- 概要
以下、参考になった箇所
- ロシアの東清鉄道の獲得
- 満鉄の誕生と中国人労働者の採用
- 「中国人労働者については、会社は日本人を雇用すべしとの議論が国内にあったが、低賃金で雇入れることが可能であること、ロシアが黒龍江鉄道工事の際中国人労働者を排除して失敗したことなどをあげて、中国人労働者の採用と教育を決断した。」(24頁)
- 日本本土と朝鮮・満洲を結ぶ連絡運転体制
- 「〔……〕1912年(明治45)6月15日、奉天・釜山間の直通急行の運転が始まった。この列車は奉天で本線急行列車に併結し、長春で東清鉄道と連絡した。同じ日、日本初の特別急行列車が東京・下関間に運転を開始した。新橋を8時30分に発車、翌朝9時38分に下関に到着、下関から10時40分発の関釜連絡船により、午後8時10分釜山着。午後8時50分発の先に述べた連絡急行で新義州に3日目の午後3時50分着、そのまま鴨緑江を渡り、安東着は午後3時35分(当時の時差は1時間)。奉天着は午後9時55分、長春には4日目の4時50分着であった。所要時間は69時間20分である。こうして、日本本土と朝鮮・満洲を結ぶ連絡運転体制が成立したのである。」(33頁)
- 関釜航路か、大連航路か
- 「〔……〕13年(大正2)12月の鉄道院時間表の日露間連絡の頁には、関釜航路・朝鮮鉄道・安奉線経由の経路と、神戸から乗船する大連航路経由の時刻が掲載されている。それによると東京・奉天間の所要時間は、前者は62時間40分、後者は87時間55分である。その差は25時間と案外少ないというので実業家や高級官僚などはゆったりした大連航路を利用する場合が多かった。このあと鉄道の改良が進み時間は大幅に短縮されたが、汽船の時間はあまり短縮できないため、後には大連航路経由は鉄道利用にくらべてほぼ二倍の時間を必要とすることとなった。安奉線は単線ながら、改良工事とくに信号場の増設などにより幹線としての役割を果たすことが可能で、日本はこの路線により、大連からの満鉄本線と並ぶ二つのルートを確保することができたのである。」(33頁)
- 文化人と満洲
- 漱石は帰国後、〔……〕『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』に「満韓ところどころ」を連載した。この文章によって、満鉄と満洲の実情は多くの人の知るところとなった。高名な作家の飄々とした文章を通じて満鉄は多くの読者に知られていった。その後、中村は満洲に出かけて講演することを引受ける文化人の紹介を漱石に依頼した(青柳達雄『中村是公と漱石』)。満鉄が佐藤惣之介、与謝野寛・晶子夫妻、斎藤茂吉、志賀直哉、有島生馬、菊池寛、直木三十五、横光利一、大佛次郎、久米正雄、川端康成、石井柏亭、岡田三郎助、和田三造、岸田劉生、梅原龍三郎、安井曾太郎(この二人は華北交通招待)など、一流の文化人を数多く招待したのは、この時の成功にならったものと考えられる。」(44頁)
- 満鉄と貨物輸送
- 大連港の輸出入
- 貨物収入から客車収入へ 客車収入は地域住民の足
- 「経理一元化により明らかになったことは、約8000キロに及ぶ国線の収入を加えても貨車収入の増加は二倍に過ぎず、国線沿線には貨物収入の増加に結びつくような産業が発達していなかったことを示している。「軍鉄一如」という言葉が使われたが、国線が、農業を含む地域産業の発展に資するという目的よりも、対ソ作戦を第一義に路線が敷設されたことを示すものと見てよいであろう。それに対して客車収入の激増は、軍隊移動の増加という側面は大きいが、そればかりではなく、国線は地域住民の移動を活発にしたものと言えよう。また国線が二万キロを超える自動車路線と結ばれるようになったことも、乗客増加の一因をなしたと考えられる(資料編253頁)。」(52頁)
- 満鉄コンツェルンの解体
