ルイーズ・ヤング/加藤陽子ほか訳『総動員帝国-満洲と戦時帝国主義の文化-』(岩波書店、2001年)

  • 本書の趣旨
    • 本書は2つのシステムの関係を分析する。一つ目のシステムが、満洲支配のシステム。それは(a)日本が満洲に作り上げた国家機構、(b)植民地経済開発についての支配機構、(c)社会的支配のメカニズム、以上三点を包含している。二つ目のシステムは、日本国内のシステム。上記の満洲支配のシステムと対応するように作られた、動員のための政治的社会的な国内のシステムである。この満洲支配のシステムと日本国内のシステムとの関係を軍事・経済開発・開拓民の三つの側面から分析している。

以下、抜粋

  • 著者が用いた史料について(14頁)
    • 満洲開発のイメージが広まったことについては、大陸旅行がその媒介項として大きな役割をもったと考えられるので、旅行記・旅行会社の社史・旅行ガイドブック、その他の雑多な地図・絵葉書・土産ものの類いにも検討を加えた。」
  • 日本人の想像の中の満洲(14-15頁)
    • 満洲の帝国建設は、かなりの程度想像の領域で行われた。帝国のプロジェクトは、満洲国について三つの異なった想像を生みだした。それは、軍事占領から経済開発へ、そして開拓移民の送出へと至る帝国の膨張の軌跡という文化的な構築物であった。日本人は満洲を最初戦場として位置づけていたが、後には経済回復に関するさまざまな枠組みと一緒に想起するようになった。最終的には、拡張しつつある新開地のなかの我慢強い開拓者の言葉とともに心に描くようになった。国内のひとびとにとっては、このように想像された帝国こそが、海の向こうにある満洲国そのものと同じくらい真実味のあるものとして理解されていた。換言すれば大部分の日本人にとっては、大衆を動員するような文化の理想や象徴は、満洲国建設という事業に媒介されて提供されたといってよいだろう。」
    • 満洲国という観念は急速に成熟したわけではなく、文化の創出・再創出の過程を通じて発展してきたものである。」
  • 満洲事変と新しい帝国主義(16頁,21頁)
    • 「なぜ満洲事変は日本の帝国主義にとってターニング・ポイントとなったのか、そして国内の帝国主義にとってどのような意味をもっていたのか。それに対する答えとしては、新しい型の帝国主義が、大衆政治とマス・メディアの組織的成長によって普及したと考えている。」(16頁)
    • 「1931年9月18日の奉天における軍事衝突が報道されて以来、中国大陸での戦闘に関する最新の情報が数カ月間、トップニュースとなった。歌謡曲では軍歌が流行し、演劇や映画では戦争ものが満ちあふれた。もちろん、こういった事態は必ずしも新しいものではなかった。〔……〕しかし満洲事変の戦争熱は、文化の発展に深く影響を与えることによって、「大正デモクラシー」と称される時代から、「非常時」と日本人が呼ぶところの、昭和初期へのターニング・ポイントを画したのであった。」(21頁)
  • 積極的なマスコミ報道による戦争の助長(22頁)
    • 「〔……〕満洲事変の勃発に対するマス・メディアの反応をより仔細に見てみると、報道機関は政府の検閲によって口を封じられ、満洲における日本の軍事行動の公式話をいやいやながら公表したという図式には、いくつか間違いのあることがわかる。実際は、政府から促されるまでもなく、ニュース・メディアは率先して戦争を助長していた。出版・娯楽産業は、自発的に陸軍の宣伝者たちに協力し、国民を動員して中国東北部の軍事占領を支持させる役割を果たした。出版・娯楽産業がそうしたのは、たいていとても単純な動機からで、帝国の戦争が大衆文化の生産者たちに、商業的な拡張や利益への抗しがたい好機を提供したからであった。」
  • 戦争を主題とするメディア作品の生産と消費(24頁)
