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  • 天野博之『満鉄を知るための十二章』吉川弘文館、2009

    • この本の趣旨
      • 「満鉄と満鉄社員の実像に迫ろうと試みた」もの。著者は満鉄社員の2世であり、満鉄擁護の立場からこの本は叙述されている。従来の先行研究については「満鉄の帝国主義的大陸進出の先兵としての位置づけ、その視点からの研究が大半のように思われる」(4頁)と述べている。この「帝国主義的大陸進出の先兵」という表現は度々使用されており、この評価を覆そうとしていることがうかがえる。

    以下、参考になった箇所

    • 日露戦争後の満洲経営
      • 「政府首脳には、別の意味での困惑があった。懸案の朝鮮半島からロシア勢力を駆逐することには成功したものの、関東州を含む満洲の地の権益が日本に利益をもたらすものかどうか、満洲の広大さと未開発な状況に、自信が持てなかったからである。後には強く大陸進出論を唱えた陸軍の実力者山県有朋も、鉄道や関東州の役割をロシアの再南下防止に限定して考えるに過ぎなかった。戦後の逼迫した日本経済に、気長に開発をつづける経済的な余力も残っていなかった。陸軍内部で積極的に満洲経営策を主張したのは、満洲軍参謀長を務めた児玉源太郎大将等であった。」(7頁)

    • 満鉄は、1931年以外は毎年黒字経営
      • 「〔……〕満鉄1年目の収入は1254万3115円、支出は1052万6530円、差引き201万6585円、予想に反して初年度から大きな利益をあげた。内訳を見ると、安奉線を除く本線が948万円の収入をあげ、全体の75.6%を占め、鉱業の11.8%を大きく引き離す。利益も410万円にたっし、他部門の赤字の穴埋めをしていることが解る。この傾向は8年後にも引き継がれているが、1911年(明治44)11月に広軌に改築なった安奉線は、広軌化が進むにつれて黒字に転じている。慢性的に赤字を計上したのは地方費つまりは鉄道附属地経営と旅館費であった。満鉄は銀価暴落と世界不況の影響を受けた31年(昭和6)をのぞいて毎年黒字をのこしたが、一貫して鉄道収入が他部門の赤字をカバーする体質は変わらなかった。」(26頁)

    • 安奉線と夏目漱石
      • 「1909年(明治42)9月、学生時代からの友人だった中村是公総裁の招きに応じて満洲を訪れた夏目漱石は、帰途、安奉線を利用した。7時55分に奉天から安奉線に乗った漱石は、午後8時に150キロほど先の草河口に到着して一泊した。この時期の安奉線は途中の草河口で宿泊するのが常だった。翌朝7時半の汽車に乗った漱石は午後7時半に安東県着、ここで一泊して翌日鴨緑江を小蒸気で渡って朝鮮にはいった(『漱石日記』)。朝鮮にはいるまでに3日が必要だったのである。漱石が利用したのは貨車改造の客車だった。」(29頁)

    • なぜ満鉄で旅客数が増大したのか?
      • 「〔……〕漸増をつづけていた乗客数が飛躍的に伸びはじめたのは38年からで、前年の3600万人から6000万人弱に飛躍した。それ以降も増えつづけ、41年には1億人の大台を突破した。〔……〕40年の国勢調査満洲の人口が4320万人であったことを考えると、その膨大さが理解出来よう。私はここにはあげられていない地方中国人の利用増があったと推測する。33年3月から熱河地方に満鉄が始めた自動車営業は、せいぜい大車(馬車)の利用だけしか知らなかった地方の中国人に、文明開化の有難みを教えた。現在でも見られるように大荷物をもっての移動は、彼らの習慣であった。バスは長距離を迅速に移動する習慣をうえつけ、それとともに鉄道の利用も増えたのであろう。人口が多く産業が発展した地帯にはやがて鉄道が敷かれ、自動車路線は駅に連絡する路線に変化する。バス路線の延長距離はつかみにくいが、この時期には鉄道の距離に倍する2万5千キロ以上のバス路線が運営されたとされ(『第四次十年史』)、40年には2154万人の多数がバスを利用した(満鉄百科「鉄道に代わる自動車輸送」参照)。」(33-34頁)

