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『観光地と洋式ホテル』、鉄道省、1934
- 「新京」(87-88頁)
- 「新京は満洲国の首府で、松花江と遼河の両流域に跨る沃野の枢軸に地位を占め、夙に満洲に於ける農産物の一大集散地として知られ初冬から晩春にかけて運パされる大豆、雑穀類は年々50万石に上る。」
- 「市街は複雑で通俗に新市街、商埠地、旧城市、寛城子の四部に分かれてゐる。新市街は新京駅の周辺で放射状に走る大通を基幹にして碁盤形の街路が之と交叉してゐる商埠地は明治38年以来条約上の互市場として開放されたところで、頭道溝を隔てて新市街と接続し、道路所建築すべて洋式に依つて施設せられ、新興満洲国首都にふさはしい市街である。」
- 「寛城子と南嶺は共に我が同胞が大和魂の精華を発揮し肉弾戦にとつて占拠した所、護国に鬼となつて永久に眠る多くの尊き英霊を偲んで自づと頭の下る所である。」
- 「新京は満洲国の首都としての都市工作の過程にあり、建設的躍進を続けてゐる。」
- 「交通 新京駅は満鉄の終点駅であり、また中東、吉長北満鉄道の連絡地点としての重要地である。大連から急行10時間半、市内は馬車及び自動車が便利である。」
『国都観光バス案内』、新京交通株式会社、1938 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122524
- 「新京を一番よく御観光なさるには」(3コマ)
- 「皆さま 新京を一番よく御観光なさる方法として観光バスを御選び下さいましたことを厚くお礼申し上げます。実際にこれが一番よい方法だと私共は信じて居ります。時間は僅か三時間でコースは殆ど全新京を網羅し、説明は目に見ゆる事物のみでなくいろいろと新京に必要なことの概略を申し上げます。つまりこれによりまして新京のアウトラインを掴んで戴いて、そしてより詳細な事はそれぞれ設けられております紹介機関(御旅行者の為のページにあります)其の他関係機関を御訪ねになつて御調べになるのが最善の方法ではないかと存じます。どうか皆様ゆつくりとした御気持で御観光の上、お帰りになりましたら外の方にも御すすめ下さる様御願いたします。」
- 新京観光バス案内地図(3-4コマ)
- 新しい街としての新京(7-9コマ)
- 「新京という云ふ街はその名の様に新しい街であります。それは以前長春として相当な街でありまして今でも其の姿は大部分その儘残つて居るのでありますが新京の新京たる所以は新市街即ち国都建設計画によつて出来た街であります。」
- 「その内第一期五ヶ年計画は大同元年に始まり康徳4年に終わつたものでありまして左程大規模なものでもありませんが、純計画的に遂行せられた点に於て世界に類例がないと申されて居りまして市街が殆ど理想的に出来ていると申してよいのであります〔……〕」
- 「道路は幹線(路幅26米-60米)と支線(10米-18米)と補助線(10米以下)に分れ重要なる交差点はロータリー式となつて居ります。車道の中間に緑樹帯が設けてあり、電信、電燈線等凡て地下ケーブル線となつて居ります。こんな理想的な道路は世界でも珍しいので御座います。」
- 「広場 街の各所に広場を設けてあります。」
- 「大同広場 (最大広場で周囲一粁)これから大同大街、興安大路、長春大街が放射状に出て居ります。」
- 「順天広場 宮廷府前大広場」
- 「安民広場 中央官庁街の広場」
- 上水道
- 「聖地新京」(17-26コマ)
- 忠霊塔
- 寛城子
- 南嶺
- 「南嶺の戦闘は満洲事変中の最激戦地だと申されて居ります。この戦闘は先づ午前5時黒石大隊の砲兵営攻撃に始まり、続いて午前10時黒石、小河原両大隊に依る砲兵営攻撃、午後3時之を撃滅することに依つて終つたのであります。就中苦戦を致しましたのは小河原大隊倉本中隊でありました。中隊長戦死し其の他に24名の戦死者を出し苦戦実に5時間に及んだもので御座います。」
- 新京ところどころ(21-23コマ)
- 新京神社
- 新京中央放送局
- 「MTCY新京中央放送局は満洲電信電話株式会社の経営で日満両語の二重放送をして居ります。特にスタジオの設備の優秀な点では東洋一だと申されて居ります。電波は寛城子無電台より大電力放送によつて各地に送られるので御座います。」
- 清眞寺
- 児玉公園
- 大同公園
- 「国都建設計画によつて出来た最初の公園で野外大音楽堂、プール等がある友邦伊太利ローマ市民から新京市民へ心をこめて贈られた牝狼の像も園内にあります。」
- 孝子の廟
- 「様々伝説を残してゐるこの墓は孝子王夢星の墓で御座います。近代文化を誇る大同大街の真中に墓のありますのは一寸奇異を感じますが、民意を尊重する王道政治の一ツの具現と見てもよいでしょう。」
