【巡検】美幌博物館&北見圏北見文化センター・北見工業大学・ハッカ記念館

道東と言うと釧路管内根室管内オホーツク管内を連想する人が多いだろう。
だが「道東3管内博物館施設等連絡協議会」を構成するのはオホーツクではなく十勝なのだ。
そのためオホーツク管内の方が地理的には近いのだが、実情は疎くなりがちであった。
そんなわけで今回はオホーツク管内の博物館として美幌町北見市文化施設を見学して来た。
これは備忘録程度の雑感的なメモである。

【目次】

美幌博物館

美幌峠観光
これは中の人が撮影した美幌峠からの屈斜路湖の中島の眺望
  • 展示構成
    • 常設展示は3つの展示室から構成されており、第1展示室「川とともに」、第2展示室「農業と身近な自然」、第3展示室「アートにふれる」となっている。さらに今回は企画展として「フィルムで振り返る美幌の歴史」をやっていた。近現代史専門としては興味深いものである。

  • 第1展示室
    • 歴史系の人の主目的となる常設展示は第1展示室。地形・考古・先住民・自然・松浦武四郎・開拓で構成されている。開拓については入植当時の開拓小屋の再現と馬耕が目を引く。特に開拓小屋は知識としては知っていても、屋根や壁の葺き方まで構造的な理解には中々及ばないので理解を促進できる。他には林業との関係性でバチバチ橇(2組に分離している橇でどんな木の長さにも対応して馬に牽かせることができる)を何も積んでいない状態で詳しく見られたのが良かった。他の館の再現展示だと木が積んであって見にくいのよね。後は流送のモデル展示があった。

  • 入植や移民について
    • ただ惜しむらくは入植状況などを解説する展示がないこと。こちらは各自治体が行政単位として独立することになった移民や入植の経緯に関心があるのだ。だが美幌博物館は安政5年(1858)の松浦武四郎来訪からイキナリ飛んで明治20年(1867)の美幌外5ヶ村戸長役場、元町で開庁すると時間軸がフッ飛ぶのである。こちらはなんで戸長役場が設置できるほど人口が定着したのか知りたいんだよな。さらに明治33年(1898)の鳥取団体の移住や美幌駅逓の設置なども展示や解説が無く残念(もしくは私が見つけられなかっただけか?)。

  • 企画展
    • 企画展示では戦前に撮影された動画が蘇り、それだけでも興味深いものがある。特に個人的に気になったのが、美幌峠観光。第1展示室の地形の成り立ちもそうだったが、美幌町オホーツク管内なのに釧路管内にある屈斜路湖についてフォーカスされる展示が多い。確かに屈斜路湖の中島を見下ろすロケーションで有名な美幌峠は確かに美幌町だが、美幌町がこんなにも屈斜路湖にシンパシーを抱いているとは知らなかった。
    • と、いうのも昭和9年(1934)に阿寒国立公園の指定があり、阿寒湖だけでなく屈斜路湖(ついでに摩周湖)も内包されたのだが、屈斜路湖や和琴半島の観光として美幌駅を利用することが多かったのだとか。美幌駅から乗り合いバスに乗り美幌峠を越えて屈斜路湖に行くというルートが構築されていたのだとか。また冬季においてスキーが娯楽として取り入れられ、美幌峠を抜けて川湯に行っていたという。
    • 釧路管内では殆ど美幌町に触れられることが無いので何だか意識差が凄かった。あるとしたら皇族が美幌峠から屈斜路湖を睥睨してから入町したとか、昭和61年(1986)に美幌峠で75年振りにチロンヌㇷ゚カムイイオマンテが行われたとかくらいか?

  • 水田への執着
    • 第2展示室の歴史に関する部分について。根釧台地では稲作ができず、だからこそ畜産が重視され酪農やパイロットファームの開発が求められたのだが、美幌町って釧路管内より緯度高いのに稲作できんじゃんかよ。で、稲作を行えるようにする仕組みが、段差式の溜め池を作り太陽熱で温めてから田んぼに水を入れるというもの。私としてはなぜ美幌町で稲作をやろうと思ったのかとか、やった人は誰かとか、その生産量はどうだったのかとか、そこまで稲作に固執する日本人とかを扱って欲しかったのだが、自然系の展示であるためメインとなるのは、その溜め池で生息する魚であった。
美幌町で稲作をやるための仕組み~温水ため池~