- 「〔……〕満洲事変二年後の33年秋、関東軍による満鉄改組計画が明らかになり、その時には流産するものの、37年末には満洲重工業株式会社(満業)が発足し、満鉄は交通事業と旅順炭礦を中心とする狭い枠内に押し込められることとなった。〔……〕『満鉄コンツェルン読本』の著者の小島精一は、新京イデオロギイ(満洲国日本人官吏)と大連イデオロギイ(満鉄側)の対立激化に驚きを示している。すなわち日本人官吏は「満洲国が統制経済的な産業政策を発展して行くためには満鉄の改組といふことが切迫した必要条件である云ふのである」として、賛意を表している。一方、関東軍の態度を「先般持株会社案を提出して一敗地に塗れ……差当たっての問題としては、理想論的な満鉄改組を再び表面に持出すには強い躊躇」と観測しているが、この本が出版されたすぐ後の時期に軍部は新興財閥を満洲視察に招いており、半年後には鮎川義介のもとに満業を成立させたのである。重工業部門を失った満鉄コンツェルンは、再びコンツェルンとして回復することはなかった。」(63頁)
- 満鉄が附属地の教育を行う根拠
- 関東軍の設立とその兵力
- 東亜経済調査局
- 「1908年(明治41)9月14日満鉄東京支社に東亜経済調査局が設置された。〔……〕東亜経済調査局は、満鉄のような企業、すなわち鉄道という輸送機関を軸として、さらに石炭などの商品の生産にまで踏み込む開発事業を推進する企業が、その活動のために必要としたのである。当時の後発資本主義国日本では、こうした総合的な企業活動よりも一定の限定された活動分野で業績を挙げることが求められていた。しかし、他企業に類例がない、国策と密接なかかわりを保ちながら、植民地における多面的な経済活動を求められる満鉄は、データの収集、把握と、その上に立つ独自の分析機能が求められ、資料館=調査局が生み出されることとなったのである。」(96-97頁)
- 中央試験所の業績 オイルシェール
- 満鉄と北鉄以外の満洲における諸鉄道の回収
- 「満洲国の成立によって、同国内の鉄道の運営は新たな問題に逢着した。それというのも、満洲には満鉄と北満鉄路以外に、1895年に建設を開始したイギリス借款鉄道である京奉鉄道が北京・山海関を経て奉天城に達していた。この京奉鉄道(北寧鉄路、満洲国内では奉山線)をはじめとして、同鉄道の各支線、奉天・吉林間の瀋海鉄道及び吉海鉄道、吉長鉄道、吉敦鉄道、呼海鉄道(一部)、斉克鉄道、四洮鉄道、壺蘆島港の建設など、3000キロ近くに達する営業線を持つ鉄道が満鉄以外に建設されていたのである。〔……〕満洲国内の鉄道は、満鉄と北満鉄路を除く全ての鉄道は満洲国国有鉄道として位置づけられた〔……〕これは明白な鉄道国有主義の宣言であると同時に、日本以外の外国鉄道資本排除の宣言であった。満洲国政府は、これらの鉄道経営と新線の建設を満鉄に委託する方向に進んだ。満洲国政府は、1933年2月9日、教令第8号で鉄道法を公布し、第一条で一般輸送用の鉄道の国有を定め、瀋海・呼海・斉克の三鉄道を収用した(資料編435頁)。」(133頁)
- 満洲国建国と北鮮航路
- 「満鉄に課せられた新線建設の目的には、朝鮮経由の内地との輸送の円滑化、対ソ連軍事作戦対策、北満や満洲中央部の農産物や鉱山資源の流通確保、日本ほかへの輸出があった。この目的にはなかでも軍事的な意味が大きな比重を占めていた。とくに軍部の念願だった朝鮮・満洲間の連絡路の確保は急がれ、建設引継線第1号は、京図線の一部をなす敦図線(敦化・図們)192キロで、32年5月に着工、翌年5月に完成し、9月に引渡された。敦図線の開通によって図們から朝鮮北部の雄基港、清津港への連絡が可能になり、さらに満鉄が33年6月から急ピッチで建設を開始した羅津港が35年11月1日に一部開港し、同日営業開始の雄羅線(雄基・羅津)と共に北朝鮮三港体制が完成したのである。」(136-137頁)
