寺林伸明「「満洲開拓団」の日中関係者にみる“五族協和”の実態」(寺林伸明・劉含発・白木沢旭児編『日中両国からみた「満洲開拓」ー体験・記憶証言ー』御茶の水書房、2014年、pp.319-346)

  • 1994年における鏡友会員(鏡泊湖義勇隊・鏡泊学園の引揚者団体)に対するアンケート調査と訪問調査
    • 移住の動機:小学校の勧誘・推薦、役場の募集によるものが36.4%、自身の積極的な理由をあげたものが31.8%。合計68.2%
    • 五族協和”、“王道楽土”を信じたものは90.2%
  • 五族協和の実態
    • 日本人、朝鮮人、中国人を1〜3等国民と序列化し、それぞれ別な態度を見せる日本人の“五族協和”の内実
  • 満洲開拓団」の歴史認識について
    • 満洲開拓団」の歴史認識を考えるにあたり、まず明治維新とともに開始された日本の辺境開拓としての北海道に触れる。その辺境開拓の経験が後のアジア政策や「満洲開拓」とどう関わり、影響したかを考える手がかりとして、膨張政策に関わるいくつかの視点をあげる。
  • 満洲開拓」・北海道と先住民
    • 満洲開拓」を考えるうえで、先例の北海道開拓民と比較することは、近代日本の政策を知る意味でも有効であろう。殊に、「満洲開拓」には先住の中国東北移民がおり、北海道開拓民には先住のアイヌ民族がいたことから、両先住者がおかれた状況を考えてみたい。元来北海道は、明治維新で、アイヌ民族が先住する蝦夷地を改称し、開拓された地域であった。その結果、北海道外からの国内(内地)移民が優先され、アイヌ民族は条件の良い土地を追われるなどして苦況に立つことになった。未利用地の入植を変則とした日本移民による「満洲開拓」でも、中国東北農民の土地や家が奪われるなど、先住民が脅かされた点は、北海道開拓と共通する面があった。
    • …「満洲国」における“五族協和”…など…特定の“外地”「開拓」にかかわるスローガンには、北海道開拓にも共通する“植民地観”、異民族に対する征服観が伏在していたといえる……
  • “外地”と“大アジア主義”、“五族協和
    • ……大日本帝国には急速に拡大した“外地”と多様な民族の存在があった。四島を中心とする内地国民にとって、新たな“外地”と多民族の存在は、はるかに自意識、境界地域を超えるものであったろう。内地国民が、そのような存在を積極的に認知し、地域、民族間の交流をするには、言語や生活様式など、さまざまな障害、限界があった……
    • ……「満洲開拓団」の場合も、結局、自己の目的の範囲内で現地住民に接したに過ぎない。現地住民の生活が脅かされる状況にあっても、特に、移民集団として手を差し出したわけでない。そのような実情を見れば、“大アジア主義”や“五族協和”の理想は、「満洲開拓団」のどこにも実現されなかったし、「満洲国」支配の正当性を示すものでもなかった。
    • 満洲国」は、関東軍が目的とした対ソ戦略の基地、その後のアジア太平洋戦争の基地以上の積極的な意味を持ち得なかった。そのための食糧基地としての役割を「満洲開拓団」も負い、ソ連参戦に際しては、義勇隊とともに“防衛”の捨て石にされたことが明白に物語っていよう。
  • 満洲開拓団」の送出と引揚、日本社会の変化
    • そもそも「満洲開拓団」の募集や送出には、全国の学校や役場が深くかかわっていた。それにもかかわらず、引揚者のおおくが帰国後に差別された体験を持つ。……銃後国民の引揚者に対しては、迷惑視したり、侵略者呼ばわりもした……無一文で帰国した引揚者に、内地同胞は冷たかった……庶民は“外地”からの引揚者に戦争責任を着せるように、スケープゴート…にした…
    • …過剰な農村人口を満洲移民とした“口減らし”の論理を、敗戦後の国民も引揚者たちに向けたと言えないだろうか。いずれにしても、かかわりの薄い内地国民から、満洲移民や引揚者は“同胞”と一線を画す存在、むしろ戦争や占領がおこなわれた“外地”的な存在と、意識的に忌避された…