前回は昭和戦前・戦中期における挙国一致内閣の成立から日中戦争の諸内閣を確認した。だが政治史だけを眺めていると、なぜ日中戦争が勃発したのか、国際関係史的な側面が抜け落ちてしまう。それゆえ、今回は補論として日中戦争の経緯を確認していく。
【前回】
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- ①中華民国の成立と清朝の滅亡
- ②軍閥割拠
- ③中国統一を目指す(北伐)
- a.第一次国共合作
- b.北伐開始
- 1926年、孫文の後を継いだ蔣介石が、北方軍閥を倒して中国全土を統一するため国民革命軍を率いて北伐を開始する。
- c.国共分離
- 1927年4月12日、蔣介石は共産党の力を恐れて上海クーデタを起こし北伐から共産党を排除する。(第一次国共合作の破綻)
- d.北伐に対する日本側の動き(田中義一内閣の強硬外交)
- ⅰ.第一次山東出兵…1927年5月、北伐軍が山東半島に迫ると、田中義一内閣は山東半島に陸軍を出兵させて牽制、北伐は一時中止されることとなった。
- ⅱ.東方会議…1927年6月27日~7月7日に田中義一内閣が開催。北伐に対して満蒙特殊権益の確保を護る方針を決定「満蒙は中国領土にあらず」と結論
- ⅲ.済南事件(第二次~三次山東出兵)…1928年4月に北伐が再開されると、田中義一内閣は第二次山東出兵を行った。5月3日には交戦が始まり、内地から1個師団を増派して5月8日に総攻撃を開始、11日までに済南中心部を占領した(第三次山東出兵)。北伐軍は済南を迂回して北京に迫った。
- ⅳ.張作霖爆殺事件…北伐軍に敗北した張作霖は1928年6月3日に北京を脱出。しかし翌日、引き揚げてきた張作霖は関東軍により奉天郊外で列車ごと爆殺された。
- e.張学良易幟
- 張作霖爆殺後、関東軍は満州の実効支配を目論むが、後を継いだ息子の張学良は国民党に下り、満州支配を認めた。1928年12月26日、国民党の「青天白日旗」が掲げられ、国民党による中国全土の統一がほぼ達成された。
- ①満蒙の危機
- 田中義一内閣と交代した浜口雄幸内閣は幣原喜重郎が再び外相となり協調外交を復活させた。だが、軍部は「満蒙の危機」を叫び、満州を中国から切り離そうとした。
- ②満州事変の始まり
- a.柳条湖事件
- 1931年9月18日、関東軍参謀の石原莞爾が奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破。これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始。
- b.不拡大方針の挫折
- 第二次若槻内閣は不拡大方針を声明するが収拾つかず1931年12月に犬養内閣に交代。
- c.第一次上海事変
- 1932年1月18日日本海軍陸戦隊が上海の中国軍を攻撃。日本は苦戦し5月に休戦した。中国本土への侵略は挫折し、石原も満州の直接支配を諦め、傀儡政権樹立に切りかえた。
- ③満州国をめぐる動き
- a.満州国の建国
- b.国際連盟の動き
- ⅰ.リットン調査団の報告書では、満州事変は日本の軍事行動は自衛ではないとされ、満州国は自発的な民族独立運動によって建国されたとは認められなかった。
- ⅱ.しかし日本の満蒙での権益は認められ、日本と協力する自治的な政権が成立することは容認されていた。
- c.日本の国際連盟脱退
- 1932年2月リットン報告書を受けて、満蒙からの撤兵の勧告する決議案が出されたが、松岡洋右は総会会場から退場し、3月に国際連盟からの脱退を通告した。
- ④満州事変の終息
- a.塘沽停戦協定
- 1933年5月に締結。河北省東北部の冀東地区から日中両軍が撤退し、非武装地帯を設定した。これにより満州事変は終息した。
- b.満州国の帝政化
- 1934年、満州国の執政溥儀が帝政を宣言し、皇帝となる。
- ①華北分離工作
- 塘沽停戦協定により満州を中国本土から分離させると、続いて華北も切り離すために華北分離工作を進めた。1935年11月には冀東防共自治委員会を樹立した。
- ②西安事件
- 蔣介石率いる国民党は「安内攘外」を唱えて日本との戦いよりも国内における共産党の討伐に力を注いでいた(国共内戦)。共産党の新根拠地である延安の攻撃を命じられた張学良は蔣介石を監禁して国共内戦の停止と一致抗日を要求した。
- ③日中戦争の勃発
- a.盧溝橋事件
- 1937年7月7日、北京郊外で日中両軍が衝突。いったんは停戦協定が成立したが、第一次近衛内閣は不拡大方針を転換して戦線を拡大。日中戦争の発端となった。なお戦争状態になるとアメリカから武器弾薬が輸入できなくなるため、宣戦布告せず「事変」と呼んだ。
- b.第二次上海事変
- c.第二次国共合作
- 蔣介石の上海クーデタ以降国共内戦が続いていたが西安事件で内戦が停止され、日中戦争が勃発すると、1937年9月に再び国共合作を宣言し、抗日民族統一戦線を結成した。
- d.南京陥落と戦争の泥沼化
- 1937年12月に日本は南京を陥落させるが、蔣介石は中国奥地の重慶に首都を移転し徹底抗戦を続けたため泥沼化した。
- ④近衛声明
- a.第一次…「国民政府を対手とせず」→国民政府に代わる傀儡国家を樹立する方式に転換。
- b.第二次…戦争目的を日満華による東亜新秩序建設と声明→汪兆銘、重慶を脱出してハノイへ。
- c.第三次…日華提携の原則は「善隣友好・共同防共・経済提携」→汪兆銘、新国民政府を樹立(1940.3)
- ⑤戦局の打開策が太平洋戦争の勃発を招く
- a.南進論への転換
- 張鼓峰事件(1938)、ノモンハン事件(1939)で日本がソ連に敗北したにも関わらずドイツは独ソ不可侵条約を締結(1939.8)。日本は日独伊蘇で提携し、南進する方針に転換。
- b.北部仏印進駐
- 1940年9月、援蒋ルートを遮断するため進駐→同時期に三国同盟も結び、日米関係悪化
- c.松岡外交の破綻
- 1941年4月、日ソ中立条約を結ぶが、2カ月後に独ソ戦が開始されてしまう。
- d.7.2御前会議「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」
- 海軍が主張する南方進出と、陸軍が主張する対ソ戦の準備という二正面での作戦展開を決定。
- e.関東軍特殊演習
- 上記dを受け、陸軍は極東ソ連領の占領計画をたて、約70万人の兵力を終結した。だが、南部仏印進駐により南進論が重視されるようになり、8月には対ソ戦の計画は中止された。
- f.南部仏印進駐
- 1941年7月、戦略物資調達のため南部仏印に進駐
- →米は在米日本人資産の凍結、石油の対日輸出禁止などの措置をとる。
- g.太平洋戦争の開始
- →日本の軍部、「ABCD包囲陣」の圧迫を跳ね返すためには戦争以外に道はないと主張→1941年12月8日、太平洋戦争開始。