- 「これより先、満洲の鉄道を北朝鮮の海港と結び日本と連絡するためには満洲、北朝鮮鉄道統一経営が必要と考えられ、32年5月1日の拓務大臣通達で、「朝鮮内における接続鉄道(図們線、清会線、及び雄基、羅津線)及び終端施設は満鉄において建設し、清津及び雄基の既成鉄道並びに両港から南陽に至る朝鮮国有鉄道を満鉄に委託経営」させることが朝鮮総督と満鉄総裁に宛てて通牒された。満鉄が北鮮鉄道管理局を設けて委託経営を開始したのは、敦図線開業後の翌月10月1日のことである。その一方、朝鮮経由の日本海海運の充実は大連港の衰退を招き、満鉄創業以来の大連重視の方針の根幹を揺るがす事態をもたらした。」(137頁)
- 観光列車としての「あじあ」
- 「食堂車は36名を収用でき、定食のほか、あじあカクテルが人気だった。哈爾濱まで延長運転後は、ロシア人少女をウェイトレスに採用し、「国際列車たるこの列車に相応しい異国情緒を織込めて、旅情を慰めるに充分である」と紹介したり、「あじあ」を宣伝する満鉄リーフレットなどには、積極的に欧米人を登場させ、観光客の誘致を図っている。「あじあ」は、翌1935年(昭和10)3月の北満鉄路買収後、9月1日から哈爾濱まで延伸された。ただ路盤や橋梁が不完全なため「パシナ」による高速運転は不可能で、「パシサ」型機関車を使用して運行した。「あじあ」は高速運転可能な看板列車であると同時に観光列車の側面を強く持っていた。日本から奉天や新京に行く場合、神戸・大連航路から「あじあ」利用の経路より、関釜連絡で朝鮮経由の方が約半分の時間で行くことができる。それでも、大連から奉天、新京、哈爾濱まで高速列車を運転することは、観光客誘致に熱心な満鉄にとって、きわめて重要な点であった。アジア有数の港である大連から、満鉄が観光地として重視する満洲国内陸を結ぶ「あじあ」は、優美な英語パンフレットなどを介して、さかんに欧米各地に紹介されたのである。また、日本国内でも、37年から使用された小学校5年生の国語教科書に「あじあに乗りて」が載るなど、「あじは」は内外にその名を広め、技術的な成果だけにとどまることなく、いわば国威発揚の一端を担ったということもできる。」(148-149頁)
- 東清鉄道の呼称の変化(東清鉄道/東支鉄道/中東鉄路/北満鉄路)
- ロシアとの集荷競争と培養線
- 「東清鉄道は、元来、東西線はウラジオストク港へ出るためのシベリア鉄道の短絡線、南部支線は哈爾濱と大連港と結ぶ鉄道として建設されたが、日露戦争の結果、前者の目的だけとなった。しかし油脂分を豊富に含む満洲産大豆の評価の上昇とともに、ウラジオストク港は大豆輸出港としての重要度が高まり、満鉄との間に大豆を中心とする北満の農産物の熾烈な集荷競争が始まった。穀倉地帯を横断する長大な東清鉄道に比べ、満鉄は不利を免れなかった。満鉄では吉長線、吉敦線、四鄭線、鄭洮線、洮昂線などの培養線建設に資金、技術面で協力する一方、馬車隊による穀倉地帯から長春への輸送、大連、営口、安東への割引運賃の設定などで貨物の取り込みを計った。馬車による集荷輸送は、第一次世界大戦中の鉄道運輸混乱の際に最高潮に達した。」(149-150頁)
- 東清鉄道のその後
- 「東清鉄道(中東鉄路)は、第一次世界大戦末期のロシア革命とともに、一時期、国際管理になったが、1924年5月の「暫行管理中東鉄路協定」および9月の「奉ソ協定」によって、ソ連と張作霖政権の中東鉄路に関する利権が復活した。張作霖死後の29年7月、息子の学良は国権回復運動の一環として中東鉄路を強硬回収したが、12月の満洲里付近におけるソ連側との武力衝突で敗退、実権はソ連側に移った。〔……〕33年5月、リトビノフは太田為吉中ソ大使に、日本または満洲国への北満鉄路(中東鉄道)の売却を持ちかけてきた。外務省は満洲国による買収が適当であると判断し、6月末から東京で両国間の交渉が始まり、日本は満洲国の後見の立場をとった。満洲国側の実質的な代表は外交部次長の大橋忠一で実態は日ソ交渉であった。会議で紛糾したのは譲渡価格である。ソ連側は2億5000万ルーブル(6億2500万円)、満洲国側は5000万円を主張し、その開きは大きかった。会議は何度か中断し、「会議を重ねること56回、1年10ヶ月にわたる交渉」(『満洲国史』)となったが、買収価格1億4000万円、その他に従業員の退職金3000万円を支払うことで、35年3月23日に譲渡協定は成立した(資料編448頁)。」(150-151頁)
