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  • 加藤聖文『満鉄全史』講談社選書メチエ、2006年

    • この本の趣旨
      • 「本書では、政治の視点から国策会社満鉄の創立から消滅までの歴史をたどるなかで、近代日本が「国策」という名の下に推し進め、多くの民族の運命を翻弄していった満洲支配とはいかなるものであったのかを描くことにより、満洲支配の責任所在の不明瞭さと戦後における加害責任の希薄化の遠因を探っていきたい。」(15頁)

    以下、参考になった箇所

    • 一貫した満洲支配の「国策」など存在せず
      • 「普通の読者ならば、大日本帝国が明治以来、あたかも一貫した「国策」によって満洲支配を遂行したかのように受け止めているだろうが、実際は、陸軍・関東軍・外務省・関東都督府(関東庁)・政党・満鉄などの諸政治勢力後藤新平原敬松岡洋右・山本条太郎・石原莞爾満洲や満鉄に深く関わった人物それぞれにおいても「国策」のイメージも受け止め方もバラバラであり、満洲支配は何ら統一された意思も構想もないまま、さまざまな矛盾を抱えながら進められ、そして破綻していったのである。こうした不統一さを背景として、満洲支配の牽引車としての使命を担った国策会社満鉄とそれを利用しようとする諸政治勢力との関係は、その時々の政治情勢の影響を受けながら対立と協調と支配を繰り返すことになる。」(13頁)

    • 満洲経営のためではなくロシアの南下防止のため
      • 「開戦から約半年経った7月に外相の小村寿太郎が首相の桂太郎に進言した講和条件のなかに遼東半島租借地と南部支線の割譲が含まれていたが、これはロシアの再南下を阻止するための戦略上の必要性から小村が主張したものであって、戦後の満洲経営といった視点はまったく欠落していた。また、ポーツマス講和条約締結直前の8月に元老山県有朋は「戦後経営意見書」を内閣に提出していたが、その中身は、最初から経営的には成り立たないことを自覚したうえで、ロシアの南下を阻止する軍用鉄道として活用し、その経費は撫順の石炭採掘によって賄おうというものだった(大山梓編『山県有朋意見書』)」(20頁)。

    • 満鉄を巡る原と後藤の思想の違い
      • 「政友会と藩閥の力の均衡のうえで交互に政権交代がおこなわれた桂園時代、片や原は西園寺、一方の後藤は桂と異なる陣営に属するなかで、満鉄をめぐる両者の考えの根本的な相違が明らかとなっていった。それは満洲「経営」か満洲「政策」かの対立でもあった。後藤にすれば主役はあくまでも満鉄であって、開発を中心とした満鉄による満洲経営が満洲の安定と繁栄をもたらし、ひいてはそれが日本の権益を確実なものにするのだと考えた。一方の原は満鉄はあくまでも一つの駒でしかなく、対外交渉を中心とした政府主導による満洲政策によってまず満洲での日本の権益を獲得し満鉄の活動の場を確保してから満洲の開発を進め、権益を確実なものとしようと考えた。二人の考えは究極的には日本の権益を確実なものとする点で同じであるが、その方法論において異なり、思想的にも大きく異なっていた。このことは究極的な一致という「未来」よりも眼前の相違という「現在」が重い意味を持つ現実政治のなかでは決定的な対立を生むことになる。そして、外では辛亥革命による清朝の崩壊と中国内政の混乱、内では第一次護憲運動による藩閥政治の終焉と政党の台頭という政治の一大変革期を境に原と後藤の力関係は逆転し、満鉄はいよいよ政治の世界の荒波に翻弄されていく。」(43頁)

    • アメリカの満洲への野心と日露の接近
      • 「〔……〕1909年3月にルーズベルトからタフトに大統領が替わったアメリカでは、新政権の国務長官ノックスがこれまでの姿勢を転換し満洲への積極的な経済進出を図ろうとした。ノックスは錦璦鉄道の実現を清国政府に求め、さらには満洲における鉄道すべてを清国と列国との間で共同管理するいわゆる満洲鉄道中立化案を提唱するにいたった。この満洲の現状をまったく無視したアメリカの無謀な政策は、イギリスをはじめとする列国の協調も得られなかったばかりか、日露両国の警戒心をいたずらにあおったために、かえって日露の提携を加速化させ、ハルビン吉林間の中間を境界とする南北満洲の利益範囲を定めた第1回日露協約(1907年7月30日締結)をさらに強固なものとする第二回日露協約(1907年7月4日締結)にまで発展した。その結果、満洲の日露による南北分割の固定化と鉄道経営の相互協力が約束され、日本は南満洲を完全に勢力範囲として確保するにいたった。」(45頁)