北見圏北見文化センター

ミニ企画展の擦文土器
  • 展示構成
    • センターの中に科学館・博物館・美術館・プラネタリウムが設置されている。私の目的は博物館だけなのだが、科学館・美術館とのセット料金しかない。一応両者も見たのだが、美術館は世界史や日本史で習った美術史絵画ならともかく地元の郷土画家のことなど何一つ分からない。科学館はなんか昭和って感じがした。
    • 閑話休題。博物館の展示だ。企画展は『擦文文化期の住居と出土遺物~北見市南町遺跡出土の土器~』。普通は土器作成の時には底に葉を敷くらしいのだが、砂?の上で作ったものらしく底に砂が混じった土器が推されていた。
    • 先住民族関係では、敗戦後樺太アイヌが引き揚げの際に定住したのが北見であり、埋蔵文化センターで展示が見られるということを知った。あとでここも行かなきゃ。

  • 北海道開拓・屯田兵及び各種強制労働
    • 近現代の展示としての一番の見所はやはり屯田兵の展示であろう。当時の屯田兵住宅が再現されており、展示解説も詳しかった。また北海道開発における強制労働もピックアップされており、先住民や囚人だけでなくそれ以後のタコ部屋労働の書簡を展示するなど印象的であった。現代の奴隷制度。

  • 北光社
    • もうひとつ開拓の歴史として北見には北光社なる団体が入ったのだが、これにはほとんど解説が無く、北光社とは何か全く分からなかった。かろうじて高知の移民団体であることが、当時の団員募集広告から分かるくらいであった。横の方に年表貼ってあるけど、解説パネルとかが無いととてもではないが分からない。あと団員の指導者と思われる顔写真が展示されているのだが、どの人物がどのような役割を果たしたのかとかも謎であった。

  • 近現代史はもう少し解説があるといいな
    • 全体的に近現代は解説が少ない様に感じてしまった。北見と言えばハッカは欠かせないものであろうし、近代化遺産の蒸留装置が置いてあるのだが、これもまた同様であり、ハッカ記念館に行って初めて北見におけるハッカの重要性が分かった程であった。そしてまたふるさと銀河線(池北線)についてもあまり解説がない。路線図もない。その鉄道が北見においてどのような役割を果たしどのような意義があるのか、知りたくてたまらなかった。
    • 博物館という施設だけで全てを語ることなど到底できず、博物館は知る入口とかきっかけ作りなのかもしれないが、そういうスタンスなら市史とか館報を手に取れるスペースがあるといいよなと思った。
屯田兵住宅

北見工業大学

北見工業大学
  • お兄ちゃんが妹へ挑戦する姿を見せる為にソーラーカーレースに出るんだよ!
    • その昔『北へ。』という旅ゲー系ノベルゲーがあった。その2作目では北海道各地の国立大学に進学した友人の下へ遊びに行き、そこでヒロインと出会うという形式であった。北見工業大学ではその友人の妹が攻略ヒロインとなる。当時は泣きゲー全盛期であり、少女は気胸を患っているという設定で、手術に前向きでもなく、また治った後も学校生活でうまくいかないのだ。兄である友人は手術代や入院費の足しにしようとバイトして家にカネを入れているし、妹が治った後には学校に馴染めない妹に対して自分が挑戦する姿を見せようとする。この時に北見工業大学という設定が生きており、なんと兄はソーラーカーレースにチャレンジするのである。そんなわけで折角北見に来たのだから、北見工業大学聖地巡礼くらいはするかと、立ち寄ったのである。


 

ハッカ記念館

ハッカ記念館
  • 北見とハッカ
    • 今回訪問した文化施設の中で一番気合い入ってたかと思われる。戦前の北見はハッカにより栄えた町と言っても過言ではない。ハッカというとサクマ式ドロップスの外れ枠のようなイメージが強いが、原料は草であり、これを加工して輸出していたのだという。根釧台地はジャガイモや燕麦しか取れなかったのだが、北見は土地が肥沃であったらしい。そして土壌や気候がハッカに合っていた。なぜハッカかと言うと、当時のハッカはとても価格の高い商品作物だったのである。北見ではこの商品作物の生産に力を入れ、全盛期には世界市場の7割も独占していたのだという。

  • 戦時下・戦後のハッカ
    • だが戦時期の食糧増産によりハッカの植え付けは禁じられた一方で、ブラジルでハッカが取れるようになり合成素材のものも出現した。戦後、北見はハッカ生産の復活を目指したのであるが、国際価格の低下と激しい競争により1983年を持って全面的なハッカ生産を終了した。だが北見がハッカにより栄えた町であることは間違いないものであり、それを伝承するため記念館があるとのこと。ちなみに昭和29年の昭和天皇の訪問先となるなど、ハッカ生産は北見にとって重要なものだったのだ。

  • ハッカからタマネギへ
    • じゃあハッカが取れなくなった北見はどうしたんですか?解説員のおじいさんに訊ねると、北見は地味が豊富であり畑作なら何でもイケる。ハッカは当時は高価であったので商品作物として価値があったので作っていた。土地が肥沃で畑作に向いているから別の作物を作るだけ。タマネギとか生産量1位らしい。
北見ハッカ史
ハッカによる北見開拓と昭和天皇行幸