- 本稿の趣旨(pp.216-217)
- 日本=過剰人口という命題が広く人びとをとらえた時代を、とくに戦後の開拓政策と移民政策からたどりなおしてみること。そしてそこから浮かび上がる、人間を「人口」として捉える国家と、日々を生き抜こうとする人びとの交差する関係を問うこと
戦後開拓について
- 敗戦後における農村への人口流入による零細農家の激増(p.218)
- 1947年8月の臨時農業センサスによると、当時の総農家戸数590万戸のうち、実に24パーセントに相当する141万戸が3反未満であり、そのなかでも1反未満が5パーセント強の約32万戸も存在した…戦争動員とそれによる生活破壊、そして敗戦後の困難を生き延びるため、多くの人々が小さく分割された地片へと結びつき、かろうじて自給的にその日々をしのいでいたといっても言い過ぎではない。
- 敗戦後の食糧問題(p.218)
- …事実上の米プランテーションとしても機能した朝鮮・台湾という植民地を「喪失」したことと、窒素肥料等の生産体制がほとんど壊滅的状態であったことは収量を押し下げ、食糧不足に拍車をかけた。それまでの国際的孤立と敵対のゆえに食糧支援も当初は見込めず輸入にも期待できなかった。これらの諸条件の複合によって食糧危機は現実のものとなり…政府高官による「1000万人餓死説」すら報じられていた。
- …1946年5月に相次いでおきた皇居乱入にまで発展した「米よこせ大会」(12日)と25万人を皇居広場に集めた「食糧メーデー」(19日)を象徴とする巨大なデモンストレーションへとつながっている。
- 食糧・人口問題は敗戦直後から統治そのものの重要課題となっており、それらが大規模な戦後開拓政策が推進された背景であった。
- 「緊急開拓事業実施要領」(1945年11月9日閣議決定)(p.219)
- 目的
- 内容
- その問題点
- ほとんどの入植者はごくわずかな支援のもとに全くゼロからの開墾作業に取り組むことになった。またそうして送り込まれた先が、既存の農村にとって重要な薪炭採草地や、場合によっては水利権に関係するなど共同性を帯びた場所であった場合、結果として生じる軋轢は開拓農民たちがその暮らしのなかで引き受けなければならなかった。
- …そのような開拓に即効性の食糧増産効果がほとんどないこともまた明らかであった。何十万人もの人間を未開拓地へと送り込む政策は、安定した統治のための社会政策=人口政策という側面が強かったと言わざるをえないだろう。
- 戦後開拓からの転換(pp.219-220)
- …1947年には計画が大きく縮小されるかたちで修正され、続く48年には開拓政策の非効率性を批判し、日本単独での食料自給は目指すことができないというGHQの天然資源局のレポート「日本農業の前途」が提出されたことをうけ、開拓政策は大きく後退してゆく。「ドッジ・ライン」の影響下でとられた財政投資効率を重視する政策のなかで、財産対策も開拓から土地改良へと比重を移していった……こののち、開拓政策としては世界銀行の融資による大規模パイロット・ファームに範をとった、単独の経営体を対象として重点的に補助を与える近代化政策の一環としての開拓パイロット政策に移行してゆくことになる……加えて、営農技術や品種の改良による食糧増産の達成、そして1950年代以後アメリカの余剰農産物である小麦の購入が図られることで日本の食生活それ自体が変容していくことなど、複合的な要因から、食糧問題の構図それ自体が様変わりしていく……
- 高度経済成長期の開拓農民(p.220)
- …高度成長期を経て、石炭やリン酸という土壌改良資材の大量投入が可能になったのちには戦後開拓地の中から蔬菜や畜産部門で日本を代表する産地が形成されたケースも存在する……地価の急上昇にともなう用地売却で財産をなす層も現れる…
- …一方で経済的な行き詰まりによる脱農も絶えず存在していた。開拓農家を三類型に分類し、最下層農家には離農を強く促す政策、「過剰入植地対策」の実施による非自発的脱農も少なくない…
- …地域開発の広がりの過程では千葉県の成田空港建設問題を筆頭に、土地買収に応じない開拓農家と国家との間に激しい闘争が生じた…
戦後海外農業移民
- 戦後海外移民のはじまり(p.221)
- 戦後海外移民の実態(p.221)
- 移民政策は人口問題を解決したか?(pp.222-223)
- …計画移民送出に当っては厳しい選別主義がとられており、現実の移民数が日本の人びとの移民要求を反映していたとは言い難い…移民の数は抑制され、それ自体によって「人口問題」を解決するようなものには到底なりえなかった…
- 満洲移民と戦後移民の連続性(p.223)
- 農林省側における移民政策立案・実行過程では満洲農業移民政策時代からの人脈が、官・民を通じて持続していた。単に人脈がつながっていただけではない。この戦後海外農業移民においても分村移民政策が取り組まれていた。つまり送出の論理と方法においても本質的な部分が戦前と変わっていなかった。戦前、世界恐慌による危機を乗り切るために農村経済更生運動が各地で取り組まれていたが、この運動が満洲開拓政策と結びついたときに実施されたのが、村落を分けて満洲へと送り込むというものであった。それにより、残った農家が耕作地を拡大し、安定した経営を作り出すのである。そして戦後においてもまた「農村構造改善」のために海外へと人を「分村」というかたちで送出する政策が持続していた。それは「村」という全体のための移民であり、それゆえ農林省は移民先での「永住」に固執していた。
- 高度経済成長と海外移民の地位低下(pp.223-224)
- 1960年代以後、行政当局の掛け声に反して、人々の将来設計の選択肢としての海外移住は、その地位を失っていったかのようにみえる。「人口問題」は今や国内における過疎と過密(都市と農村あるいは中央と地方)という、ナショナルな不均衡への問題へと移行した。
- 農民たちの国家不信(p.224)
- …農民たちがかつて帝国の時代に海を越えた経験は、村に静かに行き渡っており、再び自分たちを土地から引き離そうとするものに対して、沈黙をもって抗っていた…植民の経験が、反省的にとらえられる以前に国家への不信によって代わられているようすもうかがわれる…新聞に一般に発表される世論調査とは異なり、実際に移民をするかどうかという選択について、日本の農民の多数が出した答えは否定的でありつづけたのである。