木村美幸「海軍と在郷軍人会」(『史学雑誌』第128編第11号、2019年、1-26頁)

  • 概要
    • 海軍は当初在郷軍人会に加入しなかった。その理由は在郷軍人を兵力として見ていなかったことによる。しかし第一次大戦が総力戦となったことにより、海軍の在郷軍人も貴重な兵力として捉えるという転換が起こる。こうして在郷軍人会に海軍も参加したが、陸軍主導の状況に対し海軍軍人たちは不満を抱く。そのため海軍班(部)、海軍分会が設置されたが、太平洋戦争の勃発により海軍分会は解散されて海軍部へと一本化された。しかし一貫して陸軍の下におかれる状況は変わることなく、海軍在郷軍人在郷軍人会に対する不満は敗戦まで変わることは無かった。

はじめに

  • 本稿の課題
    • 地域における海軍の在り方や、志願兵募集に密接に関わっていた海軍在郷軍人について検討すること。
    • 以下の論点について、制度の面に注目して考察する
      • ①海軍が在郷軍人会加入を決定した背景→第一次世界大戦による総力戦体制
      • ②1925年の海軍班設置の背景→志願兵募集状況の悪化
      • ③海軍班の活動内容とその展開→軍事普及業務
  • 使用史料
    • 海軍省『公文備考』、特に簡閲点呼報告を使用する。
      • 海軍の簡閲点呼とは1898年に制定された「海軍召集条例」にて成立した在郷軍人の在郷状況を調査するために実施される点呼のこと。1923年まで簡閲点呼報告の所在が確認できる。
    • ②『点呼参会者のために』
      • 1920年以降簡閲点呼対象者への配布を意図して作成され、点呼対象者以外も含めた海軍在郷軍人すべてに市町村役場を経由して配布された。発行は海軍省人事局。
    • ③『海軍人事部報』
      • 鎮守府の海軍人事部が発行した部報。佐世保では1922年から発行され、呉・横須賀では1928年から発行されている。市町村役場を経由して海軍在郷軍人・警察署などに配布された。各鎮守府の海軍についての最新情報が掲載される。

第1章 海軍軍人在郷軍人会加入問題

第1節 海軍軍人の在郷軍人会不参加決定

  • 1910年に在郷軍人会が設立された際には海軍は不参加
    • 海軍は陸軍ほど在郷軍人を重要な兵力と考えておらず、統制に必要を感じていなかった。このため海軍は財源が不安定で海軍在郷軍人にとって必要な事業の実行が見込めない在郷軍人会に加入しなかった。

第2節 海軍の在郷軍人会加入と「在郷軍人に賜りたる勅語

  • 1914年に海軍は在郷軍人会に加入する
    • 任意加入としたために在郷軍人会に加入する海軍軍人がおり不利益を被っていたこと、第一次大戦開始による陸軍側の在郷軍人の地位向上の流れを受け、1914年10月に海軍は在郷軍人会に正式加入した。
    • 加入にあたっての勅語には海軍の反対にもかかわらず「陸海一致」の文言が盛り込まれた。

第2章 海軍班の設置

第1節 在郷軍人会加入後の状況

  • 在郷軍人会から海軍軍人の分離が検討されるようになった背景
    • ①海軍軍人の不満
    • 「陸海一致」の元に、海軍軍人は陸軍軍人と同じ分会で事業を行うことになるが、陸軍本意のものであったので、海軍軍人には不満が高まる。
    • 第一次世界大戦による海軍における在郷軍人観の変化
      • 第一次世界大戦が総力戦となりイギリスでは漁夫まで徴発されている状況を見て、海軍は在郷軍人の動員すら十分に考えていなかったので、総力戦の影響の大きさを感じる。
        • →1919年海軍予備員条例が海軍予備員令へと改正。現役兵としての経験の無い船員など海軍に関係する技術をもつ人物を有事の際に兵員とする海軍予備員制度も整備拡充された。多数を動員する際に在郷軍人は軍隊教育をうけている重要な兵力源として見られるようになった。

第2節 海軍在郷軍人団体をめぐる対応

  • 海軍在郷軍人の私的団体の結成要請
    • 1921年になると山形市大牟田市などから海軍分会の設置が要請された。これに対し人事局は在郷軍人数が少数の地域における状況に配慮し、当初は否定的な態度をとった。しかし、志願兵募集状況の悪化の中で対応を模索。1925年3月に在郷軍人会内部に海軍班を、在郷軍人会とは分離しない形で設置することになった。

