- 満洲事情案内所 編『まんしう事情』満洲事情案内所、昭11(1936)、89-90頁 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268420/56
- 『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、昭和14(1939)、73-79頁 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122541
- 鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585
- 奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553
満洲事情案内所 編『まんしう事情』満洲事情案内所、昭11(1936)、89-90頁 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268420/56
- 地理
- 奉天城
- 「奉天の旧市区を囲む一区域が奉天城である。満洲及び支那では城内に民戸を包容すること日本の築城とは異なる所で、日本では境界を濠を以てするが満支では瓦磚を築いて以てする。城壁の四面に各二門を開いて居るが、西南部には商埠地、それから鉄道附属地が接して居るので、自ら大、小西門の筋が繁華になつて居る。城壁は高さ約二丈、副は壁上に於て約一丈、砲車が運行出来る。城区の中央に前清の宮殿、その東南部に諸官衙があり北部は住宅地。繁華の中心は小西門と大北門路と交叉する四平街で、それから大西門迄の間である。(南部を商区とするは支那の築城の恒例)今は官衙としては奉天省公署、奉天市公署、瀋陽県公署(奉天市を管轄せず)満洲国交通部が委託する所の満洲の鉄道全部(極めて少数の私鉄を除き)の為に満鉄はその経営本部として鉄路総局を置いて居る。今の處満鉄の鉄道運輸営業本部である満鉄鉄道部と対立して居るが、運用上不便もあるので11年中には鉄道部を奉天に移転し、幹部は後方兼務といふやうな予定とか。」
- 邦人集団都市
- 日本側諸機関
- 奉天駅
- 観光資源
- 「見るべき所は宮殿、博物館および東陵、北陵がある。小河沿も荒廃から救はれた。」
『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、昭和14(1939)、73-79頁 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122541
- 歴史
- 区画
- 人口
- 「総人口73万9906人中、日本人10万4905人(内訳、内地人86987人、鮮人17918人)欧米人1100人である(昭和13年6月調)」
- 旧満鉄附属地(74頁)
- 「旧満鉄附属地は総面積約409万坪、大体に於て長方形をなし鉄道の東を市街地、鉄道の西を工業地として分つ。市街は秩序正しい直角形式をなし駅前より千代田通、浪速通、平安通の三大道路を放射せしめ、浪速通の中間に大広場、平安通の中間に平安広場がある」
- 「浪速通、千代田通は商業地区にして浪速通には邦人の商店多し。附属地東南部は医科大学其他諸学校立ち並び学校街を形成してゐる」
- 「現在大市街をなす附属地も30年前には荒涼たる原野で然もその大部分は墓地であり、日露戦役の狼穿、塹壕等があり血腥き戦場に駅と守備隊があるばかりで日本居留民は商埠地10間房方面に居を構へてゐるに過ぎなかつた。かくて今日の如き発達の緒に就いたには明治41年満鉄が市街計画に着手してからの事で当時全人口は日支人を合して二千名に過ぎなかつた」
- 商埠地(74頁)
- 鉄西工業地区(75頁)
- 奉天城(75頁)
名勝地
- 宮殿(75頁)
- 市場(76頁)
- 「内城の外側城壁に沿ふて、大西門から大東門に至るまで狭長な市場が構成されて居て、古着、鍛冶金具、雑貨、骨董品、野菜、獣肉、家具、等の店が夫々軒を並べて居る」
- 同善堂(76頁)
