この文章の趣旨
- 教室という場所で生成し機能している政治力学の解明
1.はじめに
- 教室の物語:教室は謎めいた場所だが、語りたがる
- 教室経験の文化的意味
- 教室の日常経験の無意味さがもたらす退屈と惰性を主題とする物語
- 教室の権力関係の政治的意味
- 教室に付き物の強圧的な権力と権威がもたらす抑圧と逸脱の物語
- 教室経験の文化的意味
- 現代の教育の危機:「学校と教師の権威と権力の失墜から生じている」ことを認識しえないことに一因
- 近代の学校の規範性と正統性を象徴する権力と権威を現代の学校は衰退させており、教室では、去勢された権力と権威のかたちだけが突出して現象し、虚ろな権力と権威が虚ろな価値と意味に固執するという厄介な事態が進行している
- 教え手の側で権威と権力の虚ろさと認識される事柄が、学び手から見ると、権威と権力の強圧的暴力として現象するという逆説において機能している。
- 権力と権威の実態のすべて=教室で生活する人々の関係において生成し作用する
- 教室という場所はその特有の装置を介して、社会の権力と権威が忍び込み特有の様式で作用する場所。
- 教室という場所で生成し機能している政治力学の解明こそが、研究の課題として設定されなければならない。
2.教室の政治力学へ
- 教室:権力と権威を告発しながら、その告発と批判の過程において特有の権力と権威を生成し続ける矛盾に満ちた場所。
- 教育学・カリキュラム理論の特徴:脱政治的性格
- 「授業」と「学習」を心理学と技術学の範疇としてとらえる→政治的事柄は教室の外から教育課程を規制し統制する問題
- 「脱政治的」性格の二つの前提:(a)「中立的教授学」(b)「子ども=非政治的存在」;教育実践の政治的性格を隠蔽するイデオロギー
- a「中立的教授学」:二つの政治的欲望のもとで発展
- a-1)「科学的中立性」:授業と学習を「科学的」に統制する欲望
- 教育目的を倫理学、教育方法を心理学で基礎づけるヘルバルト『一般教育学』(1805)を起源⇔革命と解放の技術の教育学:17Cコメニウス・ラトケ、18Cペスタロッチ
- a-2)「技術的中立性」:授業と学習を「技術的」に統制する欲望
- 産業主義の学校への浸透
- カリキュラムの科学的研究の創始者ボビット『カリキュラム』(1918)←テイラーシステム『科学的経営の原理』(1911)
- 「教育目標」を到達度で確定し「教育課程」を効率的に統制し「教育結果」を数量的に評価する
- 産業主義の学校への浸透
- 「中立的教授学」の「科学的中立性」・「技術的中立性」は共に教育学のアカデミズム化の産物
- ペスタロッチ:大学で教育学を講じた最初の教育学者
- ボビット:大学の科学的研究としてカリキュラム領域を樹立した最初の教育学者
- a-1)「科学的中立性」:授業と学習を「科学的」に統制する欲望
- (b)「子ども=非政治的存在」=幻想
- 学校の普及:子どもを市民社会や村落共同体の政治空間から学校という政治教化の空間へと囲い込む
- ロバート・コールズ『子どもたちの政治生活』(1986)
- 「依存と保護を属性とする子どもは、幼くして、何者かへの政治的忠誠を遂行しなければ生きられない存在であり、彼らの生活は数々の政治的葛藤と妥協を通して営まれる」姿を描き出す
- 「子どもは、母親から母乳とともに政治を注ぎ込まれ、特定の言語を獲得しながら特定の権力への政治的忠誠を体得して成長している」
- 「中立的教授学」、「子ども=非政治的存在」という前提は、教育実践の政治的性格を隠蔽するためのイデオロギー
- あらゆる教育実践は政治的実践
- 学校教育の過程には絶えず政治的価値の葛藤と政治的社会化の機能が埋め込まれている
- 教室に生起する権力や権威を意識化した論究や実践の先行研究の2パターン