    • 馬車と河川舟運から鉄道へ
      • 「日露が進出する以前の満洲では、河が交通の大動脈であった。各地の物資は馬によって河沿いの拠点施設まで運ばれ、そこからはジャンク船を使って河口まで運ばれた。北満の中心都市哈爾濱は松花江の交通拠点として栄え、南満では遼河の河口にあった営口が最大の貿易港だった。しかし、鉄道の出現によって流通網は大きく様変わりし、東清鉄道と満鉄がこれまでの河に取って代わり、満洲の大動脈となった。そして、あたかも毛細血管のように本線から支線が四方へ張り巡らされることで、満洲全域がこれまでの馬と舟の流通網から鉄道中心へと代わり、満洲経済の死命を制するのは鉄道になっていった。満鉄培養線とはこのような流通経済の変化を背景にしていたからこそ、その実現がより一層急がれたのだ。」(46頁)

    • 夏目漱石と満鉄
      • 「中村時代の満鉄と満洲経営の姿を伝えたもののなかで、今でも有名なものは文豪夏目漱石によるそれである。実は、漱石と中村は明治英学校・東京大学予備門予科(後の第一高等学校)時代から寝食を共にした旧友であり、「ぜこう」、「金ちゃん」と呼び合うほどの仲だった。中村と漱石との間で満洲旅行のことが具体化するのは1909(明治42)年の夏のことだ。久しぶりに旧友中村からの呼び出しを受けた漱石は、開口一番「南満鉄道って一体何をするんだい」と満鉄総裁に面と向かって尋ねた。漱石のこの発言は、単なる世間知らずとして片付けられるものではなく、この当時の多くの日本人もまた漱石の立場であったなら同じような質問をしただろう。すなわち、株式ブームがあったとはいえ満鉄や満洲の実態を本当に知っている日本人はじつのところ微々たるもので、そのことは中村自身がよくわかっていた。だからこそ満鉄と満洲の現実を広く一般に知らしめるための広報マンとして、すでに文壇で地位を築いていた旧友の漱石満洲へ招いたのだ。」(51頁)

    • ロシア革命と満鉄
      • 「日本にとってロシア革命は、東支鉄道南部線の一部譲渡を取り逃したという些末な出来事にとどまらなかった。この革命の衝撃によって、南北満洲を日露両国によって事実上分割支配し、安定した南満洲の経営を進めるといった構想が崩れ去り、カウンターパートナーであったロシアの崩壊によって、日本が南満洲で扶植しつつあった権益はきわめて不安定なものへと変わっていくことになる。そして、当然のことながら、そうした国際環境の激変に直接晒されたのは満鉄だった。」(57頁)

    • 原内閣の関東都督府の解体
      • 「原内閣の喫緊の課題は、こうした国際環境の変化の激変(※引用者註-大戦後の新世界秩序)のなかで満蒙政策を立て直すことにあった。原としては、まず寺内内閣で作られた関東都督府中心の満蒙政策から、以前からの持論である満鉄中心の満蒙政策への転換に着手し、これまで関東都督府において一元化されていた政・軍を分離することに成功した。これによって関東都督府の民生部門が関東庁、軍事部門が関東軍へと分離され、満鉄の業務監督権を握る関東庁のトップである関東長官には元外交官であった林権助を充てた。また同時に、満鉄首脳部の更迭も断行し、これまでの理事長を廃止して社長・副社長とし、社長には再び野村(※引用者註―野村龍太郎)を、副社長には以前大隈内閣による野村と伊藤の更迭に反対して鉄道院監督局長を辞任していた中西清一を起用した。」(62頁)