    • 「なぜ戦争熱が1931年に起きたのだろうか。あるいは、なぜ戦争熱が報道合戦とともに始まったのだろうか。答えの一半は、日本の商業的ニュース・メディアが、高度な発達をとげ、競争状態にあったことにある。商業的ニュース・メディアが発達していたので、満洲の前線からのニュースに対する需要は、拡大しつつあったニュース市場をめぐる競争に拍車をかけた。このことは新聞発行における技術革新のみならず、ラジオという新情報メディアの普及をも活発にした。競争、技術革新そして市場の拡大が、突然日本を飲み込んだ帝国の好戦的愛国主義を支える重要な力となったのである。1931-32年におけるラジオや新聞の戦争屋的態度は、高度に発達したニュース商業市場の圧力を考えた場合予測できる反応であった。新聞の購読者数が増え、ラジオ受信契約者数が増えるので、メディアは戦争を煽ることになった。〔……〕満洲事変の結果として、『朝日』・『毎日』の二紙とNHK、全国的なニュース市場のトップとなり、帝国内の軍事的危機に対する挙国一致的反応を形成するのに役立った。ニュース・メディアの行動からわかるように、マス・メディアと公衆との商売上の関係は、戦争を主題とするメディア作品の生産と消費という側面で好循環を生みだし、満洲事変期の戦争ブームを煽る役割を果たした。」
  • ニュース・メディアから大衆文化の他の領域へ
    • 「巨大ニュース・メディアに導かれて、満洲の事態をますます一面的に解釈することが、大衆文化の他の領域へも広がった。書籍・雑誌・映画・レコードなどの民衆娯楽は、新聞やラジオによって用意された国家的危機感を受け止め、かつ、満洲が寄席演劇や歌舞伎悲劇の題材、そしてレストランのメニューにまでなったことからもわかるように、国家的危機感にカーニバルのばか騒ぎの色合いを加えた。〔……〕大衆文化産業は、満洲もので市場を満ちあふれさせ、その過程で大陸に関する特定の情報や出来事の、型にはまった解釈を普及させた。満洲ものは軍事行動を賛美し、関東軍を英雄視し、満洲国の建国を激賞した。あらゆる文化的形式で、日中紛争の決定的瞬間を何度も何度も語ることで、マス・メディアは満洲事変に対する公の記憶を形成する役割を果たした。満洲の表現方法が、ニュースの場合のように、たとえ選択的ではあっても事実に基づいた報道から、舞台やスクリーン上の脚色された物語へと移っていったとき、軍事占領の複雑な現実は、単純で正当化のための神話へと変えられた。過剰な報道、日本の戦争目的の正当性を象徴的に表現する鍵となる物語の選別、そしてこれらの物語に対するマス・メディアの表現といったものすべてが、帝国の好戦的愛国主義の性格を定義づけていた。」
  • マス・メディアと満洲ブーム(27頁)
    • 「帝国の危機、戦闘の英雄的行為、犠牲の栄光などが、日本の文化産業からあふれ出た「満洲事変もの」のメッセージであり、それが1931-32年にかけてマス・メディアを支配した。もちろん、こうしたメッセージは、陸軍が満洲事変に関して公衆に聞かせたがっていたことと見事に合致していた。しかし、文化産業に陸軍の言い分を宣伝させるために、無理強いは必要なかった。軍国主義それ自体が文化産業が非公式の宣伝者となるためのすべての機会を提供したからである。」
  • 満洲映画とロケ撮影(28頁)