    • 三線連絡運賃問題
      • 三線とは日本国内の鉄道院線、朝鮮鉄道線、満鉄線のことで、この三線を経由して貨物を満洲に移入した場合、三割前後の運賃割引をおこなうという案である。この案によって阪神地方の綿糸布を中心とする約20種の商品を、それまでのように大阪・神戸港から大連港へ運ばれる経路から、山陽線を利用して下関港へ輸送し関釜連絡船-朝鮮鉄道線-安奉線経由で奉天へ運ぶ経路に変えようというのである。この案は、朝鮮鉄道線の充実と、広軌線開通まもない安奉線の軍事輸送強化に対応できると、寺内正毅朝鮮総督も推した。寺内にこの案を持ちかけたのが政商西原亀三だという。連絡運賃設定の会議は、中村総裁退任の1ヶ月前の13年11月から始まり、議長は野村鉄道院副総裁、満鉄の首席委員は犬塚信太郎理事だった。11月下旬に翌年4月15日からの実施が決まった。ところがこの三線連絡特定運賃は、満鉄が創業以来基本方針としてきた大連港重視に反するものだったため、大連の実業倶楽部(後の商工会議所)を中心に、市民を巻き込んだ激しい反対運動がおきた。〔……〕結果、連長線の貨物運賃の引下げなどの緩和策が同時に採用された。」(41頁)

    • 「鮮満連絡運輸」
      • 「1911年(明治44)11月に安奉線の広軌改築完了とともに「鮮満直通運転」が始まり、翌年6月15日、日本鉄道院線、朝鮮鉄道線、満鉄線でいっせいに時刻改正をおこなった、連絡運輸実現のためである。この日はじめて日本初の特別急行列車が東京―下関間に運転された。新橋駅を午前8時30分に発車、翌朝9時38分に下関到着、10時40分発の関釜連絡船に乗って午後8時10分釜山着、同8時50分発の連絡急行で鴨緑江にのぞむ新義州に3日目の午後3時50分着、ここまで日本領であった。満洲側の安東着は午後3時35分、このころ満鉄は西部標準時間を使用しており、時差が1時間あった。日満時差解消は37年(昭和12)1月1日のことである。奉天着は午後9時55分、長春には4日目の早朝4時50分着だった。ここまで所要時間は69時間20分、満3日間の旅だった。釜山―奉天間で運転がはじまった直通急行は奉天で本線急行列車に併結し、長春で東清鉄道に連絡した。」(43-44頁)

    • 満鉄による満洲国全域にわたる鉄道運営の開始
      • 「満鉄は3月1日(※引用者註-1933年)の声明で、満洲国政府から既成鉄道各線の経営と図們線(後の敦図線)ほかの新線建設を受託することを発表、同時に奉天に鉄路総局をおいて各線の経営にあたり、大連本社に鉄道建設局をおいて新線建設にあたることを発表した。この時から、創業以来満鉄が経営してきた大連-長春間の連長線(連京線)ほかを社線、満洲国から委託された鉄道を国線と呼ぶ。満鉄は社線の1140キロと、国線の19路線約2970キロを合わせた約4100キロの、満洲全域にわたる鉄道経営にあたることになったのである。」(89頁)

    • 日本海経由の日満連絡の最短経路
      • 「先の満鉄声明(※引用者註-1933年3月1日)にあるように、この時期急がれた図們線、つまり安奉線につぐ朝鮮連絡線の建設であった。この鉄道が完成すれば、北満から日本海経由の日満連絡の最短経路が確立する。図們線は、日本からの借款で事変前に完成していた吉長(吉林長春、128キロ)、吉敦(吉林-敦化、211キロ)両線を、朝鮮国境近くの図們江岸まで延長しようという計画である(全線を通じて後の京図線)。じつは満鉄は国線の正式受託の前、満洲事変の余波の冷めない31年12月初旬に、敦図線建設予定地に向けて測量隊を派遣した。ところがこの一隊は現地中国軍に銃撃を受けて二人が死亡し、測量開始は1月半遅れた(『満洲鉄道建設誌』)。測量は河川湖沼が凍りつき、畑や森林が雪に覆われる冬期におこなわれることが普通だった。スタートでつまずいたもののその後は順調にすすみ、33年5月15日から敦図線(敦化-図們、190キロ)の仮営業がはじまった。」(90頁)

