【巡検】帯広百年記念館と晩成社・十勝監獄

中の人の専門は歴史学(近現代史)と教育学(教科教育)である。歴史学では近現代北東アジアにおける人的移動を研究している。教育学では社会科教育・歴史教育における博学連携を研究している。

日本は明治以降各地に人々が渡っていったが、北海道は積極的に殖民が行われた地域である。だがその殖民/移民形態は千差万別であり、近世に発展した漁場からの継続、屯田兵、無願移民、御料植民、不在地主による小作人募集、結社による事業など様々であった。

一方現在北海道には179の自治体があるが、各自治体は自己の自治体がどのように形成され、どのような歴史を歩んできたかを語る必要がある。そのため各末端自治体は郷土資料施設を設置し、各自治体の成り立ちを分かりやすく示さねばならない。では各末端自治体の郷土資料施設は具体的にどのような展示をして、どのように自らの歴史を提示しているのか。

そのサンプルを調査しているので、今回は帯広市百年記念館へ赴いた。

(・・・いやこれ各自治体の歴史を理解していないと、市町村史の中から何が表象として示されているかのか読み解くことができないから、博物館行った後、図書館も行く必要あるよな)。

【雑感】帯広百年記念館

帯広百年記念館

帯広百年記念館は、5つの展示から構成されており、開拓→自然→考古・前近代→くらし(民具)→農業史という導線である。開拓・入植は一番初めの展示であり、特に晩成社が大々的に展示されている。

晩成社

晩成社展示

晩成社は静岡県那賀郡大沢村の豪農・依田家により結成された会社。土地開墾、耕作、牧畜、造林、農業などを目的とし、明治16年(1883)十勝内陸部に初めて集団移民を行った(13戸27名)。三幹部に依田勉三・渡辺勝・鈴木銃太郎がいるが、経営方針を巡って分裂。明治20年鈴木銃太郎は芽室町西土狩へ、明治26年渡辺勝は音更町然別へと入った。晩成社は牛肉販売やバターの出荷など様々な革新的事業を試みるが、交通網の未整備により輸送費がかさみ失敗。事業は赤字を増大させ、最終的には施設や農地を手放すこととなった。
 

十勝監獄

十勝監獄展示

続いて帯広の開拓の重要な要素として挙げられていたのが、十勝監獄であった。と、いうか帯広市史的には晩成社よりも十勝監獄の方が直接的な発展に関係しているのではないか。十勝監獄は明治28年(1895)北海道集治監十勝分館として開庁。初年度72ha、明治末年には450haを開墾し大農場を形成。製造物資製造・土木建築工事に携わり帯広・十勝の開発に貢献した後、用地の大部分を民間に払い下げている。集治監・監獄が地域の発展に影響を及ぼしたケースとしては、川上郡標茶にあった釧路集治監と同様のケース化。

その後帯広市はどうなったのか?

農業史展示

晩成社、十勝監獄の展示の後はゾーニングが変わり自然展示になるので、ここで流れが断絶されてしまう。最後の展示コーナーである農業史に行くまで、帯広市がどのような歴史を辿るのかが分からない。また農業史コーナーは本当に農具と畜力の展示になるので、晩成社・十勝監獄後の帯広の歴史は謎のままであった。晩成社が失敗に終わった後、囚人以外の入植者・移民たちがどのように帯広や十勝の歴史を形作っていったのだろうか。受付のご婦人に聞いたが分かるわけもなかった。

これを読むかぎり、博物館で近現代史は開拓の黎明の部分しか扱ってないことが特徴として分かる。