    • 「巨大日刊新聞社の後援を受けたニュース映画は、歴史を楽しい公共スペクタクルへと変えてしまう過程に踏み込んでいた。映画会社による広範囲におよぶロケ撮影は、事実とフィクションとのあいだの境界線を、さらに不鮮明にした。あらゆる映画スタジオが俳優と技術者を満洲に送り込み、ある日は軍隊の慰問、次の日は映画の撮影といったように倍の職務を負わせた。映画会社は現地ロケを売り物として利用したが、それはたとえば、奉天長春で撮影された『噫南嶺三十八勇士』のような映画に見られる。東活は、嫩江・チチハル作戦の英雄話の多くをロケで撮影し、『北満の落花 大和桜』とか『凍原に咲く花』とか名づけた。『陸軍大行進』『満洲行進曲』といった作品は、満洲事変を舞台レビュー風に扱った。映画の各シーンは、象徴的な瞬間を描いていた。すなわち、1931年6月に緊張が最高潮に達した中国による中村〔震太郎〕大尉の処刑、9月の奉天占領、10月の国際連盟における日本人外交官の軍事行動弁護、というように。松竹・新興の映画スタジオは、賞を獲得した同盟のヒットソングからテーマ曲を持ってきて、それぞれ独自の『満洲行進曲』を世に出した。そのような作品は、中国東北部の奪取を、帝国神話の親しみやすい語り口でもって象徴的に表現することで、満洲事変の画期的瞬間をナショナリストの隠喩へと変えてしまった。すでに確立した神話(英雄的な日本が、西洋のごろつきどもに自信満々に立ち向かい、臆病な中国人を容易に打ち負かす)に、新たに生じた出来事をどのように同化吸収するかは、のちにさらなる考慮を要する問題である。ここで取り上げなければならない点は、フィクション化された歴史の流布を通じて、満洲における帝国への公の認識を高めることによって、娯楽産業が帝国の神話形成の代行機関となってしまったということである」
  • マス・メディアと民衆動員(30頁)
    • 「メディアのセンセーショナリズムは、民衆の意識を戦争と帝国のイメージでいっぱいにした。そのような好戦的愛国主義は、帝国にとって非公式のプロパガンダとなるので重要だった。マス・メディアは軍国主義を市場で売りさばくことで、中国への軍事侵略という陸軍の政策に対して民衆の支持を動員するのに役立ち、その過程で帝国の外交政策・政治に影響を及ぼした。」
  • ラジオと満洲ブーム(32頁)
    • 「ラジオの番組編成の変更とNHKによる公共教育キャンペーンの開始は、国民的日刊紙が陸軍の姿勢に支持を与えたことと軌を一にしていた。満洲事変の翌年、NHK満洲に関する講話や教育番組を279本放送したが、そこには婦人や子ども向けの特別番組も含まれていた。NHKはこの世論キャンペーン運動をきわめて迅速に開始しており、9月末日には4本の講話を押し込んだ。12月には40本の番組が予定されピークに達した。NHKは軍人を公共教育番組に最も頻繁に登場するスピーカーとして迎えた。」
  • 満洲旅行と与謝野晶子の転向(33頁)
    • 「晶子と夫の寛(鉄幹)は、満洲の軍事占領を祝うおびただしい数の詩や歌を作った。若いとき晶子は、日露戦争への反戦歌「君死にたまふこと勿れ」でセンセーションを巻き起こした。末弟に宛てて、彼女の詩はこう問いかける。「親は刃をにぎらせて人を殺せと教へしや」「旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ」。しかし、1932年になると、彼女の夫は「爆弾三勇士の歌」という叙情詩を書き、晶子は「日本国民 朝の歌」を発表した。そのなかで彼女は、日本軍が「妥協、惰弱の夢破る」ために「百の苦難に突撃す」るよう駆り立てた。戦闘における人命の損傷を非難した「君死にたまふこと勿れ」とは異なり、晶子の新しい詩は、兵士が「花より清く身を散らし、武士の名誉を生かせたり」する英雄的な死を賞賛した。晶子の心情の変化は明らかに、満鉄の好意による1928年の満洲旅行によって生じたものである。満洲全土を40日間旅行した後、彼女は日本管理下の満洲の発展に感銘を受け、植民者としての日本の使命の正しさを確信して、日本に帰ってきた。」
  • 満洲=生命線という観念(36-37頁、41頁)