- 「本堂は光緒7年(1881年)左忠荘公の設立に係る社会救済事業の一施設で貧民、医務、孤苦、工芸の四部に分れ相当整備された方法で経営されて居る。私生児の捨子を受取る救生所、逓入した娼婦を収容する済良所、乞食を収容する棲流所等は珍しい施設である。」
- 北陵 奉天駅の北方6粁 (76-77頁)
- 東陵 城内から東方約14粁 (77頁)
- 国立博物館 (77頁)
- 「建物は湯玉麟の私邸を改造したもので白亜三階建の高壮なものである。仏像、服飾類、陶磁器書画、古代遺品等多数が二十一室に分類陳列され見学価値多いところである。」
【視察の順序】(77-79頁)
〇半日行程の場合
- 駅(旅館)-忠霊塔-国立博物館-北陵(又は北大営)-城内-吉順絲房(百貨店)-帰着
- 遊覧バス(18人乗)5時間 普通団体 18円 中等学生以下 15円 但し大型(25人乗)の場合は前記料金の3割増、5時間以上使用の際は右何れの場合共1時間に附金3円
- 馬車 9-10時間(一日行程と同じ) 普通団体 2円 中等学生以下 1円90銭
〇一日行程の場合
〇順路外割増料金
- 半日及一日行程でも左記箇所を追加した場合は1ヶ毎に2円の割増料金を要す(大型車使用3割増)
- 鉄西工業地区廻り、大東門以東兵工廠方面廻り、北飛行場廻り、北塔廻り、小東辺門廻り
〇時間貸料金
- 1時間5円(大型3割増)但3時間を経過1時間に附3円(大型3割増)
鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585
観光奉天の全貌(7コマ)
名所古蹟(10-12コマ)
- 概要
- 忠霊塔
- 北陵
- 東陵
- 「天柱山福陵が正称であるが普通東陵と呼ばれてゐる、清の太祖高皇帝を祀り城内から東方約14粁のところにある、陵城は周囲約16.3粁その結構は北陵と酷似してゐる。」
- 宮殿
- 北大営
- 「満洲事変の発端地で、昭和6年9月18日午後10時30分張学良麾下の王以哲軍が、奉天文官屯間の柳条溝に於て満鉄線を爆破し対日戦線の挙に出た、当時虎石台守備隊第三中隊の河本中尉は数名の巡察兵を率ひ夜間警備演習中突如この爆音に接するや、直ちに其の一名を虎名台に急報せしめ一方支那兵を追撃し、寡兵よく応戦し、程なく急行軍して来た援隊と共に猛襲を加へ北大営攻略の作戦に出た、この時兵営内精兵約1万は猛然起つて我軍に迫つたが大隊本部及第一第四中隊の援隊を得て、午後11時50分敵兵舎爆撃の戦法に出で我軍は撫順鉄嶺両部隊の到着により一層優勢を加へたので、流石の支那兵も悉く浮足となり兵舎の猛火煙を見つつ御前5時20分完全に我軍に占拠された、この戦闘に於て我軍は戦死2名負傷者22名を出したが支那兵は三百廿の死体を残してゐた(奉天駅より馬車で約10時間馬車賃往復2円、自動車で30分特定料金4人乗4時間貸切10円)」
- 同善堂
奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553
奉天遊覧バス案内
- 全コース
- 短コース
- いづれも定評ある明朗ガイドガールの案内説明付
- お申し込みは
- 奉天交通株式会社
- ジャパン・ツーリスト・ビューロー
掲載写真・キャプション解説
- 国立博物館
- 室生犀星「北陵の石仏」
- 「石仏と云つても奉天の北陵にある石獣のやうなものを見ると石仏の本格的なものであつて燦然として見惚れ、驚きと讃嘆を深くするばかりである。私はああいふ立派な石獣を見たことがない、獅子、走獣、麒麟、馬、駱駝、像、などの石獣は本物よりも大きく丸彫りにされ、石質は腐食しないでこのごろ作つたばかりのやうに見え、壮麗といふよりも、厳めしい美しさである。そのうちの二頭の石馬は太守の乗馬を形どつたものに稱はれてゐる。永年の風雨に石の肌が一さう滑らかになり、各々の石獣の首や手足の円みは製作当時よりも一層円く、柔しくなごやかに見えるー私はもつと永い間、kれらの石獣を見て居れば宜かつたと思ふくらゐであつた。帰来、どういふ石仏を見ても、これらの石獣を見たときのやうに美しさを感じたことがないからである」(9コマ)