    • ロシア革命後の東支鉄道の行方
      • 「連合国が手を引いた後、真っ先に東支鉄道に食指を動かしたのは、利権回収を目指す中国、いや正確には東三省の支配者であった張作霖だった。張作霖は、中国政府(北京政府)が1924年5月31日に中ソ協定を結んでソ連を正式に承認すると、自らもソ連側との交渉を始め、10月8日に奉ソ協定を結び、東支鉄道の中ソ共同経営という果実を手にした。中国(張作霖)とソ連との接近によって、東支鉄道の経営は正式にソ連が引き継ぐことが認められ、これと同時に東支鉄道の経営権は白系ロシア人から赤系ロシア人(ソ連系)へと取って代わられていった。このような経緯を経て東支鉄道にソ連の影響が及ぶようになったことは、満鉄にとって重大事であった。帝政ロシア時代は南北満洲を分割することで満鉄と東支鉄道とは共存関係にあったが、ロシアが崩壊し南北満洲分割が無効となった今となっては、東支鉄道との間で物資の争奪をめぐる強烈な競争時代が始まったことを意味していたのだ。」(74-75頁)
      • 「〔……〕満鉄にとっての宿願は長春から哈爾濱にいたる東支鉄道南部線を手中に収め、アジアとヨーロッパとを結ぶ交通の要衝地である哈爾濱まで満鉄本線を延伸して北満の貨物物資を大連に吸収し、満洲全域に経済的影響力をおよぼすことにあった。しかし、事態は進展をみせないまま革命後のソ連国内が安定化へ向かい、東支鉄道にもソ連の影響が浸透するなかでその実現性は年々薄れていった。」(76頁)

    • 石原と神田の出会い
      • 「〔……〕山本(※引用者註-山本条太郎)と張作霖が北京で虚々実々の駆け引きを繰り広げていた秋、哈爾濱駅頭で南無妙法蓮華経の幟を押し立てた日蓮宗信者数十人の熱烈な出迎えを受けて、一人の男が列車から降り立った。「洋行帰り」に似つかわしくない羽織袴姿のこの男が、ドイツ駐在を終えシベリア鉄道経由で帰国する途中、満洲に立ち寄った石原莞爾その人だった。石原は数日哈爾濱に泊まることになっていたが、宿泊先の旅館に、当時満鉄哈爾濱事務所調査課に嘱託として潜り込んでいた神田正種少佐が突然訪ねてきた。石原と一歳年下の神田とは初対面だったが、神田は、満鉄嘱託として調査研究した成果、とりわけ北満での対ソ戦と関連する鉄道政策を熱心に語り、石原も強い関心を示したという(神田正種「鴨緑江」『現代史資料 満洲事変』)。石原の頭の中にはすでに世界最終戦論の骨格が出来上がっていたが、その構想に満洲という具体性が結びついたのがこの神田との出会いであった。のちに石原は関東軍参謀として満洲事変を引き起こし、神田は朝鮮軍参謀として満洲事変拡大の切っ掛けとなる朝鮮軍独断越境を引き起こす。まさに石原が哈爾濱に降り立った日を境に満洲と満鉄の運命が大きく変わっていくことになったのだ。」(96-97頁)

    • 山本条太郎の事業拡張案
      • 「山本(※引用者註-山本条太郎)が構想した事業拡張は、製鉄事業・製油事業・肥料事業のいわゆる「三大国策」に代表される。山本としては、中心事業である鉄道事業の利益は政治的に獲得した権利に基づく独占的なものであって、公平な経済競争によってもたらされたものではなく、そのため、独占権が脅かされると忽ちのうちに利益が失われるおそれがあるので、対処策として事業の多角化を図り、利益を安定的にあげられるような企業にすべきとの考えであった。中国ナショナリズムの高まりのなかで、とかく政治的にやっかいな問題となりがちな鉄道事業に依存しすぎることは危険であり、また満洲を鉄道だけでとらえるのではなく、さまざまな産業開発の可能性を探ることで日本と満洲との結びつきをより強固なものにしようという経済人らしい合理的発想に基づいていたのだ。」(101頁)