    • 「「なぜ我々は戦うのか」というよく知られた問いへの一番最初の反応が、満洲事変のスローガン「生命線満蒙を守れ」であった。「生命線」という用語は、元外交官で政友会系代議士の松岡洋右が1931年1月の議会演説において作り出したものである。このキャッチフレーズは、戦闘の初期に日刊紙に取り上げられマス・メディアを通じて広められたため、公衆の想像力を急速にとらえた。「生命線」という用語は、日本と満洲国との有機体的な結合感を表している。日本の運命は中国東北部に結びつけられた。なぜなら、満洲は日本の生存にとって不可欠だからである。」(36-37頁)
    • 「「生命線」は、多くの共鳴をともなう隠喩であった。1931年において、「生命線」がスローガンとしてひとびとの心にうったえたのは、それが帝国の過去に対する公の記憶を効果的にかき立てると同時に、現在の経済的不安定さにも効果的なもののように思えたからである。満洲を生命線として構築することで、過去と現在とをつなぎ合わせ、帝国のイデオロギーという既存の布地に新たな図柄が織り込まれた。血の恩義という古くからの考え方や、日本人は中国東北部における帝国のために高い犠牲を払ったのだという感覚は、一工業国の生存のためには帝国が経済的に必要だとの新たな概念へと結合された。このため、生命線というイメージは、帝国の有機体的定義のなかで、満洲を日本に結びつけた。すなわち、日本が満洲を失って生き延びられる時間は、人が生命をつかさどる器官を抜かれて生き延びられる時間よりも短いとみなされたのである。満洲は、文化的に帝国の心臓として再形成された。」(41頁)
  • 民政党と政友会の対立(60-61頁)
    • 1920年代において、この二党は内閣の支配をめぐって争い、お互いに相手の外交政策を攻撃することで政治的に戦った。その過程で、両党とも看板となる外交政策を獲得した。これらは「幣原外交」と「田中外交」と称されるが、それは幣原喜重郎民政党(とその前進の憲政会)内閣で外相をつとめ、田中義一が政友会内閣で外相だったことによる。憲政会/民政党が権力を握っているとき、野党の政友会は幣原の「軟弱外交」を攻撃し、中国の日貨排斥を政府の中国当局−日貨排斥運動の背後にいると日本の指導者たちは信じていた−に対する融和的態度のせいにした。政友会の見解では、時局に必要なのは、日本の決意を示し、中国人指導者に協力させるために武力を使うことであった。野党政友会はまた、幣原の西洋に対する意気地ない態度を弾劾し、民政党内閣が軍事費の大幅削減を通じて国防を危うくしていると責め、民政党が財閥のいいなりになっていると非難した。政友会内閣が権力を握っているときは、形成が逆転した。野党民政党は、田中の荒っぽい兵力使用が中国の日貨排斥を引き起こしていると非難した。民政党の政治家が感じていたところでは、時局に必要なのは、中国に対して経済的インセンティヴを与え、理解を示すことで中国人指導者を協調させることであった。民政党は田中が西洋列強に敵意を持たせることで国防を危うくしていると厳しく批判し、国家の財政困難は高い軍事予算のせいだと責め、政友会が過度に軍の影響を蒙っていると非難した。」
  • 陸軍のプロパガンダと民衆動員(64頁)
    • 「〔……〕民衆の支持を動員しそれを政治力に作り変えることを目的として、陸軍自身が1931-32年に大規模なプロパガンダ運動に着手していた〔……〕これらの努力の結果、「世論」は「総動員帝国」の建築ブロックと化した。マス・メディアの非公式な宣伝者によってかきたてられた帝国に対する熱狂の波に乗って、「国防思想普及運動」は陸軍の宣伝活動にとって勝利に終わった。彼らの成功のうちの幾分かは、先行するマス・メディアにつき従うことによって得られたものである。プロパガンダ運動の過程を経て、陸軍は文化産業によって採用された市場戦略を借用しつつ、直接動員という新しい技術を実験し始めた。その過程で、陸軍は軍と社会との新しいきずなを作り出した。」
  • 満洲事変を利用する女性団体・労働団体(90-91頁)
