Heritage tourism(009)【体験型講座】「先住民族の文化の伝え方~ポジティブアイヌのモノづくり活用編~」

ヘリテージツーリズム論演習では、「先住民族の歴史・文化・現在に関するアクセス手段としてのツーリズム」を学習しているわけだが、何よりも先住民族の方々の想いが重要だということで、アイヌの方々のワークショップに参加した。

目次

ポジティブアイヌ

  • 先住民族の方々の異なる立場
    • 前回の「先住民族の方との懇談会」は「先住民族が受けた差別をまず第一に重視する事例」のケーススタディであった。そこでは先住民族差別に重点が置かれ、「差別を語らずカッコ良さを全面的にアピールする先住民族」に対しては厳しい見解が示された。北海道の先住民族も色々な考え方を持つグループが存在している。差別よりもカッコ良さや魅力を重視する人々を「ポジティブアイヌ」と表現するらしい。今回のワークショップは、前回とは逆で、まさに「ポジティブアイヌ」の事例であった。「差別を語るのではなく、導入として先住民族のカッコ良さや魅力を活用しようという事例」であった。文化の継承には様々な方法があるかもしれないが、モノづくり体験からアイヌ文化を知ってもらおうという内容であった。

ペーパークラフトアイヌ民族の住居、チセを作ろう!

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  • モノづくりからアイヌ文化を学ぶ
    • アイヌ文化云々はさておき工作は燃えるわ。まさに黙々と作る。俺が作ったこのペーパークラフトのチセを見てくれ!愛着が湧く!! で、作りながら無意識のうちにアイヌ文化に関する情報がインプットされていく。アイヌの住居は「チセ」と呼ばれる。『最終兵器彼女』のメインヒロインの語源もアイヌ語の「家」から来ているらしい。「チセ」は東西南北が重視されている。入り口は西側の「セム」。西側にある小さな建物が物置兼玄関となっている。アイヌの人々は住居が汚れるのを嫌うため、ここで汚れを落とす。そして住居内も厳格に配置が決まっている。まず一番重要なのが東側のスペース「アペエトク」。ここは神の領域であり、北東側には「イヨイキリ」という宝物置き場がある。この「イヨイキリ」に宝物をたくさん重ねる事がアイヌとしてのステータスである。北西のスペースは主人の座「シソ」であり、囲炉裏の「アペオイ」を挟んで反対側が女や家族が座る「ハラキソ」である。上述の囲炉裏「アペオイ」には火の神アペフチカムイがいるとされ、火を絶やしてはいけない。そして窓シリーズ。チセには3つの窓がある。東側の窓が「ロルンプヤラ」で、ここは神の窓であり、一般の人は覗いてはいけないとされる。南東にある窓が「イトムンプヤラ」で採光用の窓。南西にある窓が「ポンプヤラ」でここが汚れた水を棄てる窓。このようなチセが3軒以上揃うと、アイヌの集落「コタン」と呼ばれるようになる。

アイヌヘリテージトレイル 増毛編


  • 増毛トレイルで興味を持ったことなど
    • ペーパークラフトの後は、アイヌヘリテージトレイル増毛編の説明があった。増毛町で個人的に気になったネタは、江戸期和人の蝦夷地進出に関する文化遺産。すなわち「増毛厳島神社」と「元陣屋」である。前者の「増毛厳島神社」は江戸期における松前藩の商場知行制と場所請負制の歴史を学べる。また「元陣屋」は江戸期における対ロシア蝦夷地警備の歴史を学べる。

