立石洋子「現代ロシアの歴史教育と第二次世界大戦の記憶」(スラヴ研究 62号 2015 pp.29-57)

はじめに

  • 論文の趣旨
    • 1990年代から現在までのロシアにおける第二次世界大戦の記憶をめぐる政治を、歴史教育と教科書を題材として分析すること。
      • 1990年代の歴史教育政策や教科書の記述と近年の歴史教科書に関する政策を概観する。
      • 2013/14年度に教育科学省の推薦を受けたロシア史教科書のスターリン時代と第二次世界大戦の描写を検討する。
      • ロシアの民主化の「失敗」や国際情勢とロシアの歴史政策の結びつきに関する先行研究の見解について考察する。

1.1990年代の歴史教科書

  • 教科書の傾向
    • 1990年代に作成された教科書は、生徒に史実の解釈の多様性を教えることを重視。
      • 代表的教科書…ドルツルキーの10年生用教科書。
  • 問題点
    • 相互に対立する複数の歴史解釈を生徒に示す教科書が出現。歴史教育の質が教師の能力に大きく左右されるという状況を生み出す。統一的な試験の実施を困難にする。
  • 歴史教育の基本理念」草案(2000年3月)
    • 歴史教育の多様性に一定の制限を設ける必要性を訴える。
    • 草案は採択されなかったが、91年以降の歴史教育改革の方針が初めて公的批判の対象となったという意味で一つの転換点だった。

2.愛国主義と現代史教育:2000年代の歴史教育改革

  • モロゾフによる政府介入の必要の主張
    • 90年代当時の授業は教師の能力と教科書の質によって大きく左右される問題があった。
    • ドルツキーの教科書は対象年齢の生徒にとって難解。参考文献や資料の提示も不十分。
    • 政府は教科書の多様性を維持しながらも、その質を保障するために一定の「枠」を定める必要があると主張。
  • 一般の人々に共有される教科書への政府の介入を求める見解
    • 2007年7月の世論調査→多くのロシア人が歴史解釈の多様性と、政府による教科書の質の保障が必要だと考えていることを示す。

3.第二次世界大戦の評価をめぐる論争の国際化と教師用教科書の出版

  • ロシア現代史教師用教科書
    • 特徴
      • 2006年に作成開始。2007年出版。大統領府と教育科学省の直接の依頼で作られる。編者のフィリッポフは外務省と直接なつながりを持つシンクタンクの副所長。
    • プーチンの反応
      • ヨーロッパ諸国やアメリカによるスターリン体制の否定的解釈に異議を唱えると同時に、歴史教科書を統一する要項を作成する必要性を強調。
    • 批判
      • ロシア内外の知識人や人権団体、ロシア正教会やメディアの批判を呼び、新たな『小教程』、つまりソ連時代の歴史教科書のような単一の公的教科書になるのではないかという危惧が表明された。
    • 結果
      • その後、この教科書が他の教科書に影響を与えることはなく、当局の目的が同書による歴史教科書の内容の統制にあったのだとすれば、それは不成功に終わった。
  • ロシア大統領府における「ロシアの利益を害する歴史の歪曲に対抗する大統領委員会(大統領委員会)」
    • 2009年5月設置。
    • 危惧
      • 第1回会議で歴史教科書の問題を審議。フィリッポフ編の教師用教科書の出版時と同様に、歴史認識を政治的に統制するための検閲組織になるのではないかという危惧が多くの知識人から表明された。
    • 結果
      • 2012年2月まで活動を続けたが、結局歴史教育や教科書に直接介入することはなかった。

4.ロシア歴史協会の創設と「祖国史教科書の概念」の作成

  • 「連邦構成、地方政策、地方自治、北方問題に関する連邦委員会」会議(2012年11月開催)
    • 「歴史の歪曲」との対抗について審議。この問題は依然として重要な政治的課題であることをアピール。
  • ロシア歴史協会(2012年創設)
    • 目的
      • 歴史の歪曲との対抗
      • 国民的記憶を保存することでロシアの社会と政府、知識人、芸術家、歴史家を統合する。
  • 民族間関係委員会(2013年2月開催)
    • プーチンの言及
      • 連邦内の諸民族の相互理解を深める手段として、ロシア語教育とともにロシア史教育に言及
      • 生徒の多様な年齢に対応すると同時に「単一の枠組み」に基づく歴史教科書が必要だと述べる
      • 歴史教科書はロシアのあらゆる歴史を敬い、内容に矛盾が無く、ロシアの運命が多様な民族や伝統、文化によって形成されたことを示すものでなければならないと主張
  • 「新たな祖国史教科書・教育法参考書の概念(祖国史教科書の概念)」
    • 2013年10月に開催されたロシア歴史協会会議で草案が正式に承認
    • 目的:ロシア史に関する「社会的コンセンサス」の形成。
    • 記述:古代から現代までのロシア史の概説を時系列的に記述。
    • 教科書に描かれるべき重要な史実と人物、年表が記されている。
    • 特定の歴史解釈を提示したというよりも教科書に書くべき史実を列挙したもの
    • 巻末には「ロシア史の困難な問題」、つまり「激しい論争が存在し、教育が困難である」問題のリストが添付される。
      • 現在のロシア社会に自国史に対する共通見解が存在しないことを示す。