    • 「労働・女性団体はともに、みずからの主義を推し進めるために満洲事変を利用した。労働・女性団体は愛国心というそぶりを通じて社会的に認められたいと要求しつつ、自分たちの集団的アイデンティティを作り変え、かつ強化した。その過程で、献金運動への参加、集会・パレード・祝典への出席、部隊のための手紙・贈り物によって満洲占領に対する民衆の支持の高まりを生み、その結果、挙国一致の印象を政策決定者に与えていくことになる。」
  • 満洲事変による帝国主義パラダイムシフト(95頁)
    • 1920年代の「緩慢な帝国主義」から1930年代の「急速な帝国主義」への転換の背後にある政治的な力は、陸軍の政治戦略に成功と政府官僚制内外における有効な反対の欠如によって説明できる。1928年の陸軍の満洲での行動に対する社会的・文化的反応と、1931年の戦争ヒステリーとの違いは、かなりの部分、経済恐慌の圧迫に帰すことができるだろう。しかし答えはそれだけではない。戦争熱や新しい軍事帝国主義は、日本帝国主義におけるパラダイム転換の一側面だったからである。帝国建設は中国東北部の軍事占領だけでは終わらなかった。経済的安全保障の観点から定義づけられた「生命線満蒙」が、経済的万能薬へと変質しはじめるように、満洲国はまったく違った種類の帝国の事業−急進的でユートピア的なもの−となっていった。」
  • 満洲国建国による日満経済関係の変容(99頁)
    • 「1932年以前の中国東北部において、日本の活動できた地域は、関東州と満鉄附属地に限定されていた。日本は、満鉄の名でおなじみの半官半民の植民地鉄道会社である南満洲鉄道株式会社を通じて勢力浸透をはかり、その満鉄は主として大豆貿易を行っていた。しかし満洲国建国後、経済帝国主義的な構造は数年にして劇的にかわり、日満の経済関係や、日本と満洲に関する経済政策までをもかえることになった。第一に、帝国経営の新体制として統制経済が導入され、その下で陸軍支配下満洲国政府が、計画的経済発展と国家資本主義の実験を行った。第二に、満洲国への経済的な膨張が、停滞していた日本の経済政策に対して死活的なものとなり、国内経済開発の活性化に役立った。満洲国において大規模な社会基盤整備と産業開発に官民の資金が投入されることで過剰資金が吸収されるいっぽう、満洲向け輸出が伸長したおかげで、内地の工場が操業を再開できるようになった。第三に、「日満ブロック経済」と呼ばれるようになる日本と満洲の経済的統合が進み、本国と植民地が相互に深く依存しあうような相互依存戦略関係がとられるようになった。このような、満洲、日本、日満関係の場で見られた三つの現象が、経済帝国主義の新しい局面として定義できるものであった。」
  • 日満実業懇談会 満洲視察旅行(106頁)
    • 「1938年8月、日満実業懇談会が大連で大々的に開かれたが(その場で日満実業協会が設立された)、この会議は日本人実業家が満洲を訪れる最初の機会となった。参加者は、政府高官、満鉄総裁、満洲の日本実業協会などの講義を聴き、会談をもった。また、満洲国中を視察して自分自身の目で見る機会にも恵まれた。会議のハイライトは、満洲国中を七つの別々のルートでたどるツァーであった。二週間の日程で、ほとんどのコースは新京・奉天吉林に立ち寄った。そこから、あるツァーは朝鮮・中国北部へと入り、あるものは満洲北部・鞍山・撫順の鉱山の中心部へと向かったのである。」
    • 「日本の実業界指導者の多くがこの会議に参加した。会議に参加した119人の実業家と12人の地方官僚のなかには、53の商工会議所から派遣された職員や、主要都市の市長なども含まれていた。以前は満州問題について考えてみたこともなかったグループに満洲を紹介することで、この会議は大きな影響力をもった。大阪市長が述べたように「何しろ僕は明治39年日露戦役直後軍政を布かれてゐた時の満洲しか知らないんだから、新満洲国の全貌にふれて何もかも驚嘆の一語につき」たのである。会議を通じて、この大阪市長だけでなく様々な有力者が、満洲国を可能性の地として見始めていた。それこそ日満実業協会が促進しようとしたことだった。セミナー、講演、パンフレット、報告書を通じて、同協会はこのメッセージを日本中の実業家にばらまいた。このように、満洲国建国初期には実業家がイニシアティヴをとり、同協会がもつべき最も大事な役割、すなわち、新しい帝国の経済的可能性のイメージの普及がはかられるようになった。」