    • 日本海ルート
      • 満洲事変によって長年の懸案だった長大線と吉会線の二路線の実現が決まったことは、満鉄にとっても満洲国にとっても重要なことだった。この二つの路線は南北満洲の大動脈である満鉄本線と満洲国の首都となる新京で交差して東西満洲の大動脈となるものと位置づけられ、その北側を横断する東支鉄道の並行線ともなるものだった。とりわけ、吉会線は日本と満洲を結ぶ最短ルートであり、ロシアと再び戦争になった場合、朝鮮から満洲中心部へ直接軍隊を輸送できるような重要な路線となることから、日露戦争直後から陸軍が強い関心を示していた。」(133-134頁)
      • 「朝鮮鉄道を管理する朝鮮総督府鉄道局の初代局長には、シベリア鉄道列国管理委員会や山東鉄道引継委員会〔……〕といった国際舞台での実績を買われた大村卓一が就任した。就任するや大村は真っ先に当時、抗日活動が活発でもっとも治安の悪かった朝鮮北部の開発計画を立案、羅津・清津・雄基の三港を整備し、満鉄が計画していた吉敦延長線と連結させ、朝鮮から満洲へかけての大規模開発の基盤とすべくその実現に邁進した。大村の計画は日本国内と満洲日本海を通じて結びつけ、その接続点に朝鮮を位置づけようとしたものだった。」(135頁)
      • 関東軍は事変以前から吉会線を対ソ軍事作戦上、最重要と位置づけていたが、事変後も満洲国内に残った外国鉄道として喉元に刺さった棘のとうな東支鉄道に対しては、吉会線をはじめとした包囲戦をつぎつぎに建設して同鉄道の経営を圧迫し、自発的な放棄に導こうとしていた。そのため、吉会線の急速な実現が求められたのだ。〔……〕満鉄は、事変後になると一転して関東軍の要請とあればと進んで応え、11月1日には吉林省政府との間で吉敦線延長の急速完成を取り決め、翌1932年5月3日には天図軽便鉄道問題を含めた「吉敦延長線建設二関スル方針要綱」〔……〕が閣議決定された。工事は5月12日から始まり翌1933年9月1日に京図線(新京-図們)として営業が開始された。満鉄としては終端駅の経営権を握ったことで収益が見込めると判断したのであろう。そして営業が開始された月の30日には満鉄と朝鮮総督府との間で「朝鮮国有鉄道一部の委任経営契約」と「同上附属協定」が結ばれ、満鉄は北鮮鉄道〔……〕と呼ばれた朝鮮北部の鉄道路線の経営を委託され、清津に北鮮鉄道管理局を置き、あわせて羅津築港と雄羅線の開始を(1935年11月より業務開始)、1936年6月には雄基・清津の二港も朝鮮総督府から貸付を受け、ここに満鉄が日本海ルートと呼ばれる日本-朝鮮北部-満洲を結ぶ交通網を握ることとなった。」(138頁)

    • 四頭政治の解消へ 外務省の退場と関東軍と拓務省の対立
      • 「〔……〕関東軍は懸案の四頭政治を改称するために、まずは領事館と関東庁の権限を掌握しようとした。これまで領事館を握っていた外務省については、傀儡国家の満洲国が出来あがったことで、満洲問題のこれまで中心だった外交問題が実質的に解消し、出番はほとんど失われていた。しかも、満洲国の正式承認が差し迫るなかで傀儡国家とはいえ建前は独立国である以上、大使館を置き大使を任命しなければならないが、満洲国をコントロールしている関東軍の意向は無視できるものではなく、満洲国に対する「外交」は関東軍に譲らざるを得なかった。結局、1932年9月15日に満洲国の正式承認と日満議定書の調印が行われ、関東軍司令官が駐満大使と関東長官を兼任し、駐満大使を通じて日満旅国間の交渉、そして在満領事館の指揮監督を行い、関東長官を通じて警察権を行使できる権限を獲得した。しかし、関東軍司令官が関東長官を兼任することで、関東軍は関東庁の業務を実質的に吸収したことにはなったが、関東庁官制は何ら改正されなかったので、関東長官が拓務大臣の監督を受けることは従来と同じだった。すなわち、関東軍司令官は関東長官としての業務については拓務大臣の監督を受けることになっていたのだ。この関東軍司令官・駐満大使・関東長官という「三位一体」は、同一人物が兼ねるということだけ決まって、中身はそのままだったために抜本的な解決には至らなかった。また満鉄については、二次監督権を握る関東長官のポストを関東軍は得たものの、一時監督権は依然として拓務省にあった。その他にも満鉄附属地は満洲国へ返還されないために、満鉄が行っている教育・土木・衛生業務はそのまま継続されていた。ただ、これまで満鉄の重要な役割だった中国側相手の鉄道敷設交渉といった渉外事項が事実上なくなり、外務省との関りがほとんどなくなったことが大きな変化だった。渉外担当理事だった木村は、内田が満鉄を去ったのを機に任期半ばで辞任するが、外務省出身の理事は木村が最後となった。今回の三位一体は、実際の部分では何ら改善されなかったが、重要な点は外務省が満洲という舞台から実質的に退場したことにあった。そして、残る関東庁と満鉄をめぐって、関東軍と拓務省とがするどく対立することになる。」(146-147頁)

