のハル・ノートによって、日本はやむにやまれず開戦したということにはならない。
    • 六隻の航空母艦などから構成された日本の機動部隊は、すでにハル・ノートが到着する24時間以上前に、エトロフを出航していた…ハル・ノートは、動き始めた機動部隊を止めることができなかったのではあるが。これで日本の開戦決意は「踏切り容易となれり、めでたしめでたし。これ天祐ともいうべし。これにより国民の腹もかたまるべし。国論も一致しやすかるべし」という声もあった(『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』1941年11月27日)。
  • 戦争目的設定と大東亜共栄圏(pp.135-136)
    • ……連合軍の反攻が強まるなかで、「大東亜共栄圏」建設という目的が喧伝されていく。戦争の目的さらには「理念」は、対外的には日本の軍事行動を合理化するものであった。また国内においても、特に知識人が戦争協力を了解する論理として重要であった。先述のとおり、アメリカ、イギリスは1941年8月に大西洋憲章を発表して、領土不拡大、民族自決、貿易の自由、労働条件・社会保障の改善、海洋の自由、平和機構の再建などをうたった。……海軍省調査課では、日米開戦前から大西洋憲章などのアメリカ、イギリスの掲げる理念に対抗しうるイデオロギーをつくる必要が認識されていた(「外交懇談会」1941年10月7日『昭和社会経済史料集成 海軍資料』一四)。そこでは、日本が掲げる「(大)東亜共栄圏」というスローガンが陳腐かつ観念的であるとの批判すら出されていた。戦争の「理念」を検討する作業は、戦局の悪化によってさらに必要性が増した。1943年11月の大東亜会議と、そこで発表された大東亜共栄宣言の作成過程…は…、戦争を正当化するイデオロギーをつくり上げようとしたのである。
  • 日本の南方占領支配は英米蘭の植民地支配をどのように変えたか(pp.154-155)
    • 南方の占領地支配は、軍政によって行われた。日本は、旧宗主国の手でつくられ残存した統治機構を利用して統治を行い、鉱物資源、農産物を獲得していった……この地域は日本占領前から宗主国を含む独自の経済圏が形成されていた。まず(1)英領マレー、蘭印、米領フィリピンは、本国にゴム、錫、石油、マニラ麻など熱帯農産物・鉱産物を供給していた。この地域では食糧自給が不可能であった。また(2)仏印、タイ、英領ビルマは、(1)の諸地域に食糧、主として米を供給していた。(1),(2)の両地域とも本国から工業製品・生活必需品を輸入することが必須であった。現地での工業生産は不十分なので自給不能であり、本国に従属させられていたのである。
    • 日本の支配は、この地域をどのように変えたのか。まず宗主国との貿易関係が切断されたことで、各地域の特産物は余剰となり、現地経済に大きな打撃を与え、かつ工業製品も途絶してしまう。だが、旧宗主国のかわりに日本が必要物資を供給する能力はない。また船舶は、軍用に転用され不足したこともあいまって、(2)の地域からの米の供給も進まず、食糧危機となっていく。また米の供給を担う(2)の地域は、米の輸出先を失ってしまう……そしてフィリピンなどでは、日本の紡績業を支える棉花栽培が行われていたが失敗に終わり、かつ既存農業の破壊をもたらした…。
  • 戦時経済の内側からの崩壊(pp.175-176)
    • ……そもそも戦時経済を維持していくには、大東亜共栄圏と名づけられた広大な海洋からなる領域が一つの有機体として機能する必要がある。そのためには、物資の海上輸送体制が決定的な意味をもった。陸海軍の作戦においても、海上輸送力は決定的に重要であり、日本国内の軍需生産にとってもそうであった。民間が保有する船舶は、貨物船・タンカーとも半分以上が徴用された。それ以外が民需船として運航したが、戦時経済を維持するのに十分とはいえなかった…1942年末から船舶の増産が行われた。この船舶および航空機の増産が、この時期の統制経済の中心であり、行政や経済団体を動員して設備、原材料、資金、労働力を重点的に配分した……船舶についても、資材を節約し作業を単純化した戦時標準船などの増産を行うが、需要には追いつかなかった。船舶不足によって共栄圏内で獲得したさまざまな物資、とりわけ石油などが輸送できない状態すら生じた。また物資を運搬する商船の護衛も必要だが、その体制も十分整わなかった。連合軍の攻撃の激化のなか日本の海上交通路はだんだんと縮小していく…戦時経済は、船舶の決定的な不足によって、内側から崩壊していくことになる。
  • 著者によるファシズムの定義とそこから見た日本のファシズム(pp.215-216)