  • 満洲国と日本海横断ルート開発(115頁)
    • 日本海側および北日本の港からの輸出を促進するために、日満実業協会の支部的な活動が生まれた。大阪港や横浜港・神戸港とは利害を異にする、福井県、石川県、富山県秋田県新潟県、北海道などからもメンバーが参加した。さらに、多くの地方組織が、朝鮮を経て満洲にいたる、日本海横断ルートによる輸出促進のために設立された。1936年4月から6月まで、大規模な「日満産業大博覧会」を富山市と共催した組織もあった。このイベントは「本邦産業文化ノ振興ト日満両国ノ親善並二貿易ノ進展二資」するすることを目的としていた。満洲における実業利益を促進するための組織が、このような活動に熱心だったことからも、満洲から実業家が得ようとしたものが消費市場であったことは明らかである。」
  • 満鉄のマスコット「アジア号」(144頁)
    • 「1934年に登場したアジア号は、大連・新京間を結び、途中、大石橋、奉天、四平街に停車した。始点から終点までの時間が8時間半、その間の平均時速は82.5キロであった。最高速度は時速110キロで、日本で最高速度を誇っていたつばめ号よりも15キロ速く、欧米の特急の速度とかわらなかった。〔……〕アジア号にこのような最新の科学技術が用いられたことによって、それは業界の最先端に踊り出た〔……〕満鉄はその新しい成果を誇りとし、その後印刷物で宣伝したので、アジア号は満鉄のマスコットになっていった。またパンフレットやポスターでも、超近代的なイメージでアジア号が取り上げられ、次第に、満洲国に関する写真集やガイドブック、あるいは旅行文学でも頻繁に触れられるものとなった。1934年に改訂された小学校の国語教科書には、「アジア号にのって」という作文が掲載された。こうした媒体によって、アジア号は、まさに満洲国そのもののように、日本におけるいかなる製造物よりもはるかに進んだものだというメッセージがふりまかれた。かつての日本を想像させる、文化的にも、政治的にも、経済的にも遅れた中国とは対照的に、満洲国は未来の日本を象徴していた。」
満洲旅行ブーム
  • 観光旅行と帝国主義(154頁)
    • 満洲旅行を促進するような印刷物が普及するにつれて、旅行産業は新帝国にとって非公式の代理人の役割を果たすようになっていった。自分にとって最も興味のある部分だけを見ているにせよ、また、ただ満洲国に夢を抱いているにせよ、パック・ツアーに参加することで、ひとびとは具体的な形象を通して帝国のプロジェクトを理解することができるようになった。日本人による観光旅行は、長期にわたって日本帝国主義の文化的側面をになった。」
  • 1930年代における満洲ネットワークの拡大(154-155頁)
    • 満洲におけるネットワークは、1931年以降さらに急速に発達した。大連JTBは、次から次へと旅行施設を開業し、拡大していった。1932年には奉天に中国地区の新事務所をオープンし、1933年には朝鮮半島満洲の境界に位置する図們に駐在員事務所を置き(1935年には案内所に昇格)、さらに1935年には北へと進出し、ハルピンと満洲里に案内所を開いた。大連JTBは、1936年の時点で、満洲内部だけで17の案内所、7つの出張所、そしてふたつの駐在員事務所を有していた。スタッフの数も、1927年には48人だったのが、36年には321人へと約6倍に増加した。この旅行代理店は、東亜遊覧券などのような、中国大陸旅行用の特別サービスを展開した。この東亜遊覧券を使って旅行すれば、中国、日本国内、満洲国における鉄道2割引き、船が3割引きになった。大連JTBはまた、1934年に『満洲旅行』(※引用者註-『旅行満洲』のことか?)という雑誌を刊行するとともに、鉄道、船、旅客機の時刻表や値段表の掲載された旅行冊子を発行しはじめた。」