- 京濱線の東行
- 「満鉄調査部支那抗戦力調査」
- 「この調査にあたって、委員会当事者がまずこの戦争が中国にとってどのような意味を持つかについて分析した結果引き出された結論は〔……〕当時の日本における常識をはるかに超えたものであった。すなわち中国にとってこの戦争は「一応全国民的(民族的)抗戦の相貌を持ったこと」とされる。〔……〕中国にとって日本の言う「支那事変」は「全国民的(民族的)抗戦」という全面的な戦争のかたちをとっているという点が指摘されたのである。そこから引き出されるこの戦争の性格は、「従来の軍閥戦争とは異なって単なる一時的妥協や小手先細工ではおさまらない激烈性を持っていたこと」と規定される。〔……〕そして初期の段階では中国が敗北するが、しかし中国は日本軍による領土侵略(報告書は注意深く「侵略」のことばを避けている)のもとで、民衆の再組織による抗戦体制を確立するために、民衆運動の自由と政治的統一を進めているという。すなわち、中国国民党の民衆運動にたいする弾圧の中止と、政治的統一すなわち国共合作が課題となったと判断しているのである。このような課題について、中国が近代百年の歴史の過程を通じてこれを実現する素地がすでに築かれ、さらに「地代物博」の農村社会が、この抗戦体制を政治的にも経済的にも支えているという状況を説明している。そして英米などの「外援」は「対日牽制」と「支那支配」のためであり、この援助は第二義的のものと結論づけた。」(169-170頁)
- 日本海ルートその2
- 「〔……〕満鉄は、連絡輸送東端の日本海に開いた港を持たなかったため、このような連絡運輸(※引用者註-日露・日ソ間の日本海ルートでの運輸)が十分な機能を発揮することができない状態にあった。しかしながら33年(昭和8)10月1日から朝鮮北部の鉄道の経営を委託されたことにより、東端部の連絡ルートを手に入れたことになった。これは満洲事変後、日本政府が満洲の鉄道を日本海に面する港湾に到達させる方策を緊急の課題としたためで、その結果、朝鮮北部における図們線、清会線と、雄基、羅津に至る雄基線は羅津港を含めて満鉄が建設し、この両港から図們線の南陽に至る鉄道を満鉄に委託経営させることとした。〔……〕旅客、貨物の日本海ルートへの移動が図られ、とくに貨物においては哈爾濱発豆粕の特定運賃が大連経由の運賃より廉価に抑えられたほか、阪神地区発哈爾濱着の雑貨なども大連経由にくらべてトン当たり1円安くするといった方策がとられた。このような努力によって、日本と満洲とのあらたな輸送ルートが確立されたのである。」(178-179頁)
- 37年当時の敦賀・羅津・雄基航路は北日本汽船が経営し、月三便、敦賀・羅津間48時間30分、運賃3等16円(2等は2倍、1等は3倍)、この所要時間は途中清津に寄港するためであった。40年には日本海汽船が先に羅津に寄港するため38時間、清津までは41時間で運航した。以上のほかに新潟・羅津・清津間、敦賀・羅津・ウラジオストク間の航路が設定されていた。この日本海航路は、44年から翌年にかけて米空軍や潜水艦の攻撃で関釜航路や大連航路が運行不能の状態におちいったのちも、45年6月までは運行をつづけていた。しかし、6月中旬ごろにはその定期的な運航も不可能になったが、この航路は日本と満洲とを結ぶ最後のルートとして活動したのである。」(179頁)