    • 国際関係において「持てる国」と「持たざる国」間の格差是正が、場合によっては軍事力をともないつつ主張されていること。これを背景として、国内政治において自由主義的資本主義の修正と、社会的経済的格差の是正を含む政策、既存の政党とそれによって運営される議会政治の解体と、一国一党的な政治団体の創設をはかる改革が唱えられ、これに向けた国民の政治参加促進と動員が行われる状況が存在すること、である。
    • 軍部による「満蒙特殊権益」擁護を口実とした大陸侵略が行われ、それが国内における議会政治の危機に結びつき、さらには陸軍統制派主導の国内体制改革の構想が、日中全面戦争によって国家総動員体制という形で実現していく。そのさい、男子普選を前提に政治参加の拡大状況と、さらには女性の政治参加要求、それに「生活改善」要求が存在し、一面では社会的経済的格差の是正を主張する社会民主主義勢力に吸収される。そうした要求は、日中戦争開始後にも引きつづき噴出し、それが総力戦を支える形で動員されていった。その一つの帰結が、近衛新体制と大政翼賛会結成の過程であった。これは…国民の支持を得た一種の「独裁」であった。だが旧政党政治家を中心に、議会政治と政党の活動を擁護する動きが強く存在し、かつ財界など自由主義的資本主義を擁護する勢力が頑強に抵抗した。加えて精神右翼は、「国体」シンボルを動員し、かつ自由主義的資本主義を保守する立場で新体制構想を攻撃した。これが1940年末から翌年の翼賛会改組までの政治抗争の意味であった。
  • 従来とは異なる1940年における日本の政治体制(p.217)
    • …この時期に進められた福祉政策も、総力戦のもとでの施策という形にならざるをえないが、国家が社会に介入し国民に対する生活保障や労働者の権利保護を行っていく世界史的な文脈も無視できない。ただし、そこには内地と植民地の格差、国民とされない人々の切り捨てが存在するのだが。その意味で、1940年における日本の政治体制は、従来の古典的自由主義に対応した国家のあり方とは異なる性格を持つものであった。
  • 戦前・戦時と戦後の断絶/連続(pp.218-219)
    • …戦後歴史学は、戦前・戦時の政治・社会と、戦後のそれの断絶を強調することで、戦後民主主義体制の相対的な優位性を示すという役割を果たした。しかし総力戦体制論によれば、こうした断絶より連続が主張される。総力戦体制は、戦時下の「遺産」あるいはその時期に進んだ「現代化」(社会システム化)が、現在の国家と社会の関係性をつくり、現代社会の被抑圧を準備してきたというのがメッセージの一つである。それは国民国家の抑圧性の指摘とも連動する。……「改革の原点は占領政策ではなく、総力戦時代の社会から継承したもののなかにあった」というテーゼに集約される。……ここで提起された問題は、現代的課題から歴史を再構成するプロセスとして位置づけられる必要があろう。その一つは、現代世界におけるアメリカの覇権行動と、それに対して客観的にはお墨付きを与える議論への反論である。日本占領による民主化という成功譚は、冷戦崩壊後の地域紛争とその解決に対するアメリカの行動を正当化するストーリーとして使われる場合があり、そのため、むしろ日本占領改革の意義の相対化と、被占領地域の主体性を主体性を指摘する意図がある。また、もう一つは、特に2000年代以降、急激に進行する市場化に対して、いかなる対抗戦略を構想するかという課題につながる問題である。これは、近衛新体制を進めた勢力である社会国民主義派の構想のうち、反経済的自由主義=協同主義の面を評価するものである…戦後保守政治体制は、「国土の均衡ある発展」、所得再分配をその重要な課題としてきたが、そうしたあり方は、現在の保守派の政策構想のなかから脱落してきており、そのことへの警鐘という意味に解釈しつつ……問題提起を位置づける必要がある。
  • 55年体制ではなく1960年体制という捉え方(p.229)
    • …鳩山についで、石橋湛山が首相となるが短命に終わり、そのあと政権についたのが岸信介で……翼賛体制の中枢にいた者の政権が誕生した。岸は改憲論を抱き、警察官職務執行法などにみられる権威主義的政策も実行しようとした。そのいっぽうで彼は、戦後においても計画経済、福祉国家の構想を有していた…いろいろな意味で、戦時との連続性を強く持つ政治家であったといってよいだろう。岸は1960年に安保改定に成功するが、すぐに退陣を表明し、その後は池田勇人首相となった。池田は以後、所得倍増計画を推進する。この計画自体はすでに岸内閣時代に立案が始まっていた。
    • 池田は、権威主義的とみられていた岸の政治スタイルとは一線を画し、かつ所得倍増計画という経済政策を政権の目玉政策にすることに成功した。こうして日米安保体制のなかでの、軽武装と高度経済成長を背景とした政治構造が、1960年ごろにつくられた。その意味では、戦後政治体制は1955年体制ではなく、1960年体制と呼ぶべきかもしれない……