    • 陸軍・関東軍の権力掌握
      • 「岡田内閣発足から半年にわたって繰り広げられた在満機構改革をめぐる陸軍と拓務省の攻防は、途中で関東庁警察官の辞職騒動にまで発展するが、12月26日の対満事務局の新設によって拓務省の全面的敗北に終わった。拓務省が満洲に持っていた主要な権限はすべて失われ、対満事務局へ移管された。新たに内閣に設置された対満事務局の総裁は陸相が兼任、事実上陸軍の影響下に置かれた。また、関東庁も解体、関東州の行政機関として大連に関東州庁が、関東州庁を監督する機関として新京に関東局が新設され、所属の警察官は関東憲兵隊の指揮下に入った。これによって関東軍は念願だった満洲国内の警察権をすべて掌握した。さらに、拓務省と関東庁が持っていた満鉄監督権は一次監督権は対満事務局、二次監督権は関東局が持つことになった。対満事務局は陸軍、関東局も関東軍司令官が兼ねる駐満大使が統理することになったため、満鉄は陸軍・関東軍の完全な支配下に置かれることになったのだ。在満機構改革問題は、日本が日露戦争によって満洲へ勢力を扶植した時から始まった懸案として日本の満蒙政策の桎梏となっていた。しかし、満洲事変後、満洲において絶対的な主導権を握った関東軍の下で在満機関の統一が図られることになり、数年を経てようやく対満事務局の設置と関東庁の縮小、拓務省からの権限奪取というかたちで決着を見た。」(152-153頁)
      • 「1934年末の在満機構改革による関東軍への権力集中と北満鉄路譲渡という出来事は、きわめて重要な歴史的意味を持っている。これによって、日露戦争以後長きにわたって日本が希求してきた満洲問題は解決され、満洲問題は完全な「内政問題」へと変容した。しかもそれは、明治以来、大陸政策の中核として満鉄が担ってきた使命の終焉をも意味していたのだ。」(156頁)

    • 京図線繋げただけ問題に見る日本の戦争計画のお粗末さ
      • 「〔……〕国内と満洲とを結ぶ最短ルートとしてあれほど軍部も政府も重視していた京図線(旧称は吉会線)は敗戦まで単線のまま、開通させることだけが目的でその後の本格的整備を誰もまともに考えず、大戦末期になってようやく輸送力増強を計画したがすでに手遅れだったことは、日本の戦争計画のお粗末さを象徴しているともいえよう。」(182頁)

    • 国共内戦と満鉄
      • ソ連軍の満洲撤退は3月に入ってからようやく始まった。この撤退と同時に中国共産党軍の進出が活発になり、国民政府軍との衝突が避けられない状況になっていった。とりわけ長春国府軍中共軍との争奪戦の場となり、5月中旬以降は国府軍によって奪還されたものの、中長鉄路は国府軍中共軍が対峙する長春・哈爾濱間で分断され、留用されていた満鉄社員も国共両陣営の支配地域に離ればなれになってしまい、国共内戦という激動の歴史に翻弄されるなかで、各々がさまざまなかたちで新しい中国の胎動と向き合うことになる。」(190-191頁)