- 1.教室の権力と権威の存在を認めながらも可能な限り隠蔽し排除して「中立的教授学」に固執する立場
- 2.「中立的教授学」に隠蔽された権力や権威を暴露し批判する立場
- どちらも閉じた循環であり、そこから脱却するには「第3の立場」が必要
- 第3の立場の前提
- 教室は常に一定の密度で権威と権力を避け難く抱え込んだ政治空間である
- 教室は政治空間であり、そこが現代社会の縮図である以上、常に一定の密度で権力と権威の関係を織り込み生成し機能させる場所である
- 第3の立場に必要なこと
- 教室に棲まう権力や権威の排除や暴露ではなく、その権力と権威の関係を教育の過程に即して編み直す方略を探索すること。
3.教室の言語の権力関係―会話構造の分析
- 教室の言語過程に焦点をあてて、教師と子どもの権力関係の様相を描出し検討する
- 教室における言語の運用機能に即する分別
- 「命題機能」「社会機能」「表現機能」の3つの機能が教室のディスコースの構造に即して作動すると、教室という場所に特有の権力と権威の関係を生成するものとなる。
- 教室のディスコースのきわだった特徴
- 「教師主導の発問と指示」(teacher initiative)、「生徒の応答」(student response)、「教師の評価」(teacher evaluation)という<IRE>の構造
- べラックの4つの「教授学的手法」
- 教室の会話の文脈を決定する「構造化」、発問や指示を行う「誘発」、「構造化」や「誘発」に応じて発言される「応答」、その「応答」への対応や評価として発言される「反応」
- 教室の会話では、教師が「誘発」し生徒が「応答」し教師が「反応」する単純な構造が最も頻繁に現れる。
- メーハン「構成的エスノグラフィー」
- 「教師主導の発問と支持(I)」「生徒の応答(R)」「教師の評価(E)」の循環的に連続する<IRE>の構造が教室の会話において最も頻繁に現れる
- 教師と生徒が相互に意味を構成する行為として授業が社会的に構成される過程を解明している。
- キャズデンの<IRE>の構造の社会言語学的性格の提示
- 一般の会話
- what time is it,Sarah? / Half past two. / Thanks.
- 教室の会話
- what time is it,Sarah? / Half past two. / Right.
- 教室では知っている人(教師)がよく知らない人(生徒)に訊ね、その応答に対し感謝するどころか成否を判定し評価する。しかも教師主導。
- 一般の会話
- <IRE>構造は生徒の問いを中心とする自主的な探究を促進する授業や大学のゼミのように生徒の発表や討論を中心にする場合には現れるのは稀
- 教室の会話が<IRE>の構造で構成されるのは、その教育的関係が、教師の権力と権威によって人為的に組織されているから
- 教室の会話の特殊性と教師の権力性は、<IRE>の最後の<E>においてもっともよく表現されている
- 最後の<E>つまり教師の評価がもっとも決定的な役割を果たしている
- 最後の<E>が介在することによって、対等な人間関係の対話の性格が剥奪されている。
- フレイレの「解放の教育学」における「対話」の構築という主張には、教室の会話におけるこの権力関係に対す洞察を見ることができる。
- 教師の権力が<IRE>の構造に表現されるからといって、教室に君臨する教師の権力は、教師という主体の内部に帰属する教育の力を表現しているわけではない。
- 教師は、教室に権力的存在として君臨しその権力を強化するとき、教育主体としての無力と虚ろさを体験し、逆に、教室の権力を放棄し自己を無力化することを通して、実践主体として教育の力が蘇る充実を体験している。
- 問題提起:教師とは誰であり、教師の権力とは、誰のどういう権力なのだろうか?