    • 新京で東行するのは何故か!?
      • 「東清鉄道は、元来は大連からハルビンまでほぼ南北に一直線に伸びていた。しかし日露戦争の結果、長春以南が日本に譲渡された時、ロシア側は寛城子を終点とし、満鉄側は寛城子の手前3キロの地点で線路を東行させて長春駅をつくって終点とした。両駅の間に連絡線を建設し、旅客は長春駅で乗換え、貨物は相互に相手駅に乗入れて積み替えた。したがって長春の市街地は長春駅前の附属地を中心に計画され建設されていた。北鉄買収後は旧東清鉄道の直線復活案もあったが、新線7キロを建設して現在線をいったん東行させてから本線に迂回合流させることにした。」(103頁)

    • 日本海航路
      • 満洲と日本をむすぶ主要なルートは、日露戦争末期からはじまった神戸―大連ルートと関釜連絡船を利用する下関―釜山ルートがあった。〔……〕さらにひとつ大陸から日本海側の港へのルートがあった。〔……〕30年には大阪―釜山―元山―清津―雄基間に月2便、敦賀清津間に月3便、敦賀ウラジオストク間に週1便と激増した。満洲事変後の34年には、新潟-清津-雄基間に月3便、敦賀―(清津・雄基経由)ウラジオストク間に月3便、敦賀清津-雄基間に月3便となった。注目されるのは朝鮮半島経由の付け根近い雄基港で、ここに月間の往復18隻全てが寄港することになった。これは33年9月に新京と図們をむすぶ京図線(528キロ)が開通したことによる。図們から北鮮東部線(147.3キロ)を利用して雄基港から、北満の農産物や鉱産物を日本に輸出できる最短路が完成したことを意味する。ただ雄基港は設備を拡大する余地に乏しいうえ風が強いことが難点とされた。いっぽう15キロほど南の羅津は大きな呑吐能力をもつ施設の建設が可能だった。日本政府の命令で満鉄では33年9月初めから測量を開始、雄基-羅津港間18.2キロの雄羅鉄道も完成させ、早くも35年11月から羅津港の利用を開始した。最終的んは900万トンの呑吐能力、大型貨物船48隻を同時に係留できる世界でも有数の港が目標だったが、完成には至らなかった。貨物列車の所要時間は不明だが、38年9月の「満洲支那汽車時間表」によると、急行列車は新京-図們間は11時間25分、羅津までは13時間20分である」(127-128頁)

    • 輸出港のはずが輸入港へ
      • 「〔……〕輸出は増加せず、羅津は39年度からむしろ輸入が増加した。満洲内の人口増による農産物の国内消費の増加や、金肥の利用による大豆粕の輸出が不振になるいっぽう、38年5月の産業開発5ヶ年計画の修正による満洲国の生産財の輸入が増加したためであった。「大連初め満洲の各港湾は、第一次生産物、特に農産物と石炭の輸移出が運営の基礎であることを前提にして設計されており、……輸入を目的とする施設は限られたもの」(『満洲開発40年史 上』)だったため、各港で輸入貨物の受入れに混乱をきたした。」(129頁)

    • 戦局悪化の中1945年2月の時点でもビールの飲み放題
      • 「〔……〕内地では44年には「決戦ダイヤ」と名づけて4月と10月に改正をおこなった。一等車・寝台車・食堂車が廃止となり、列車の速度低下、旅行制限があった。満洲では内地に比べて長距離乗車が多いことと、日本人が望む衛生的な食事を得ることが難しかったためか、44年12月の時刻表掲載の主要列車には、一等車・寝台車・食堂車が連結されている。朝鮮鉄道も同様である。45年2月に釜山から京城まで夜行特急列車に乗車した飯塚浩二東京帝大教授は、食堂車でいくらでもビールが飲めることに驚いている(飯塚浩二「満蒙紀行」)。満洲国・関東州では、43年4月1日から外食券が必要となったが、寿司屋・麺類食堂・ロシア料理店・中国料理店とともに、列車食堂・駅構内食堂(駅弁も)は外食券は必要なかった(昭和19年版『満洲年鑑』)。」(141-142頁)

    • 敗戦と在外邦人 居留民現地定着方針
      • 玉音放送前日の8月14日、東郷茂徳外務兼大東亜大臣は、中国・満洲・タイなどの大使館はじめ各在外機関に訓令を送り、ポツダム宣言受諾と、居留民に対する処置として、居留民は出来得る限り定着の方針を執る、居留民の生命財産の保護に付ては万全の処置を構ず、などの方針をしめした。具体的処置については、「居留民食糧準備及び生計救済に付いては……現地軍と連絡の上相当期間の食糧を確保し」とあった。しかし満洲においては関東軍の上層部は三角地帯の死守などを口実に、家族とともにいち早く安全地帯に非難し居留民を見棄てたことは、よく知られた事実である。東郷大臣の訓令は、あまりにも現地の実情を無視したものであり、敗戦国民が外地においてどのような事態にさらされるか、まったく想像力を欠いていた。」(149頁)

