帝国主義 列強の植民地分割

1.アジア分割

(1)オスマン帝国への列強進出

  • 背景:19世紀末、帝国内の諸民族が自立化の動きを活発化し政情不安定
  • ロシア…スラヴ民族主義を利用してバルカン半島進出をはかる
  • イギリス…ウラービー=パシャの反乱鎮圧を契機にエジプト占領。クウェートを保護下にペルシア湾岸地域に勢力圏拡大。
  • ドイツ…バグダード鉄道敷設権とバスラ築港権を獲得し、ベルリン・ビザンティウム・バグダードを結ぶ3B政策

(2)インド・東南アジア・中国へのヨーロッパの進出

(3)アジアをめぐる英露対立

  • ②ロシア …中央アジアに進出。
    • ロシア領トルキスタンの形成(1860年代にブハラ=ハン国、70年代にヒヴァ=ハン国を保護国化。76年にコーカンド=ハン国を併合)
    • 新疆への進出…1881年清朝との間にイリ条約を結ぶ。
  • 帝国主義列強の対立激化!
    • 英露対立…イランとチベットをめぐって勢力争いを展開。
    • 中国進出…日清戦争で政治的に混乱する清朝から租借地や鉱山開発権、鉄道敷設権を得ようとする。

2.アフリカ分割

(1)アフリカ分割

  • 19世紀前半…ヨーロッパ人のアフリカに関する知識は沿岸部にのみ限られる。※北部やインド航路の港など
  • 19世紀半ば…リヴィングストン、スタンリーの探検 ⇒列強はアフリカに関心を示す
  • 1880年初め…コンゴ地域をめぐりヨーロッパ諸国が対立する。
  • 1884~85年…ベルリン会議
    • ベルギー王レオポルド2世によるコンゴ領有宣言にイギリスなどが反発した際ビ スマルクが仲介して開かれた。
      • ベルギー国王の所有地としてコンゴ自由国 の設立を認める。
      • アフリカ植民地の原則を定める →先占権と実効支配
  • 1880年代→内陸部にも支配が展開 「アフリカ分割」

(2)植民地化を免れた国

  • エチオピア帝国
    • 名君メネリク2世のもとで対仏援助を引きだし、伊軍の侵攻を撃退。列強対立を利用して、巧みに独立を守る。しかし1935年の伊のムッソリーニに侵攻を受け、翌36年併合された。
  • リベリア共和国
    • 1822年以降アメリカ植民地協会の援助で入植した黒人解放奴隷が1847年に独立を宣言した共和国。国名リベリアはliberty(自由)からきているとの説がある。

(3)アフリカ分割をめぐる英仏対立

  • ①イギリスの縦断政策…エジプトとケープ植民地を結ぶ。カイロとケープをさらにインドのカルカッタにつなげる3C政策を追求。
  • ②フランスの横断政策…アルジェリアチュニジアを拠点に、サハラ砂漠の南辺に沿って西アフリカから東海岸(ジブチ)に至る。
  • ③ファショダ事件…スーダン南東部のファショダで英仏が衝突。当時スーダンはエジプト統治下にあったが、フランスが占領したため、イギリスが進軍した。英仏が独の強大化を警戒して妥協が成立。