第3章 海軍班(部)・分会の活動と「陸海一致」

第1節 海軍班(部)の活動

  • 活動内容(海軍班は1933年に海軍部と名称を変更するが活動内容に大差はない)
    • 『海軍人事部報』『点呼参会者の為に』などには、動員業務補助、簡閲点呼補助、慰問、葬式、軍事普及、海軍記念日行事の開催、軍艦旗の掲揚、志願兵勧誘、海兵団入団者予備教育、海軍軍事訓練、廃兵器の下付・貸与の申請、献納など。在郷軍人会の事業の中でも特に海軍に特化した内容を行っていた。
    • 特に海軍の軍事普及業務を行っており、映画班・講演官派遣要請の方法や、廃兵器下付の申請方法は『海軍人事部報』に掲載され、広く周知された。
    • 海軍班長(部長)対象の講習会も鎮守府ごとに実施。佐世保での開始は不明だが、横須賀では1929年から、呉では1932年からほぼ毎年各鎮守府において2日もしくは3日かけて講習会が実施されている。実施内容は年ごとに異なっているが、主たる内容である鎮守府司令長官の訓示、海軍人事部員による講演、最新兵器(飛行機・潜水艦・軍艦など)の見学を含めた軍港・工廠の見学は毎回実施されている。
  • 陸軍との問題と海軍の不満
    • 海軍班の設置によって、陸軍側には海軍軍人のみで海軍の事業を行うという誤解が、海軍側には陸軍の事業を行わずに海軍の事業のみを行えば良いという誤解が発生。陸軍との関係の中で問題をかかえることになる。

第2節 海軍分会の設置と挫折

  • 海軍分会の成立
    • 上記の海軍の不満を解消するため、1936年10月在郷軍人会規約改正によって成立。海軍分会は連合分会の下で、通常の陸軍軍人と共同で運営していた分会から分離し、海軍軍人のみの分会を作ることができるとした制度。だが、この海軍分会は、通常の分会としての業務も行うものとされ、海軍のみの事業を行う団体ではなかった。
  • 海軍分会は実質的に陸軍の下におかれる組織
    • 陸軍の下におかれる組織とした背景には在郷軍人数が少数である地域への配慮がある。海軍分会設置により、海軍に関する事業は海軍軍人のみでやるものと考えられてしまうと、海軍軍人が少数で海軍分会を設置し得ない地域においては、海軍に関する事業の実行が困難となることが想定され、こうした状況に配慮して陸軍の下におく組織としたと考えられる。
    • だが陸軍の下におかれている状況に、海軍軍人は不満を抱くこととなった。
  • 海軍分会の廃止と海軍部への一本化
    • 1942年2月、アジア・太平洋戦争の開戦を受けての制度改正により海軍分会は廃止され海軍部(従来のものと同種の組織)を設置。従来の「研究機関」から「積極的教育機関」へと転換。その理由は「現下高度国防国家体制強化」のために必要であるから。「殊に今次の戦争に於ては、海軍の活動が愈々重要」であり在郷軍人の活躍の必要があると言及された。
  • しかし不満は変わらず
    • 聯隊区司令官の指令のもとにおかれている状況は、在郷軍人会成立後一貫していた。海軍在郷軍人在郷軍人会に対する不満は変わらないまま、敗戦を迎える。

おわりに

  • 海軍は在郷軍人を独立した組織として活用できなかった
    • 海軍はその在郷軍人を常に在郷軍人会の組織の中におき、人事局や海軍人事部が直接これを監督することはなかった。これは陸軍との関係や在郷軍人数が少数の地域を考慮した結果。このため、海軍は常に陸軍との協調を意識して各種事業を行わざるを得ず、独立した組織として充分に活用することは出来なかった。
    • 海軍は海軍在郷軍人の組織化について独自の統制機関を持たないと結論付けたが、海軍は在郷軍人を軽視したからではなく、地域における海軍の立場に配慮した結果(上述)。人事局は鎮守府や簡閲点呼執行官から地域の情報を集め、地域の動きに対応していた。
  • 海軍の在郷軍人の利用
    • 海軍は在郷軍人を海軍班(部)・分会を通じて、志願兵募集活動や宣伝活動に利用した。
  • 海軍協会の発展
    • 海軍在郷軍人を独自で活用しなかったことが、行政主体の海軍協会が全国組織として発展した背景。