    • 「満鉄」が問いかける近代日本の「国策」
      • 「戦後になって日本政府は、1906年6月7日に参謀総長児玉源太郎を委員長とする満洲経営委員会が作成した「勅令第142号」によって生まれた満鉄を民間企業とみなし、実質的には大陸政策を牽引した国家機関という真の姿を否定し去った。これが戦後日本の「国策」だった。誰もがどの組織もが都合よく解釈でき、設立以来の宿痾となっていた「国策会社」に最後まで満鉄は振り回されたのだった。こうして戦後日本では、満鉄が本来持っていた国策性が忘却され、満鉄の企業性のみが記憶として語り継がれていった。しかし、そのことは満洲の植民地支配の実態―日本の支配政策のお粗末さとそれに反比例してもたらされる人々の悲劇―を封印する結果をもたらした。〔……〕満鉄の歴史は、われわれにとって「国策」とは、「満洲」とは、日本の近代とはいったい何であったのかを常に問いかけずにはいられない重さをもっている。」(195頁)

    • 満鉄と新幹線
      • 「〔……〕関東軍と満鉄との橋渡し役として満鉄の運命を変え、初代の満鉄経済調査委員会となった十河信二は、満鉄理事退任後に興中公司社長となった後、1937年に誕生した林銑十郎内閣の組閣参謀として活躍した。林は満洲事変当時の朝鮮軍司令官、その林内閣は石原莞爾が影の実力者として控えていた。いわば林内閣は、十河―林―石原という満洲事変以来の同志的結合が生み出したものだった。しかし、林内閣は4ヵ月であっけなく倒れ、〔……〕十河が作った興中公司も翌年1938年11月に北支那開発株式会社の子会社となり十河は会長を辞任、以後長男の戦死なども重なって長い不遇時代を迎える〔……〕長く日の目を見ずそのまま忘れ去られていくかと思われていた矢先、国鉄総裁に突然任命された。1955年5月20日、十河71歳の時である。十河の推薦は、当時参議院議員で第三次吉田茂内閣では運輸大臣を務めた満鉄理事時代の同僚村上義一が関わっていたといわれる(『十河信二』)」。〔……〕当時は国鉄内外共に反対一色だった新幹線計画をスタートさせ、豪腕でもって実現までこぎ着けたことで十河は歴史に名を残すことになった。そして、この新幹線計画を技術面で支えたのが当時鉄道技術者として名高かった島秀雄であった。十河は〔……〕国鉄を辞職していた島をなかば強引に呼び戻し、新幹線計画の実行に当らせたのだ。じつは、この島の父安次郎も鉄道技師、しかも野村龍太郎とそれに続く早川千吉郎社長時代に満鉄理事を務めていた。十河と同じく後藤新平の鉄道広軌化計画に強い影響を受け、戦時中には、東京―下関間の広軌路線を10時間で走る「弾丸列車」計画の中心人物だった。いわば後藤新平の構想が戦後になって一人は満鉄理事、もう一人は満鉄理事の息子という二人の満鉄の系譜を引くものたちによって実現されたのだ。新幹線と十河、標準軌を走る世界最速列車と特急「あじあ」号という結びつきから、満鉄の技術が新幹線の基礎となったという「満鉄神話」がまことしやかに広がっているが、残念ながら機関車が客車を牽引する「あじあ」号と全車両に設置されたモーターによって列車一体となって走行する新幹線とは、発送も技術もまったく違うものだ。ただ、新幹線を実現させたのが、満鉄の系譜を引くものたちであったことは紛れもない事実だった。」(197-199頁)

    • 満鉄と戦後中国経済
      • 「中国が改革開放政策を推し進め、経済発展を最優先とするなかで、中国東北の経済開発の歴史的意義が問い直されつつある。中国のなかでも最も開発が遅れていた東北は、20世紀に入ってから急速に発展し、国共内戦期は中共軍の後方基地、新中国誕生後は重工業地帯として改革開放が始まる以前の中国を支える存在でありつづけたが、この産業経済の基盤や技術者らの人材は二つの層から形成されていた。表面に見える第一層は、戦後の中ソ蜜月時代に行われたソ連からの援助によるものだが、基底となる第二層は、満洲国期の産業経済開発と敗戦後の留用日本人からの技術継承によって形成されたものだった。そして、この第二層のなかでも満鉄が物的・人的両面において最も中核的な存在であったこともまぎれもない事実だった。」(201-202頁)