- 北大営
- 柳条湖
- 「此の日昭和6年9月18日午後10時30分張学良麾下の王以哲軍は南満鉄道奉天天文官屯間北大営附近の柳条湖に於いて鉄路を爆破し、対日戦線の挙に出た。当夜虎石台守備隊第二大隊第三中隊の河本中尉は6名の兵を引率、夜間警備演習中で、北大営西の鉄道線路に沿ひ、北より南へ奉天駅の方向に向つて前進して来ると、約2百米後方の此の地点に於て大爆音を聞き、事態重大とみて直ちに部下1名を虎石台に急報せしめ、一方爆破作業の支那兵を追撃射殺し、北大営附近に迫ると塔つじょ東側の高粱畑より2百余と思はれる支那伏兵から一斉射撃を受けたので、直ちに応戦程なく急行軍して来た援隊と共に猛射を与へ、北大営攻略の戦に出たもので満州事変発祥の地として永久に記念さるべき地点である。」(10コマ)
- 天斎廟
- 城内
- 同善堂
- 奉天神社
- 躍進途上にある鉄西工業地区
- 東陵
奉天遊覧バス案内
- 全コース
- 短コース
- いづれも定評ある明朗ガイドガールの案内説明付
- お申し込みは
- 奉天交通株式会社
- ジャパン・ツーリスト・ビューロー
各種案内(19コマ)
戦跡案内
- 概要
- 大南門
- 北陵
- 「陵墓として知られているが、乃木第三軍の歩兵第28連隊の苦戦したところとして忘れることの出来ないところである。」
- 受降ケ丘
- 「3月10日よりの激戦で11日払暁には、丘も畑も累々として横田たはる彼我の死傷者の中に、敵も味方も疲労困憊の末、ただ茫然とし、白旗を立て、降伏する敵捕虜の数は一万を超え、軍旗一旋火砲30余門の日露戦役中、最大記録の鹵獲を得た。第6師団長はこれを永遠に記念すべく碑を二台子に建設して受降ケ丘と題した。」
- 干洪屯(李官堡)
- その他
社寺と史蹟案内
- 黄寺
- 「本名は宝勝寺と云ひ、皇寺とも謂はれてゐる黄喇嘛教の寺である為にこの名があるが、満洲に数多くある勅建喇嘛教寺中の総本山とも称すべき名寺として知られ建物の結構荘厳なことは随一で、毎年陰暦1月14日の祭典には近郊在から、此処の有名な打鬼祭(喇嘛踊り)をみに来る人達で、さしも広大な寺内も埋め尽くされて了ふ程である。この打鬼祭は日本に於ける節分の豆撒きに匹敵する催しで、奇妙な面を被つて悪魔払いを面白く踊るものである。(小西辺門外)」
- 珠林寺
- 天壇
- 「天壇は太祖皇帝が即位の時、此の地に来たり遥かなる天に向つて、それを告げた処で、又出征に際しては戒衣の将卒を檀下に集めて香を焚き、生贄を供へて武運長久と戦勝を天に祈つた所で、昔は丘の上に高さ9尺径9問の台が築かれてあつたと伝えられてゐるが、今はただ朽ち果てた寄り木に囲まれて、崩れかけた瓦壁によつて、やつと位置を残してゐる程度であるが、不思議なことはこの中に立つて物云ふと、遠く天とも地ともなく木霊となつて返つて来ることである。(大南辺門東へ二粁)」
近郊名勝案内
- 元帥林
- 湯崗子
- 「近郊唯一の温泉として有名である。天下の絶勝干山を背にして鞍山河を望み、美しき眺望に富む古城趾等の古蹟を加へてまた、旅情を慰めるには絶好の浴地である。 汽車賃 奉天より片道 1.60」
- 龍首山
盛り場
- 平康里
- 「奉天でなければ味へない満人紅燈街で、旅の徒然に『開盤子』も一興と云ふべきである。学良華やかなりし時代には時の満人高官達が夜毎通つたと云はれてゐる。艶楽書館はその代表的なものである。」
- ダンス
- 「明星、スターブロード、ウエー、と三軒のポールルームがある。時局柄まり派手にやつてゐないが、内地では味はへない異国的な雰囲気だけは失はれない。」
- カフエー
- 「五彩に輝いたネオンに包まれて芳酵な和洋酒と美女が縫ふクツシヨンの陶酔境は、正に此処が随一、銀鈴、グランド祖国船場会館、改良軒、上陸、みち草、等、此の他に異色カフエーとしてロシア美人ばかりのボルガがある。」
- 食堂
- 「簡素に手軽にそして低廉な安心して食事の出来るところは、満毛食堂、ガスピルグリル、オリエンタルその他で、高級なものにヤマトホテルグリルがある。」
- 映画館