2020-02-23 【日本史】政治史人物整理 織豊政権 education 日本史 受験日本史 織田信長と豊臣秀吉による天下統一事業について 【menu】 織田信長(1534-1582) ⓪父は織田信秀 ①尾張統一 ②今川義元の侵攻を撃退 ③美濃を征服 ④義昭を擁して入京 ⑤統一戦 ⑥本能寺の変(1582) 豊臣秀吉(1537-1598) ①統一事業 ②豊臣政権 ③統一政策 織田信長(1534-1582) ⓪父は織田信秀 信長の父信秀は、尾張国守護代織田氏の一族かつ家臣であった。後に自立し、東の今川、西の斎藤と戦う。1548年に斎藤道三の娘と信長を政略結婚させる。 ①尾張統一 信長、信秀没後家督を継ぎ(1551/1552)、本家の清洲・岩倉両織田家を滅ぼし尾張を統一(1559)。 ②今川義元の侵攻を撃退 義元が駿河・遠江・三河の大軍を率いて上京を目指すが、信長は桶狭間の戦い(1560)で義元を討ち取る。今川家は氏真が継ぐが、領国は後北条・武田・徳川により分割。 ③美濃を征服 斎藤道三は信長の義父であったが、道三の息子;義龍が道三を殺害(1556)。信長は義龍を稲葉山城の戦い(1567)で破り美濃国を支配。稲葉山城を岐阜城と改名して移る。 ④義昭を擁して入京 義昭は13代将軍義輝の弟。義輝は1565年に松永久秀・三好三人衆により暗殺された。14代将軍には義栄が擁立されたので義昭は将軍となる機会をねらって諸国を放浪していた。義昭が信長を頼ってくると、信長は六角氏を倒し、三好氏や松永久秀を抑えて入京を果たし、義昭を将軍につけた(1568年)。 ⑤統一戦 ☆義昭は信長と不和になり武田・朝倉・浅井などの反対勢力を組織。信長は反対勢力と戦うことになる。 a)浅井・朝倉との戦い 1570年4月信長は越前朝倉氏を攻めたが近江浅井の裏切りで失敗した。同年6月には徳川と連合を組んで姉川の戦いで浅井・朝倉軍を撃破。京都と濃尾を結ぶ近江を獲得。1573年には両氏を滅ぼした。 b)比叡山延暦寺を焼き討ち 1571年、浅井・朝倉に加担した比叡山延暦寺を焼打ちにし、強大な宗教的権威と経済力を誇った寺院勢力を屈服させた。 c)石山戦争 1570年、本願寺顕如が諸国の門徒に信長と戦うことを呼びかけて挙兵。石山本願寺を頂点に全国各地の真宗寺院や寺内町を拠点にした一向一揆が信長の支配に反抗する。1580年に石山本願寺を屈服させる。 d)武田との戦い 1572年、武田信玄が義昭の信長討伐に応じて西上作戦を開始。三方ヶ原の戦いでは家康が敗北するが、信玄が途中で死没したため事なきを得る。1575年の長篠の戦いでは鉄砲隊で武田勝頼を撃破。1582年の甲州征伐の天目山の戦いで武田勝頼を自害に追い込み、武田氏は滅亡させた。 e)足利義昭を京都から追放 1573年、武田の西上作戦停止により信長は体制を立て直し、義昭を京都から追放する。室町幕府は滅亡。1575年信長は「宇近衛大将」に就任、朝廷より「天下人」と事実上公認された。1576年には安土城の築城を開始(79年完成)。 ⑥本能寺の変(1582) 甲州征伐の天目山の戦いで武田氏を滅亡させた信長は日本の中央部をほぼ制圧したが、中国の毛利氏と戦う秀吉の援助に向かうため、京都の本能寺に泊まったところを明智光秀の叛逆にあい殺された。 豊臣秀吉(1537-1598) ①統一事業 a.信長の家臣時代 足軽→近江長浜城主→毛利攻め総大将。播磨など数カ国を領有。 b.信長の後継者をめぐる戦い 山崎の戦い(1582)…本能寺の変の時毛利攻めの途中であったが和睦して軍を引き返し、明智光秀を撃破。 賤ヶ岳の戦い(1583)…柴田勝家を破る。信長の三男織田信孝は自殺。 小牧長久手の戦い(1584)…信長の次男信雄・徳川家康の連合軍と戦う。秀吉は家康に敗北したが信雄と和睦したため家康も仕方なく和睦した。 c.朝廷権威の利用 関白、太政大臣となる。 惣無事令…天皇の命令であるとして、戦争の停止と領土紛争の裁定は秀吉がすることを諸大名に命令。この惣無事令を利用して残存地方勢力を撃破した。 d.全国統一の完成 四国(1585長宗我部元親)、九州(1587島津義久)、関東(1590北条氏政)、奥羽(1590伊達政宗) e.朝鮮出兵:文禄の役(1592~93)、慶長の役(1597~98) 原因…土豪・地侍等の勢力をそらす(身分統制令、人掃令)、日本国内における知行地不足の解消、など 結果…侵略に行き詰り秀吉の死(1598)と共に撤兵。 影響…陶工が連行されたため陶磁器生産が活発化する。 ②豊臣政権 a.石高制…土地の生産量である石高を基準とする近世封建の支配システム。土地・畑・屋敷などを石高で表示し、領主の知行として与え、軍役を石高に応じて課した。これにより転封が容易となったので集権的な封建制が確立した。 b.政治組織…中央の政治組織はあまり整備されず、秀吉の独裁的傾向が強い。 五奉行…ある程度専門に分れた行政機構。浅野長政(司法)・石田三成(行政)・増田長盛(土木)・長束正家(財政)・前田玄以(宗教)。 五大老…秀吉を補佐。徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景・上杉景勝。 ③統一政策 a.太閤検地の意義(戦国大名や信長は差出検地) 石高制による大名知行制が確立(上記石高制参照)。 荘園制の解体…重層的な土地の権利支配から一地一作人の原則の確立。耕作者である農民は検地帳に登録され土地私有を承認される一方で土地に緊縛され年貢を負担した。 b.身分政策 兵農分離…全武士を農村から切り離して都市に居住させ、農村に居住するものは武士的性格を持つものでも農民として取り扱うようになった。 刀狩…百姓の武具を没収し農業に固定。一揆を防ぎ農民を耕作に集中させる。 身分統制令(1591)、人掃令(1592)…身分の固定化、兵農分離の完成。朝鮮出兵の動員のため。 c.商業政策 楽市楽座、関所撤廃の完成。金座銀座を設けて天正大判などの金貨を鋳造。 d.外交政策 キリスト教禁止…バテレン追放令(1587)。サン=フェリペ号事件→26聖人殉教 来貢を要請…ポルトガル政庁(インドのゴア)、スペイン政庁(フィリピンのルソン)、高山国(台湾)に国書を送る。