【巡検】紋別市立博物館(漁業経営商人からの和人の入植・定住・開拓)

地域調査で紋別市立博物館に行った。

紋別市オホーツク海沿岸の漁業が盛んな地域である。観光資源としては冬季に流氷をドリルで砕きながら進むガリンコ号などで有名である。博物館は漁業が中心であり、順路としては左回りで漁業の仕組みの映像から始まり、漁業に使う道具の展示を見て、漁業の拠点となった番屋に辿り着く。さらに壁面展示を周ると農具や民具が配置されており、中央部には旧石器~近世江戸期までの時代ごとの解説パネル(近代以降は年表)や学習用PCがある。その他、紋別市にかつてあった産業として名寄線の鉄道展示、砂金と金鉱山の開発の歴史と終焉が独立展示としてあった。

【目次】

展示など

外観および内観
漁業展示が推されている
かつて紋別が栄えた頃の名残を伝える~名寄線と金鉱山関係~

紋別市における和人の進出~展示と博物館職員さんの話より~

紋別における和人の進出は寛政2年(1790)に始まる。ソウヤとシャリの中間として番屋が作られた。このモンベツ番屋を中心として文化12年(1815)から藤野喜兵衛の場所請負が始まる(諸説あり)。紋別の行政上の支配者は変遷するが、この藤野家は紋別の地域有力者として近代に至るまで力を振うことになる。

江戸期における紋別の支配者は最初は津軽藩、次いで会津藩が支配する。津軽藩支配は文化4年(1807)~文政4年(1821)。ソウヤ場所を中心にシャリまでのオホーツク沿岸に駐屯。中継地として紋別公儀会所を設置する。会津藩支配は安政2年(1855)~慶応3年(1867)。紋別に駐屯し、この時の建物を「会津藩出張陣屋」と呼ばれ、弁天町の漁番屋の近くにあったという。だが戊辰戦争により会津藩の駐屯兵は撤兵した。

このような状況の中から、明治新政府の支配が始まる。だが行政上の支配者が開拓で指導権を発揮することは無く、藤野喜兵衛(世襲名)により和人の入植・定住・開拓が進んだ。

なお博物館職員の方によれば藤野喜兵衛はアイヌ使役による漁場労働であったため和人は増えず、和人の定住と開拓に貢献したのは藤野よりも高野庄六であるという話であった。

市史より

藤野氏と紋別漁業

「文化5年(1808)、初代藤野嘉兵衛が紋別・斜里を含む宗谷場所を請負って以来、請負人制度が廃止される明治2年(1868)まで、さらにその後の漁場持期間を含むと70年余年にわたる藤野家の漁場経営の歴史は、そのままオホーツク海沿岸の漁業の歩みであり〔……〕近代的な漁法に引き上げた藤野の経営努力は、紋別漁業の開拓第一人者であることは間違いないところである。」(紋別市史編纂委員会編『新紋別市史』上、紋別市、1979)

藤野家の漁場経営と和人の定住

「〔……〕紋別においても後幕時代会津藩の支配地となり、同藩によって漁場経営がなされたのであるが、遠隔地のため費用も増大し、一面仕込みも充分でなかったので、漁業経営の採算がただず、土人撫育も行き届かなかった。かさねて開拓使の設置とともに和歌山に割譲されたが、これまた開拓の見込みがただずとして約一年間まったく未着手のまま放置され、開発の端緒を逸したのであった。和歌山藩から開拓使の所管となり、函館産物局の官捌きから藤野の漁場経営にかわって、ようやく和人も定住するようになり、漁場として発展する段階期に入ったのである。」(紋別市史編纂委員会編『紋別市史』紋別市、190頁)

藤野家の請負

「〔……〕1808年(文化5年)には、宗谷、斜里、樺太の三場所も幕府が経営することとなったが、北方警備に追われてその余裕はなく、宗谷、斜里の二場所は、松前の藤野嘉兵衛、西川準兵衛、坪田佐兵衛の3人が共同請負とすることになった。さらに1812年(文化9年)からは藤野の単独請負となり、藤野家隆盛の端緒となった。藤野は請負開始とともにアイヌを使役して紋別に漁場を開き、紋別番屋の持ち場を幌内から常呂までとして場所に準ずる形を整えた。〔……〕1823年(文政6年)には〔……〕松前藩から初代喜兵衛に苗字帯刀が許され、1828年(文政11年)の死去後も、養子や支配人の中から才能のある者を登用して代々嘉兵衛を襲名させて繁栄を築いた。1855年(安政2年)に和人地をのぞく蝦夷地が再び幕府の直轄となり、1862年(文久2年)には宗谷場所請負を免じられたが、明治維新後に開拓使から再度漁場経営を任されたことから、オホーツク沿岸での藤野の時代は明治中期まで続いた」(紋別百科事典編纂委員会『紋別百科事典』紋別百科事典編纂委員会、2005)

場所請負の廃止と漁場持

「1869年(明治2年)、宗谷場所開設以来、紋別に漁場屋を設けて商人が漁場支配を一手に引き受けていた場所請負制が、開拓使布達により廃止され漁場持制に代わった。これは農地の土地解放と同じように、金と権力にものをいわせて漁民搾取を行っていた歴代の場所請負人から漁民に漁場を解放しようとするものであった。布達にしたがい、1877年(明治10年)、オホーツク海の漁場持であった全漁場を返還し、再出願にあたりオホーツク海沿岸は漁が薄いとして、この地域を出願地域からはずした。しかしこのことに困惑したのは、藤野家の雇い人たちであった。雇い人が個人として漁場を所有しても、実際には資金もなく、漁船や各種漁具・資材の調達はとうてい無理であり、引き続き藤野家経営を希望した。開拓使の独立奨励策も即効がなく、また開拓使は政策を曲げることもできなおため、当分の間、それまでの場所請負人を「漁場持」と呼び、形式上の開拓使の役人として扱い、小漁民に力がつくまで暗黙の継続を赦したが、自然消滅の形で漁場持制も廃止された」(紋別百科事典編纂委員会『紋別百科事典』紋別百科事典編纂委員会、2005)