⇒1904年英仏協商エジプトにおける英の支配的地位と、モロッコにおける仏の支配的地位を認め合い独に対抗

(4)各国のアフリカ分割

(4)-1.イギリスのアフリカ分割
  • ①エジプト経営
    • 1875 スエズ運河の株式買収(ディズレーリ政権・ロスチャイルド家の支援)で実権掌握
    • 1881~82  ウラービーの乱 ⇒ 鎮圧・占領・事実上の保護国化 ⇒ 1914年正式に保護国
    • 1881~98  マフディーの乱 ⇒ 自らマフディー(救世主)と称するムハンマド=アフマドに率いられたスーダンイスラーム教徒による反英抵抗戦争。ゴードン(クリミア戦争やアロー戦争、太平天国の乱鎮圧に活躍した)が戦死。89年に征服
  • 南アフリカ経営
    • ケープ植民相セシル=ローズの侵攻政策
    • 1899~1902 ボーア戦争 (南ア戦争・ブール戦争)
      • →ボーア人(ブール人)はケープ地域のオランダ系子孫。ケープ地域が英領となって以来北に移住し、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建てた。金とダイヤモンドが発見されたため、セシル=ローズは帝国主義侵略戦争開始。1906年イギリスがボーア人に先住民への優越権を与えたことがアパルトヘイトの先駆けとなった。
  • ③アフリカ縦断政策
    • エジプトのカイロと南アフリカのケープタウンを結ぶ政策。インドのカルカッタとあわせて3C政策とした。アフリカ縦断政策ではフランスの横断政策と対立し、3C政策ではドイツの3B政策と対立することになった。
(4)-2.フランスのアフリカ分割
  • ①アフリカ横断政策
    • 1830年アルジェリア占領⇒1881年チュニジア占領⇒サハラを横断してジプチ、マダガスカルと結合しようとする。
  • ②英仏の妥協
    • 1898年ファショダ事件で英仏衝突 ⇒ 英仏が独の強大化を警戒して妥協 ⇒ 1904年英仏協商(エジプトにおけ英の支配的地位と、モロッコにおける仏の支配的地位を認め合い独に対抗)
(4)-3.ドイツのアフリカ分割
  • 1880年代 ⇒カメルーン・南西アフリカ・東アフリカなどを獲得するが、経済的価値に乏しい
  • ②20世紀 ⇒ 新たな植民地獲得を目指して、2度のモロッコ事件を起こす。
    • 1905年 第一次モロッコ事件…英仏協商によるモロッコにおける仏の優位に独が抗議。ヴィルヘルム2世がタンジールに上陸し、列国会議を要求。1906年のアルヘシラス会議で独の要求は却下。
    • 1911年 第二次モロッコ事件…独が砲艦をアカディールに派遣して仏を牽制。独は仏領コンゴの一部が与えられるにとどまった。モロッコは1912年仏の保護国(一部スペイン)。
(4)-4.イタリアのアフリカ分割
  • ①東アフリカ進出…エリトリアソマリランド獲得
  • ②アドワの戦い…エチオピア侵略戦争をしかけるも敗退。フランスから武器貸与を受けたメネリク2世がゲリラ戦で完勝した。イタリアは無力を露呈したと言われる。
  • ③伊土戦争(1911~1912)…列強の関心が第二次モロッコ事件に向いている中、トルコからトリポリ・キレナイカ(現リビア)を奪う。

(5)アフリカ分割の結果

  • 収奪されるアフリカ…かつて奴隷供給地として労働力を収奪されたアフリカは、19世紀末以降、ヨーロッパ資本の投資先となり、地下資源と熱帯作物の供給地として収奪されるようになった。

3.オセアニア分割

(1)イギリスの太平洋地域進出

  • ①オーストラリア…1770年にクックが探検し英領。88年流刑植民地。19世紀初めから牧羊業が発達し、1850年代から金鉱が発見されると移民が急増した。先住民はアボリジニ
  • ニュージーランド…1642年タスマンが到達。先住民はマオリ人。
  • ニューギニア…蘭が西部を占領し、英独が東部を南北に分割し占領。英領は南でパプアと呼称

北ボルネオ…現在はマレーシアのサバ州。南部はオランダ領。

(2)ドイツの太平洋地域進出

(3)アメリカの太平洋地域進出

  • ②ハワイ併合…1778年英のクックが到達。1795年にカメハメハ王朝が成立し1810年に全島を統一しハワイ王国を樹立した。カメハメハ1世が政権維持のために白人を利用。1893年親米系市民のクーデタで臨時政府が樹立されると、リリウオカラニは廃された。97年に併合条約が成立し、翌98年に併合された。

(4)その他の太平洋地域

4.極地探検

  • 背景:埋蔵資源獲得の漠然とした期待
  • 北極
    • ピアリ…アメリカ。1909年、北極点の初到達に成功。
  • 南極
    • アムンゼン…ノルウェー。1911年、スコットとの競争に勝って南極点の初到達に成功。
    • スコット…イギリス。1912年、アムンゼンに1ヶ月遅れて南極点に到達。帰途、遭難死。

5.植民地主義と人種主義

  • 帝国主義の時代に、人種間の優劣を当然視する人種主義が広がる。
  • ①「文明化の使命」論…経済開発で先住民は生活が向上し医療や教育で恩恵を受ける。先住民の同化主義。
    • 現実…利益を得たのはごく一部・劣悪な医療水準・本国言語と帰属心を育む教育・植民地行政への奉仕。
  • ②人種主義…優秀人種が劣等人種を支配するのは当然であり、白人を最優秀とする人種間の優劣論。
  • ③差別…ユダヤ・アイルランド・イタリア・アジア系への差別。米国南部における黒人の権利制限(ジム=クロウ法)。