アマルティア・セン「経済行動と道徳感情」『経済学の再生』所収 麗澤大学出版会 2002年 15-56頁

  • この文章の趣旨
    • 現代経済学は倫理学と全く関係ないものとして考えられているが、実際には両者は切り離せない。
  • 現代経済学の性質
    • 人間行動の動機を純粋かつ単純、冷徹なものととらえ、善意や道徳感情といったものに乱されない経済モデルを掲げる
    • ライオネル・ロビンズ『経済学の本質と意義』:「単に並べて置く以外に、いかなる形であっても、二つの学問(経済学と倫理学)を結びつけることは、論理的に可能ではないように思われる」
  • 現代経済学への批判
    • (1)経済学が研究の対象とする人間は、現代経済学が前提とする純粋かつ単純冷徹な人間行動の動機のみに終始できない。
    • (2)現代経済学は意識的に「非倫理的」な学問のたろうとしてきたが、倫理学の支流として歴史的進化を辿ってきた。

1.二つの起源

経済学は「倫理学」と「工学」に二つの起源を持っている。

倫理学」的な起源
  • 経済学は究極的に倫理学政治学の研究と関連する ex.アリストテレス『ニコマコス倫理学』『政治学
  • (1)「動機付けの倫理学的な考え方」
    • 人々が常に道徳的に行動すると考えることではないが、実際の人間行動において倫理的思慮が全く無関係ではありえない
  • (2)社会的成果についての倫理的な考え方
    • 「効率性」を満たすある任意の点で評価は終わらず、十分な倫理性とより広い「善」の観点から評価しなければならない
「工学」的な起源
  • 実証的な問題を主眼にし、直接的な目的を達成するための手段を見出す。
    • ex1:工学的アプローチ, ex2:治国策に関する手法分析
  • 人間行動の分析において、深い意味での倫理的思考に大きな役割は認められていない。
倫理学、工学、双方のアプローチ
  • センの立場;倫理との関連で動機と社会的成果をとらえる見方は現代経済学の重要な一面を占めなければならないと考えているが、同時に工学的なアプローチが経済学に資する多くのものを持っていることも否定できない
  • 倫理学側面を重視
  • 工学側面を重視
近代経済学実証主義経済学」の特徴
  • 深い規範的分析が避けられている
  • 現実の人間行動を性格づける倫理的考察の影響が看過されている

2.成果と弱点

倫理学との乖離により経済学が失ったものとそれが突きつけている課題の分析の前提:誤解を避ける為の2つのこと
  • 1.経済学における「工学的」アプローチは不毛なものではない。
    • 倫理学的考察を避けるという偏狭な人間行動の動機のとらえ方であっても、経済学における数多くの重要な社会的関係の本質を理解する上で役に立つ(ex.「一般均衡理論」における相互依存関係のパターン)
  • 2.経済学と倫理学の乖離による損失の二面性:経済学だけでなく、倫理学にとっても乖離は損失であった。
    • 経済学は、倫理学的問いの本質を理解する上で直接的な役割を果たすことが出来るだけでなく、方法論上のポイントもある。経済変数が含まれて居ない場合でも、相互依存の問題に関する経済学の考え方は、複雑な倫理学的問題に対処する上で大きな大きな重要性を持つ。

3.経済的行動と合理性

経済的行動と動機の問題
  • 現代経済学における「合理的行動」という仮定
    • 人間は合理的に行動するものと見なされ、こういう仮定のもとで特徴づけられた合理的な行動が、現実の行動とは究極的には異ならない。
  • 「合理的行動」の問題点
    • 標準的な経済学における合理的行動の定義づけが正しいものとして受け入れられるものとしても、現実にそのように行動すると見なすことは、必ずしも妥当ではない。
「合理的行動」について明らかにしておくべき二つの点
  • 1.合理的行動という見方をとっても、他にとりうる行動パターンが存在し、最終的な目標と制約条件が完全に明示されている場合でも、「必要とされる」実際の行動を特定するために合理的行動の仮定だけでは不十分。
  • 2."現実の行動と合理的行動を同一視することの問題"と"合理的行動の内容の問題"とは区別されなければならない