4.教師の言語の権力関係―人称関係の分析
- 日米比較によると、日本の教室の方が、教室言語と呼ばれる呼ばれる特異な言語の運用とその人称関係において特異性がきわだっている。
- 日本の教室言語の特異性
- 特徴的な会話構造、イントネーションの顕著な差異、
- 教室に特有の構文や教室でしか通用しない隠語
- 多数の儀礼的言語
- 日本の教室言語の特徴:言語運用に関する人称関係
- 教師が「僕/私」を「先生」に置き換えて表現する
- 一人称を代替する「先生」は誰をさしているか
- 「僕/私」を「先生」に代替させる教師は、どのような関係に自己を定位しているか
- この日本の教室の当為な現象には「近代」の教師の特異な権力構造が表現されているのではないか。
- 教師が「僕/私」を「先生」に置き換えて表現する
- 人称代替の異様性
- 自分の事柄をまるで他人事のように表現し、ひたすら「私」を隠しこみ「私」とは無縁の誰かと同一化しようとしている。
- 教師という存在に内在する権力関係を直接的に表現しているといえる。
- 人称代替の機能:教師の「先生」という言葉の3つの作用=「一人称の喪失」
- 1.「私は先生」(I am teacher.)というメッセージを発話のたびに暗に確認する作用
- 2.教師の「私(I)」という主格をひたすら隠し「先生なるもの」(the teacher)という抽象的な主格へと転化する作用
- 3.一人称と三人称を曖昧にし融合する作用
- 「一人称の喪失」による権力派生
- 命題機能における権力派生の特徴
- 自身の発言や評価の言語を権威化
- 子どもの学習の言語に対する関与と統制を正統化
- 私的個人的性格を剥奪され、没主体化され抽象化
- 非人称化され脱主体化
- 社会機能における権力派生の特徴
- 教室の個人的な人間関係を衰弱させ制度的な人間観駅に再構成するよう機能
- 秩序の合理的な維持に対して有効な人間関係を構築し維持する機能
- 教師は制度化された「教師」として統制する力を獲得する
- 生徒は「生徒」として統制する権力を剥奪され従属化させられる。
- 教師と子どもの個人的関係は「あなたと私」という対話的関係の性格を剥奪され、権力関係を内在化した「教師-生徒関係」へと変容
- 表現機能における権力派生の特徴
- 実存的倫理的経験の空洞化
- 「私」を主格とする教育の世界を喪失し、「私」という人間を生きる経験を剥奪される。
- 命題機能における権力派生の特徴
- 教師の権力関係の矛盾
- 「私」という一人称を喪失した教師は「先生」を生きることによって制度的な権力を自己の欲望として身体化させるが、まさにその権力と欲望によって自我を見失い、自己を疎外するという危機に直面している。
- 制度化された「先生」の世界を生き「先生」の権力を身体化することによって、教師としての主体性と力を喪失している
5.教室の知識の権力関係―「権威」(authority)から「著者性」(authorship)へ、そして「真正性」(authenticity)へ
教室における権力と権威に対する研究の現状
- 教室の知識の権威をめぐる問題;学校のカリキュラムが階級や人種や性の文化差を序列化する権力構造に対応
- 対応理論:学校教育の過程と内容が下部構造(生産力と生産関係)に対応して組織されている
- 再生産理論:学校が階級や人種や性の社会的・文化的な差異を再生産している
- この2つの理論を基礎とする学校のイデオロギー支配と階級的性格の対する批判への指摘
- 「対応理論」と「再生産理論」の限界
- 学校の階級性とイデオロギー性の告発と批判に始終し、カリキュラム実践領域に代案を提出していない
- 要因:学校と教室の権力構造(micro politics)と一般社会の権力構造(macro pokitics)の対応関係を単純に理解してきた傾向
- 学校の権力と権威を意識化した2つの先行研究:問題を見る眼差しがいずれも学区の外から注がれているところが共通
- 1.学校の権威と権力を一般社会の権威と権力の複写として見る。権威や権力が外から一方的に持ち込まれたとし一般社会の変革を目指す。
- 2.学校の権威や権力を学校に特有の産物と見なし、一般社会の「真正の」(authentic)文化を規範として、学校教育を批判し強制することを追及する。
- 求められるのは教室経験の理解と改造
- ジャクソン『教室の生活』:ヒドゥン・カリキュラムの概念を最初に提起