    • 満鉄と弘報
      • 「1935年(昭和10)の「満鉄業態二六」(『協和 150号』)によると、弘報の始めは新聞雑誌による社業広告、社内各所に対する広告資料の提供であった。しかしこのころには「社業紹介上の主義」は、次の大綱に収斂した。(1)文章宣伝、(2)形影宣伝、(3)口受宣伝である。」
      • 「(1)文章宣伝は文字通り文章による宣伝で、帰国後の作品発表を期待して菊池寛横光利一直木三十五志賀直哉と有島生馬、吉屋信子等の女流作家、北沢楽天宮尾しげを等の漫画家、和田三造・岡田三郎助等の画家、そのほか河東碧梧桐与謝野晶子夫妻などを招待した。「北京秋天」などの名作を生んだ梅原龍三郎安井曾太郎華北交通の招待である。八木沼は師の斎藤茂吉を公私混同的に接待したと石原は記している。与謝野晶子に師事した小日山直登総裁はじめ満洲では短歌、俳句が盛んで、歌人俳人の渡満は同好の士の招待によることが多く、満鉄では鉄道、旅館の便宜をはかった。満洲事変直後には、満洲の実態を世界に広く知らせるため、英文の満洲地図・満洲年鑑などを欧米で頒布した。」
      • 「(2)形影宣伝は、映画・写真・絵画・図案等をさす。一例として満洲事変の翌早朝の現場の活動写真班・普通写真班の活動とその成果があげられている。『満洲事変写真帖』『満蒙破邪行』はその成果の一つである。33年6月から10月まで5カ月間シカゴで開催された「進歩1世紀 万国博覧会」の満鉄館に、渕上が主導してつくった満洲写真作家協会員を動員して写真100点を出陳し、その後2年間にわたり「満洲のロマンス」と銘ち全米各都市を巡回した。35年5月にもパリに写真100点を送った。昭和初年から40年ごろまで内地で流行した博覧会に関する事業も、形影宣伝の一環である。その担当者として加藤新吉が指名したのが、戦前は都市対抗野球の強豪だった満倶(満洲倶楽部)の監督を務め、戦後にプロ野球パ・リーグの会長となった中沢不二雄である。」
      • 「(3)口受宣伝は、講演、ラジオ、レコードによるものである。石原によると、野口雨情の詞で「満洲前衛の歌」「吉林小唄」などを作ったがあまり成功しなかった。作家や歌人俳人の来満の際は講演するというのが、夏目漱石以来の恒例となっていた。リベラリスト長谷川如是閑を招待した際は、日本の満洲政策に批判的な長谷川と現地有力者の間で議論が沸騰したこともあったという。16代総裁の小日山は松岡洋右総裁以来の熱弁家で、ラジオで時局放送をすることも多く、45年4月に鈴木貫太郎内閣の運輸大臣になるまで、その原稿づくりも広報担当者の仕事であった(鈴木守「小日山総裁のラジオ放送」『満鉄会報226号』)。」(226-228頁)

    • 満洲グラフ』
      • 「弘報課がもっとも力をいれたものが『満洲グラフ』(33年9月号~44年1月号)である。33年は2冊、34年は6冊、35年は1月号を刊行した後休み、5月号から月刊に移行した。44年1月号まで継続し、満洲国と満鉄の弘報を目的としていた。雑誌の大きさは最初菊倍判、後にB5判、雑誌の開きも右開き左開きなどの変遷があった。この時期は内地でもグラフ雑誌は『アサヒグラフ』が刊行されているだけ、世界のグラフ誌をリードした『ライフ』もまだ発行されてはいなかった時代なので注目を浴びた。ソ連の第一次五か年計画を世界に宣伝していたグラフ雑誌『C・C・C・P』を分析、参考にしたという(名古屋市美術館『異郷のモダニズム』展 図録)。〔……〕33年に3月に満鉄は満洲国内の経営と新線建設を委託され、従来の南満洲を中心とする鉄道から全満洲に、その規模を拡大した。『満洲グラフ』の創刊は、まさにそのような時期にあたっていた。」(229-230頁)