4.整合性としての合理性

  • 主流の経済学理論における行動の合理性の定義には2つの大きなアプローチがある。
    • 1.合理性を内部的整合性とみなす
    • 2.合理性を自己利益の最大化と同一視する
合理性を内部的整合性とみなす
  • 整合性=現実の選択の集合を二項関係に基づく最大化の結果として説明できる
  • これに対する批判
    • 選択の内部的整合性そのものが合理性の適切な条件になるとは信じがたい
    • 合理的選択は少なくともその人が達成しようとすることとその手段との間に何らかの一致を伴うものでなければならない
    • 内部的整合性だけで個人の合理性を保証するに「十分」と考えることは明らかに不可思議である
    • 選択の根底にある二項関係=個人の「効用関数」はその個人が実際に最大化しようとする独立に定義された意味における個人の効用であるとは限らない。

5.自己利益と合理的行動

合理性を自己利益の最大化と同一視する
  • 個人が行う選択とその個人の自己利益との間にある外部的一致性を要求することに基づく
  • 合理性を自己利益の最大化と同一視することについての問題点
    • 他の全てを排除して自分自身の自己利益を追求することがいったいなぜ「一意的に」合理的となるのであろうか。
    • 自己利益最大化以外はすべて非合理的であるとするのはまったく異常である
    • 自己利益の最大化から離れることを全て非合理性の証拠と見なすことは、現実の意思決定における倫理の役割を排除することを意味する
「実際」の行動の決定要因として自己利益最大化を仮定することは、どれほど妥当なのか。
  • 自己利益に基づく行動の問題において二つの異なる問題を区別することが重要
    • 1.人々は実際に自己利益だけに基づいて行動するのか否か
      • 「日本人のエートス」:日本の場合、自己利益に基づく行動から義務や忠誠心や善意を重んじる方向への体制的移行が工業化の大きな役割を果たしたことを明らかに示す実証的証拠がある。
    • 2.人々が自己利益だけに基づいて行動するだとしても、彼らは特定の成功、たとえば何らかの種類の効率を達成するであろうか
      • クラスやコミュニティー、職業グループなどの集団:集団に対する忠誠心に基づく行動によって、純粋に個人的な利益を犠牲にすることがあっても、別の面で個人的利益のよりよい達成を追求することもある。

6.アダム・スミスと自己利益

自己利益
  • 自己利益とその達成に関して、いわゆる「スミス派」の立場を取る多くの経済学者の著作において、スミスが「慎慮」(自制を含む)に加えて「共感」を重視している点がなぜ見落とされる傾向にあるのか。
  • 経済の内外には単純な自己利益の追求だけでは説明しきれない多くの活動があり、スミスはその著作において自己利益の追求を他よりも上に位置するものとはしなかった。
飢饉と飢餓
  • スミスの経済分析が広く誤解されて重大な影響をもたらされている分野
    • スミスは取引を抑え込んだり制限することには反対だったが、貧困層への公的支援に反対していたことを意味するのではない。ただその制限的な規定が貧困層に及ぼす過酷さと逆効果を批判しただけに過ぎない。
    • スミスは確かに取引を抑制することには反対しただろうが、失業と低賃金を飢饉の原因とする見方に対しては種々の公共政策による対応の必要性を示唆している。
スミスへの誤解
  • 動機と市場に関するスミスの複雑な見解が誤って解釈され、また感情と行動に関する倫理的分析が看過されたことは、経済学の発展とともに生じた倫理学と経済学の乖離と呼応している。
  • 現代経済学においてスミス流の幅広い人間観を狭めてしまったことこそ、現在の経済倫理の大きな欠陥の一つに他ならない。