- 教室の日常経験それ自体を対象化し、日常性に編み込まれた権威と権力の隠された構造それ自体を解明した。
- ジャクソン『教室の生活』:ヒドゥン・カリキュラムの概念を最初に提起
権威(authority)の概念の検討
- ハンナ・アレント:「権威」という概念が「付加し増加すること」から派生した「著者」という言葉を語源として形成された
- 「権威」「著者性」「真正性」=「著者」という語源から派生
- 「真正性」の概念形成:「著者」の無名化と権威化に対抗して成立した概念
- 「真正性」の探究と自己の分裂と解体
- 「真正性」=「主体的行為者」「自殺者」
- ルソーの真正性を探り出す意識は自我を分裂させて解体させて同一性を求め無窮に彷徨い続けている。
- スタロバンスキー『ジャン・ジャック・ルソー:透明と障害』(1957);社会の壁を前に自己に沈潜するルソーの意識の分裂と解体を叙述
- フーコー『ルソーの「対話」への序文』(1962、邦訳『壁の中の言葉』);作者としての主体(著者性)の分裂と解体を解析
- ⇒「真正性」という概念は「著者性を」主体化し存在内部の真実性の探究へと内化する方向で成立したが、それゆえに「著者性」の解体と統合という自己同一性の危機を内包する
「著者性」と「真正性」の概念による教室の「権威」をめぐる権力関係の編み直し
- a)「著者性」
- 学校教育における「著者性」の喪失=典型例;教科書
- 「著者」は集団的に叙述の内容と文体を中立化し、脱個性化し脱個人化する過程で抹殺され消去されている。
- 教科書だけでなく教室の授業と評価においても「著者性」剥奪
- 誰が発見し創造し表現し伝承しようとどうでもいい事柄
- 「著者性」を剥奪された知識の特徴
- 知識=情報=客観テストで測定⇒序列化と階層化をもたらす⇒受験学力=市場に流通する商品化(企業社会と大衆社会の価値付与
- 個人化=人称化の契機を喪失
- アイデンティティ構成もコミュニティ構成も喪失
- 学校でどんなに知識を学んでも、その意味を付与し価値を担うのは「誰かさん」であり「あの人たち」
- 「著者性」の樹立:教室の権力関係を編み直す有効な方法
- 「著者性」を意識化する文章表現を学習過程に組み込む;生活綴り方教育、フレネ教育の自由作文、ホール・ランゲージ教育
- 一人ひとりを知識と創造の主体に育て、作者を明示した表現へと導く;英インフォーマル・スクールのトピック学習、米のオープンエデュケーションにおけるテーマ学習
- 学校教育における「著者性」の喪失=典型例;教科書
- b)「真正性」
- 教室の権威を再生産する危険性
- 一般社会の諸分野の文化や専門家の文化が、人為性や虚偽性を含まない「真正」の文化である保証はない
- 仮に真正であったとしても、その文化を学校に持ち込むことが即座に正当化されるわけでもない。
- 諸分野の専門家の文化に「真正性」を求めることは、専門家の文化を権威化し特権化する。
- 教室の権威を再生産する危険性
-
- 危険性は「真正性」の概念の混乱に起因
- 「著者性」が主体に内面化して成立した概念であり自己の存在の内面の真実を探究する概念
- 「ホンモノ」の識別を意味しテクスト批判を行う人々や骨董品の鑑定を行う人々の専門用語として定着
- 危険性は「真正性」の概念の混乱に起因
-
- 倫理的概念としての「真正性」=他者の価値、要求、意志から独立した「存在の感情」byルソー
- 認識や表現の自己への帰属を表現する概念
- 自らの内面を表現するという意味における自己実現を意味
- その内面の真実が何を意味し何に由来するのかを自己の存在のありようにおいて探究することを意味
- あらゆる権威や予見に左右されず、内なる真実に即して思考し行動することを意味
- 倫理的概念としての「真正性」=他者の価値、要求、意志から独立した「存在の感情」byルソー
-
- 教室における「真正性」の剥奪⇒「真正性」の探究が倫理的実践としての教育実践へ
- 教室は常に他者の価値観・要求・意志にあわせて思考し行動することを要求される場所として意識されている
- 教師という個人を「教師」という役割へ、子どもという個人を「生徒」という「誰かさん」へと変容させる
- 「真正性」が成立する前提となる個人的空間が教室ではそもそも剥奪されている
- 教室における「真正性」の剥奪⇒「真正性」の探究が倫理的実践としての教育実践へ
-
