1880年代後半の情報活動と政策に関する検討。
陸軍・海軍で情報の分析が進み、政策に活用されていくのに対して、外務省が情報成果を活かせていないことを指摘。
概要
- 要旨:1880年代後半の日本の情報活動と1890年の対外政策論
- 陸軍
- 清国からロシアに焦点が移る ←【原因】対清情報成果の充実と英露対立の東アジア普及により対外情報体制が再編されたため
- 対清情報活動→予算削減も重なり規模縮小。新たな活動(商業活動の利用、北京周辺地図の詳細化、局課長の現地視察、情報成果の印刷配布・共有、民間人清国通の大量養成)が行われる。情報の収集や分析の段階から対清戦争を想定した情報の配布や活用の段階が中心となる。
- 対露情報活動→福島安正による情報収集(インド、ドイツなどのロシア周辺地域)。ロシア東漸の可能性の検討。
- ☆情報活動に裏付けられた清国衰退論に基づく対清強硬論が、参謀本部の局長級にまで共有され主張されるようになる。
- 海軍
- 外務省
- 1890年の山縣内閣
- 陸軍
議論点
- 海軍は情報を収集し、その分析の結果、対清強硬派となったのか。それとも対清強硬派があくまでも自己の正当化のために情報を活用しているのか。
- 外務省はなぜ町田実一らの商況調査と人材養成機関の設立の要望に応えなかったのか。
- 外務省が情報成果を活かせていないことが指摘されまくっているが、この当時外務省は条約交渉に力を注いでおり、それが失敗してしまったため、結果論的に活かせていないと見えるだけではないか。(条約改正に成功していたら、情報成果を活かせていたとされるかと思われる)
- そもそも外務省は軍事的な情報を集めることが念頭に置かれているのか。
目次
第3章
- はじめに:対立する協調論と強硬論はいかなる情報を得たのか
- 第1節 陸軍:清国からロシアへの情報体制シフト
- (1)第2局長小川又次の情報体制再編構想 1886年:対露シフトの開始
- (2)対清情報体制の縮小と活動の質的変化 1885-90年:荒尾精の漢口楽善堂
- (3)対露情報体制の再構築 1886-90年 1886-90年:駐独館附福島安正の欧州・ロシア分析
- (4)小川・福島・荒尾の対外認識 1887-89年:清国衰退・強硬論の定着
- 第1節小括
- 第2節 海軍:組織的情報活動の発展と諸成果の蓄積
- (1)曽根俊虎の陸海外務の統合情報体制論
- (2)町田実一の商業ネットワーク利用論
- (3)東次郎の清国革命派利用論
- 第2節小括
- 第3節 政府・外務省:日清強調の経済的利益の可能性
- 第4節 1890年山縣内閣の軍拡論争と情報:情報から乖離した協調論
- おわりに:情報の裏付けを見出せない日清協調論と情報活用を進める強硬論