佐賀の乱により明治9年に佐賀県は廃止された。その7年後の明治16年5月9日になると、ついに佐賀県は長崎県からの分離独立に成功する。その独立の背景には明治15年の佐賀県復県運動があった。
『佐賀市史』には、長崎県立図書館所蔵の『西海新聞』が引用されており、明治15年2月に原口良輔、松永方一らが独立運動を開始した様子が記されている。そこには復県運動の趣旨書として「佐賀県を復するの議」が掲載されているが、独立運動をどのように正当化しているのか興味深い資料なので、まとめておくこととする。
「佐賀県を復するの議」
独立の論拠① 農工商の衰退
回顧すれば明治9年、我佐賀県を廃し三潴県に合し已にして又再び遠く長崎県に併せられ士民の不便は言を竢たず、随て農工商の事業、日に月に衰弊し、終に今日の景況に及べり、其慨嘆の至に堪へず、而今や之を挽回復興せんと欲せば即佐賀県を復するに如くはなし
勿論当時にありても復権の論、頗る沸騰せしも生憎七年暴挙の後、猶未だ久しからず、故を以て或は又再び朝命に抗する嫌疑に触れんことを恐れ畏擢緘黙して公然嘆願の手続に及ばざりし所以なり
独立の論拠② 地形的特質・風土による人情風俗の差異性
夫れ府県区画の配置は土地の形勢に由り人民の便否を謀らざる可らざるは普遍の確論にして就中人民の便否即ち人情風俗の異同を察せずんばありべからざるなり。
抑肥前の国の地形たる西海に藍褸の如く岐出し山嶺紛錯若干の区域を分画し併て孤島半島を点綴し、収拾統一の姿に乏し
且つ我旧藩の如きは勿論、其他平戸、大村、五島、皆是鎌倉足利以来の旧封にて各天然山河の区画に鎖国自主の政化を以て民を浸潰せしこと甚久しく一国内の種々の風習を頑結する者数百年、今に至りて猶氷炭相容れざる姿あるも亦是自然の勢なり
区々の小藩猶然り況んや堂々たる大藩に於てをや
而今や強て之を合併し同一の政令を以て御せんとすれば人情風俗の異なるに随て其人民を待、或は是に薄ふして彼に厚く、彼に深くして此に浅きが如きの情態なきを得ず
是れ人情風俗の異なるに因りて区域を画させる所以にして而佐賀県を復するの至当なりとする理論の要領なり
独立の論拠③ 近世の都市的発展からの継続性
且つ県庁の所在を論ずれば、必ず此佐賀を以て適当の地となりとす、是一地方の私情に属する者の如くと雖ども抑人家稠密百貨覆湊の地は必ず一大庁を置かざるべからざるの理由なり。
見よ旧藩主の家禄二、三十万石以上の封地は今猶其跡に県庁なきの処なし、偶これを他に合併するも数年ならずして再びこれを復せざるを得ず、徳島県、福井県、鳥取県の如き是なり、
独立の論拠④ 鳥取県の暴動事例
聞く鳥取県の如き県を廃して以来、数年にして土民貧困窮苦の極、終に共斃社といふ名さへも忌むべく嫌ふべき一大会社を結合し、至る処公然富民の金穀を掠奪するに至れり、其所為や固より悪むべしと雖ども其情や已むを得ざるに出る。亦以て少し憫諒すべきなり
我佐賀地方人民の如きは万々此の如きの暴行は余輩断然其これ無きを保せんことを欲するも衣食足りて礼儀を知るの確言に因て考ふれば貧困窮苦の余に或は不良を謀る者なきを必しがたし、是、復県の一日も急にせずんばあるべからざるの実情なり
小括
前陳の理由を以て論ずれば今日余輩の諸君とともに復県を政府に請願せんと欲するの至当なるは勿論、政府に於ても決してこれを允許せざるの理なきを信ずるなり、其他地方経済上等に就てこれを細論せんと欲するも徒に冗長に属するを以て今これを贅せず、諸君それ、これを諒せよ。
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