- 「真正性」を探究する教育実践=「自分探し」
- 「自分探し」の欲求は人間の実存的欲求であり、学ぶ営みを支える根源的欲求
- 教師と子どもが「自分探し」の欲求を基礎として自分の世界を生き、自分の「内なる声」を発見して、その「内なる声」に忠実に生き、その生き方の妥当性を自己の「内なる声」に求めることを学ぶとき、「真正」の学習が成立している
- 「真正性」を探究する教育実践=「自分探し」
-
- 「真正性」は「主体の闘争」
- 自己実現の過程は自己分裂の過程
- 自己同一性の統合の過程は自我解体の過程
- 「真正性」は「主体の闘争」
-
- 「真正性」を追及する教育実践=アイデンティティとコミュニティを相互媒介的に構成する実践
- 「真正性」の追及は自己との対話
- 「自己」=「一般化された他者」、「内なる声」=自己の世界に棲まう複数の「他者」
- 「真正性」の探究は、他者との関係を拒絶した自己の内側の世界に成立するが、その自己の世界への沈潜と再構築の営みを通して、自己の内側で他者と交渉しあう新たな連帯の絆を獲得する。
- 「真正性」を追及する教育実践=アイデンティティとコミュニティを相互媒介的に構成する実践
6.政治的実践としての教育実践―公共的領域の擁護と構築へ
- 著者性と真正性の実践=教室に多様な個性の共存と民主的な連帯を形成する政治的実践
- 著者性と神聖性の実践は「中立的教授学」とは根本的に異なる
- 教室の権威と権力の関係は、教え=教えられる関係から脱却して自己の存在証明と仲間との連帯を求める新しい関係へと移行
- 教室は自我を晒しあい他者との衝突を避けられないヴァルネラブルな(傷つきやすい)空間となる。
- 故に交わりと衝突を通して憩い合い癒しあいながら学びあう公共的空間を準備するものとなる
- 教室の変貌;自由に創作し表現しあう公共的空間を活性化する政治力学へと転化
- 教師の役割;文化の伝達者の役割から、多様な文化の媒介者
- 権威と権力の分配;教科書と教師から、一人ひとりの学び表現する欲望へと変容
- 教室における「著者性」と「真正性」の構築⇔教科書と教師の権威を批判し学習者の「声」を教育課程の中軸に設定するポスト構造主義の理論と実践
- 後者;「内なる声」を他者関係の網の目に微分して解釈する、結局は「主体」の「隷属化」に帰結する
- 前者;「主体」を構成している関係の「解釈」なのではなく、「主体」を構成している関係を編み直す実践
- 教育実践=人間関係・学校や教室という制度・教育の実践(授業と学習);「意味」と「欲望」と「権力」の編み直し
- 対象世界との認識論的関係=認知的・文化的実践=対象世界の意味を構築する実践
- 他者との社会的関係=社会的・政治的実践=共同体の連帯を構築する実践
- 自己との倫理的関係=倫理的・実存的実践=自分探しを通して自己を再構築する実践
- ⇒教師と子どもは、対象世界との対話を遂行しながら、他者との対話を遂行し、同時に自己との対話を遂行する。
- 教育実践と政治的実践の位置づけ
- 教育実践はある権力関係の拘束からある権力関係の拘束への変容という推移を通して、教師と子どもが学習と成長を達成する営み
- 教育実践における政治的実践と一般の政治的実践の違い
- 後者;特定の政治的信念や政治的勢力を拡大し、特定の集団が他の集団の権力を奪取することを目的としている
- 前者;民主主義の原理の徹底を通して学校と教室に公共的領域を構築する実践
- 教育における政治的実践
- 「中立的教育学」
- 学校教育の政治学を排除することで、学校教育の「公共的使命」を衰退させ、国家と企業と個人の私的利害に奉仕する教育を促進
- 「公共性の原理」を喪失した学校では、「教育市場原理」が機能し、従順で有能な労働者の形成に奉仕する「社会的効率」の欲望と大衆の社会的地位の上昇に奉仕する「社会移動」の欲望が教育の過程を支配するものとなる。
- 教育の政治学の担うべき課題
- 「教育市場」の経済原理において「企業化」され「私事化」された学校の政治的解明現実の解明
- 学校の政治的現実を正統化してきた「中立的教育学」への批判
- 民主主義の原理で構成される公共的領域として学校空間を再構築する実践
- 結論
-
- 「著者性」と「真正性」を尊重しあう学習共同体としての連帯を教室に形成する企てが必要
- 教室という政治空間に公共的領域を擁護し拡大する基盤を準備する政治実践が行われなければならない
-