  • 日本観光連盟(155頁)
    • 「日本国内の旅行代理店がつくった日本観光連盟は、1936年に満洲朝鮮半島を地盤としている代理店を含みこむかたちで再編された。他方、満洲でも1937年に、代理店が満洲観光連盟というみずからの協会を組織した。満洲観光連盟は、展覧会の開催、旅行週間の利用、案内所の設置、パンフレット、レリーフ、絵葉書の印刷などを通じて、積極的に観光業を発展させようとした。」
  • 満洲観光資源(155頁)
    • 「旅行者を惹きつける対象としては、流行になっている都市の中心部だけでなく、狩猟、釣り、登山のできる地方から、有名な戦場や考古学の遺跡までが含まれていた。日本人の訪問先には、競馬場やゴルフ・コース、温泉があり、旅行者は冬にはスキー場、夏は海水浴場に行くことができた。満洲のどこにいても神社に参拝することができたし、およそ230の駅や観光名所には記念スタンプが置かれていた。中国大陸への旅行熱が高まるとともに、日本人は観光を満洲の旅行施設の異国情緒や贅沢さ、そして超近代性といったものに結びつけるようになっていった。」
  • 大東亜観光(156頁)
    • 満洲での経験から、日本政府は観光が帝国の宣伝にいかに有効であるかを知った。この教訓はJTBに適用され、日本軍が各地を席巻した後、大東亜共栄圏という新占領地にも急速に拡大されていった。1941年、日本政府はJTBを東亜旅行社として再編した。東亜旅行社が個人営業の小規模旅行会社のほとんどをその巨大な傘下におさめていくにつれて、資本総額は1941年が5707円であったに対し、42年が3万2541円、43年には5万5805円というように拡大していった。1943年末、大蔵公望が新社長に就任し、壮大な計画を発表した。それは大東亜共栄圏にくまなく支店を開くということ、大東亜のさまざまな地域のブック・シリーズを刊行すること、サービスセンター・ネットワークの拡大、共栄圏の文化人たちの交流促進、大規模な雇用促進、社員に対する全面的な昇給などであった。」
  • 満洲旅行の参加者たちはどのような人々か?(157頁)
    • 「大陸旅行が中産階層の日本人にとっても巨額の出費であることは明らかであった。高額な旅行代金をまかなうためのひとつの方法として、日本旅行倶楽部といった旅行倶楽部に参加し、その月々の会費を積み立てるということが行われた。また他のひとびとは、代金の全額あるいは一部を、組織や会社が負担する出張という形式をとった。たとえば、商業団体に派遣された経済視察団や、公的・私的な費用によって賄われる校長たちの研修ツアー、あるいはジャーナリストや芸術家が仕事を委託されて渡航するという形である。しかし、最も一般的な補助は学生に対するものであった。学生たちは鉄道、客船、ホテルなどの代金においても学生割引が適用され、また多くの場合文部省が費用の一部を肩代わりしたため、大挙して満洲にやってきた。『満支旅行年鑑』によれば、1939年にJTBのツアーで満洲を訪れた旅行社1万4141人のうち、70%に相当する9854人は学生だった。」
  • 観光産業と文化人の宣伝利用(157-158頁)