「増毛厳島神社

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  • 「商場知行制」と「場所請負制」がリアルに学べる!
    • まず「増毛厳島神社」について。この神社の起源は松前の商人、村山伝兵衛が運上屋の氏神「弁天社」として創立したのが起源とされている。村山伝兵衛がなぜこの地に来たかというと、1751(宝暦元)年に増毛場所を請け負うことになったからとのこと。もともと増毛場所は1706(宝永3)年に松前藩士の下国氏の商場知行であったという。ここから商場知行制から場所請負制に変化したことが、ここから読み取ることが出来るのである。この「弁天社」は1816(文化3)年に厳島神社から分霊し、名前も同一名に改称されるのだが、なぜ安芸の神社が分霊されたのかはパンフレットに記載されていなかった。北海道神社庁のwebサイトによれば、村山伝兵衛から伊達氏に管理支配権が移り、文化13年7月に伊達氏が信仰していた安芸国厳島神社から市杵島姫命の御分霊を奉斎したとのこと(https://hokkaidojinjacho.jp/%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE-16/ 2019年6月11日22時38分閲覧)。また留萌管内には厳島神社を祀る地域が多く、増毛の伊達氏に限られたものではないということも勉強になった。北海道開発局の留萌開発建設部のpdfファイルによれば、羽幌町天売、焼尻両島や天塩町などにも厳島神社は存在し、海を起点に開けた地域の氏神となったとのこと。「増毛厳島神社もニシン漁で賑わった時代には航海の安全と暮らしの繁栄を願う地域住民の精神的な支柱として大きな役割を果たしてきました」と記されている(https://www.hkd.mlit.go.jp/rm/tiiki_sinkou/c2dl9l0000000po1-att/c2dl9l0000001014.pdf 2019年6月11日22時49分閲覧)。

「元陣屋」

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  • 幕末安政期における秋田藩蝦夷警備
    • 次に興味深かったのが「元陣屋」。これは江戸期における対ロシア警備の点について勉強になった。幕府が蝦夷地を直轄化するのは2度の時期があり、1度目はロシアの南下政策に対抗した寛政・文化期であり、文政期になると緊張が解けたとして松前藩に返却された。2度目はペリー来航の安政期であり、この時ロシアが樺太のクシュコタンを占拠したため、幕府は蝦夷地を再度直轄化し、東北諸藩に警備を命じた。増毛に警備の拠点を築き「元陣屋」を設置したのは秋田藩。「元陣屋」の公式webによると「元」とは拠点という意味で、秋田藩は夏の間だけ警備を行う「出張陣屋」を宗谷と樺太にも設置していたとのこと(http://motojinya.blogspot.com/2010/06/blog-post.html 2019年6月12日1時18分閲覧)。
  • 「マシケ御陣屋御任地面境内略図」
    • また、「元陣屋」の公式webにある「マシケ御陣屋御任地面境内略図」が面白い。この図で注目するべき点は2つあり、一つ目が「元陣屋」が防備に不向きな内陸部に作られているということ。これは文化期の蝦夷地直轄化の際、警備を担当した津軽藩が寒さで大きな被害を出しているため、寒さを凌ごうとしたことを原因として推測している。
    • 二つ目は蝦夷地警備を命じられたはずなのに海岸線が秋田藩の領地とならなかったことである。少し長くなるが公式webを引用しておくと次のように記されている。「図中(※引用者註-「マシケ御陣屋御任地面境内略図」)に「朱引内御任地」と書かれてある通り、実際の絵図では秋田藩の領地となった土地が赤い線で囲まれており、陣屋警衛にあたってその力の及ぶ範囲が図示されています。注意してほしいのは秋田藩が沿岸の警備をその重要任務としているにもかかわらず、運上屋や船附場がある海岸地帯はその朱引の線の外側にあるということです。これはつまり、漁場のある海岸線一帯は場所請負制度のもとで漁業を行っていた商人の管轄下に置かれており、秋田藩は漁場経営に関与することができなかったことを如実に表しています。」(http://motojinya.blogspot.com/2010/08/blog-post_20.html 2019年6月12日1時27分閲覧)。以上のように警備<漁業であり、秋田藩は漁業の収益を得る事ができなかったのである。ただ疑問に思うのが、この時の場所請負制の利益はどこに入ったのかということである。従前のように松前藩に入ったのか、それとも直轄化しているので幕府側が得たのか、謎である。