- 大陸科学院
- 「持てる国満洲国の資源を有効適切に開発利用するため科学の研究所であります。研究官は日満有力なる権威を集め着々として実効を挙げて居ります。」
- 合同法衙
『鮮満支旅の栞』南満州鉄道株式会社 南満洲鉄道東京支社 1939
『満洲の観光バス案内』大連都市交通株式会社 大連都市交通等、1939年 、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122565
「新京観光バス」(6-7コマ)
- 観光コース([ ]は下車御案内箇所)
- 「新京駅-[新京神社]-[忠霊塔]-[寛城子戦跡]-日本橋通-旧国務院-[宮廷府]-[清眞寺]-大同広場-協和会館-[南嶺戦跡]-建国廟-安民広場-国務院-南新京-興安大路-大同大街-宝山-新京駅」
- 「国都新京」
- 「碧空を戴つて櫛比する高楼の偉観、アスファルト、タールマカダムに舗装されて縦横に展開する街衙の豪壮を見る時、誰が果して之が茫洋たる内蒙の一旗地「長春」だつだのだと考へることが出来ませうか。新興国都と奠められて曠野の一角に呱々の声を挙げた「新京」は恰も決河奔流の勢いを以て其の建設に邁進し、康徳4年9月早くも第一期五ヶ年計画を完成したのです。而かも止まるところを知らぬ其の発展は、人口二百万の都市を目標とし画期的大建設に向かつて一刻の弛みもなく躍進に躍進を続けてゐます。日に新しく日に進む国都新京の颯爽たる姿こそは、大満洲帝国建設の革新的表象であり、人類創造史に驚異的頁を加へるものと謂ふ可きです。巨大なる高層建築物、坦々たる三線式道路、完備せる交通機関凡ゆる近代的都市施設をもつ新京は、一方又、古都長春の名残を幾多止めてゐます。近代と古代、新しきものと古きものとの美を渾然調和の裡に包含してゐるのが五族協和の国都に適はしい魅力でありませう。」
『国都新京案内』新京観光協会、1940 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122480
- 「主なる観光箇所」(2-3コマ)
- 新京神社
- 大同大街(中央通)
- 「新京駅から南方向に一直線に走る大通で南嶺まで延びてゐる。幅員50余米、延長約6キロ半、国都自慢の近代式道路で旧附属地では中央通と呼んでいる。新京神社以南は建国前まで全くの荒野原であつたが、今は高層建築が相並んで国都の威容を示してゐる。」
- 関東軍司令部
- 忠霊塔
- 「王道満洲国の建国の尊き大柱となつた故武藤元帥を始め2900余体の英霊を奉祀している。塔の高さ35米余、4時参拝者が絶えない。」
- 建国廟
- 南湖
- 「黄龍公園のなかにあり国都市民に取つての理想的行楽地、周囲約6粁、貯水面積約62萬粁の広大なもので、夏は遊覧ボートが浮び、冬は各種の冬期競技場にあてられなほ湖岸は別荘地として開放されてゐる。」
- 国務院
- 宮廷御造営地
- 寛城子
- 吉野町
- 宮廷府
- 南嶺
- 大同広場
- 国都の公園
- 歓楽地
- 「面積6万坪を有する歓楽地は、過渡期に乗じて城内、元商埠地に激増した妓楼及これに伴ふ遊技場を此処に集めたもので、敷地1万坪、60棟940部屋を有する一画をなした大妓館あり、これに劇場、映画常設館、射的場等凡ゆる娯楽機関を附随せしめた満人大衆相手の新歓楽境である。」
- 浄月潭
- 「国都の中心大同広場から20キロ、人口50万の給水にも余裕綽々たる浄月潭水源地は自然に恵まれた新京唯一の水郷地で、新京交通会社の定期観光バスは新京駅前を発車、自由に散策の上、帰路につくことになつてゐる。」
「夜の新京」(2-3コマ)
- 日本橋通→大馬路
- 「まづ第一に眼につくのは新京銀座を中心に日本橋通三笠町の夜店、五族協和の色とりどりに夏の夜は殊のほか涼しい。東一条、東二条のネオン街につづく所謂ダイヤ街は事変後新しく浮かび出た不夜城で新検番がある。三笠町の表通裏通一帯は日鮮満の賑やかな花街で殊に満洲情緒を満喫するなら東三条から以南東四条へかけてである。新京一流の書館(満洲国では一流の芸妓屋は何々「書館」或は「下處」二留のそれは「班」、女部屋は「堂」と呼ぶ)も見受けられる。支那料理に舌鼓を打ち支那風呂に旅塵を落としてほんの一時間所謂開盤子を楽しむのもやがて内地へ帰つての永久の語り草ろもならう。日本橋を越えると旧城内、純満洲式のメインストリート大馬路の夜は一層賑やかで一度はぜひ足を運ぶべきである。」
観光バス(日語説明)
- 観光コース(※は下車説明)
- 「新京駅前出発-中央通-※新京神社-※忠霊塔-※寛城子戦蹟-新京駅前-旧国務院-※宮廷府-清眞寺-大同広場-※協和会館-総合運動場-※南嶺戦跡-※建国廟-南湖-国務院-宮廷御造営地-興安大路-※三中井又ハ宝山百貨店(屋上展望)-新京駅前帰着」