    • 「観光産業側は、満洲旅行をどんどん宣伝するために、芸術家や写真家、ジャーナリスト、小説家などを相次いで動員した。旅行倶楽部、貿易協会、旅行代理店は、みずからの宣伝キャンペーンに加わるよう、いわゆる「文化人」たちに求めていた。たとえば、満洲観光連盟は、「聖なる満洲」というテーマのポスター・コンテストを開き、写真家やライターを招いて、写真家からは画像を、ライターからはキャッチ・コピーを出させたのだった。」
  • 満洲国インバウンド振興(158頁)
    • 「大連旅行協会は、市内風景を写した絵葉書を作成し、それを大連に来ている観光客には売らずに、日本本土や満洲の他地域に送って、観光客を大連に呼び込もうとした。奉天旅行協会は、市内風景のパステル画を描かせ、その地域の観光に関する展覧会を開いた。他方、貿易協会は日本本土や満洲における「観光芸術」、旅行写真、地方の特産品に関する展覧会や展示会を頻繁に開いていた。」
  • 満洲ツアーが帝国の文化的な優位性を示す記号となる(158頁)
    • 「日本の文化人は男性・女性にかかわりなく、この帝国のショーケースについていたるところで語り、きわめて高い社会的評価を満洲国に与えた。創作の才能をもつひとびとはこうして夏目漱石の例にならったのだ。漱石は、1909年に満鉄の熱心な要請を受けて渡満し、『満韓ところどころ』という作品を著していた。1930年代を通じて、エリート階層に属しているひとびとにとって中国大陸旅行が普通のことになると、日本の優れた作家のほとんどが、満洲に関するなにかしらの記録を残すようになった。たとえば、『改造』には人気作家による紀行文のページが不定期に設けられていた。そこには、長谷川如是閑、村田四郎、荒木巍、小林秀雄などの顔ぶれがそろっていた。このような文壇や各界の名士が居並ぶことで、満洲ツアーは帝国の文化的な優位性を示すひとつの記号となった。日本の近代初期に、欧米への数年の留学がもっていた意味とほとんどかわらぬかたちで、高度な芸術をめざしている者にとって、満洲国への訪問こそがみずからの文化的正当性を示す格好の材料となったのである。」
  • 満洲国観光消費(159頁)
    • 「旅行産業と、日本の文芸界の著名人たちがおりなす紀行文によって、満洲国は日本の国内消費向けにパッケージ化された。こうして文芸界の著名人も、満洲国の都市開発に携わっていた都市計画担当者や企業家たちの活動に加担することで、ユートピア都市という満洲国のイメージを普及させるのに一役買った。」
p.159以降
  • 雑誌を媒介にした知識階級における満洲像の広まり(161頁)
    • 「1939年の『雑誌年鑑』には、32の「帝国」関連の雑誌が採録されているが、そのなかで最も多いのは、中国に焦点を当てた雑誌であった。ここには、『新天地』『新東亜』『東亜』などの満鉄関連ジャーナルや、1931年以降高まってきた満洲の高まってきた満洲への関心を満たすための『満洲評論』『満洲グラフ』、そして『改造』の姉妹雑誌である『大陸』や文芸春秋の『太陽』、30年代後半に現れた『興亜』なども含まれていた。以上のように、日本の知識人向けの出版業界は、こぞって広範囲にわたる中国関連の情報をカバーし、またこれによって中国専門家たちの見方が教育を受けた読者公衆に広まることになり、読者の中国に対する強烈な関心を喚起したのであった。」
  • 社会帝国主義(192頁)
    • 「〔……〕社会帝国主義論は、本質的なところでは、エリートが社会の安定性を生み出し大衆の支持を得るために利用する戦略として、帝国の建設をとらえたものである。すなわち、労働者たちが政治的に組織されて社会改革を訴えるようになったため、すでに地位を得ているエリートたちは、社会福祉政策に代わる眼目として、植民地拡張の恩恵として得られる社会的経済的利益を全面に押し出した。つまり社会帝国主義というのは、ごく初期の福祉国家に見られる現象なのである。不況による社会不安と資本主義の不均衡発展という、同時に現れる事態に対処するために開発された、社会的な干渉政策のひとつの段階である。」