- 牡丹江の交通拠点化
- 「とくに、この改正(※引用者註-1940年の10月の時刻改正)で注目されるのは牡丹江への急行列車の集中で、急行以外にもここには奉天からの普通列車2往復が設定された。これは清津、羅津など朝鮮北部の港が敦賀、新潟などと結ばれた結果、満洲東部、北部の貨物を牡丹江を通じてこれらの港に運ぶ輸送体系が成立し、36年に4万人弱だった牡丹江の人口が、41年には13万人と三倍に増加するほどの発展を示したこと、またここには関東軍の拠点として42年までに第一方面軍司令部が置かれ、対ソ戦のさい東部方面を隷下の二個軍で担当する重要な軍事拠点となっていた。このような事情が牡丹江を交通拠点として位置づけたのである。」(197頁)
- 1938年~42年の輸送状況
- 制空権・制海権喪失後
- 「〔……〕太平洋戦争で日本が制海権制空権の優位を失った43年春以降の「海上輸送陸運転嫁」以後、華北連絡線の奉山線、錦古線の比重はさらに高まっていった。こうして連京線中心の満鉄の輸送体系は大きく変わり、北朝鮮三港への輸送、釜山・安東間、奉天・山海関のルートに輸送の主軸が移っていった。〔……〕戦況の逼迫は、満洲にも大きな影響を与えはじめた。神戸からの大連航路は40年10月には23便を数え、41年度の利用客は32万7000人とピークを迎えたが、太平洋戦争開戦とともに減少した。船舶の多くが南方戦線に徴用されたことがその原因であった。また43年10月にいわば日本の内海である玄界灘で、関釜連絡船の新造船「崑崙丸」が米軍潜水艦の雷撃で撃沈された。年間305万7000人(42年)に達していた関釜連絡船の利用客が、大きな危険にさらされることになったのである。」(201-202頁)
- いわゆる「桜工事」について
- 「満洲の鉄道は、日本と華北、華中を陸上交通機関で結ぶ陸運体制への転換によって奉山・安奉両線を中心とした複線化、橋梁などの強化、信号場の増設による輸送力の強化が実施されることとなった。〔……〕奉山、安奉、京釜、京義各線の輸送力強化に必要な50キロレールや信号設備を捻出するために考えらえたのが、大連港経由貨物の激減により線路容量に余裕が生じた連京線の伏線の一部撤去である。「桜工事」と名づけられた撤去工事は44年8月1日、単線予定区間の信号工事(自動閉塞信号機の撤去)から始まった。〔……〕この工事によって創業以来の満鉄の輸送体系の重点は安東・奉天・山海関間に移された。この段階で大連・奉天間輸送がかつての満鉄の満洲における交通体系に占める役割は消滅していったのである。」(202-203頁)
- 根こそぎ動員
- 満鉄の最後
- 「9月12日(※引用者註-1945年)、哈爾濱駐在ソ連交通人民委員部ジュラヴィヨフ少将から、浜洲・浜綏線はソ連軍が管理し、その他は満鉄が運営に当たるという方針が示された。ソ連は満洲内の施設機材などの「戦利品」を速やかに自国へ搬出し、さらに60万人を超える元日本兵と一般在満日本人をシベリアで強制労働に服させるための輸送に、この両線を必要としたのである。浜綏線はいち早くロシアゲージ(5フィート)に改軌された。〔……〕国民政府の蔣介石委員長は、9月22日に子息の蔣経国を長春に派遣し、ソ連軍に対して早期撤退を求める工作を行ったが、効果をあげることはできなかった。同日、かつての満鉄本線である大連・長春間を経営する中国長春鉄路公司のソ連側代表カルギン中将が長春に着任して副理事長に就任、中国側代表不在のまま業務を開始した。9月27日、カルギンは山崎に対し、9月22日をもって満鉄の法人格は消滅し、管理権は失われたと通告した。〔……〕ソ連側の通達とは別に9月30日、東京では、連合国最高司令官の指令第74号に基づき、満鉄首脳部は預かり知らぬ間に、満鉄は閉鎖を命じられたのであった。」(219-220頁)