5.9年生用ロシア史教科書の第二次世界大戦の描写

  • ロシアの歴史教育(2013年12月18日に実施したモロゾフのインタビューより)
    • 5年生…中国とギリシャ、インドの古代史を学ぶ。
    • 6年生〜9年生…世界史とロシア史を並行して、時系列的に学ぶ。
    • 10、11年生…世界史とロシア史の授業が繰り返され、11年生で20世紀ロシア史を再び学ぶが、これらの学年での学習内容は高等教育機関への入学試験と密接に結び付いている。
  • 本節の目的
    • 2013/14年度に教育科学省の推薦を受けた普通学校の9年生用教科書を対象として、スターリン期と第二次世界大戦期の描写を分析する。
  • 教科書の発行部数
    • 最も発行部数の多いダニーロフらの教科書が事実上教科書市場を独占している。
1)スターリン時代の描写
  • 概観
    • すべての教科書が最先端の研究成果を取り入れて当時の政治や経済、社会、文化の多面性を示そうとしている。
  • 問題解決学習的な
    • それぞれの教科書の節や章の末尾には生徒への課題が掲載されており、生徒自身に史実の意味を考えさせようとする工夫がみられる。
    • 生徒自身に史実を調べさせ、その意味を考えさせようとする工夫は、それぞれの教科書が写真や政治指導者の演説、内務人民委員部の報告、日記や回想、手紙など豊富な一次史料を掲載している点にも見て取れる。
2)第二次世界大戦期の描写
3)第二次世界大戦の帰結
  • 概要
    • 戦後のソ連についてはすべての教科書が戦勝による愛国心の高揚だけでなく、体制に対する批判の高まりとそれに対する政治的抑圧の強化について詳述している。
小括
  • 教育科学省推薦リスト掲載 20世紀ロシア史教科書の特徴
    • 一般的に想定されているような、当局にとって望ましい歴史像を国民に普及するための単なる政治的道具ではない。
    • 歴史解釈の多様性の強調や、一次資料や課題を通して生徒自身に史実の意味を考えさせようとする工夫
    • 政治史だけでなく、社会史の描写や国家と社会にの関係に関する説明
    • 戦争を愛国主義的に描き、パルチザン運動や銃後の生活も含めてソ連国民の英雄的戦いに多くの紙幅を割くことで正義の戦争としての特徴づけがなされる。

おわりに

  • 近年の情勢
    • ロシア社会の安定と経済状況の改善、時間の経過や世代交代によるソ連時代との心理的距離の拡大は、スターリン時代や第二次大戦をめぐる議論にとってより良い状況を作り出している。
    • ロシアの民主化の「失敗」がソ連時代の政治的抑圧の検証を妨げているという一部の先行研究の見解は、ロシアの歴史認識の特徴を正確に伝えていない。
    • 近い将来に当局による歴史教科書への政治的介入が実現する可能性は低い。
  • プーチン政権の考え方
    • 阻止しようとしているのは、ファシズムとの戦いへのソ連の貢献を否定する見解やスターリン期の政治的抑圧の責任を現代ロシアだけに結びつけようとする歴史理解。
    • 政治的抑圧や飢餓、過酷な農業集団化といった史実を含めてスターリン体制全体を再評価する意図はないか、あるいは不可能だと考えている。
  • ロシアが国内の歴史認識の多様性を維持しながら諸外国との対話に向かうことを可能にするには
  • 今後の研究者の課題
    • 旧ソ連諸国やEU諸国、そして東アジアにおける第二次世界大戦の記憶をめぐる政治の中にロシアの歴史政策を位置づけ、それらの相互作用を検証すること

論文をよんで

  • 歴史教科書による「解釈」の重視と現場での実践の実態
    • 本稿では歴史教科書の分析が行われ、20世紀ロシア教科書では歴史解釈の多様性や史実の意味を生徒に考えさせる工夫がなされていると紹介された。これは近年の日本の歴史教育でも求められていることであり、2017年現在における現行の学習指導要領(平成21年版学習指導要領)では各内容の大項目の末尾に主題学習が設定されていて、教科書にも配列されている。しかし実際に解釈や史実の意味を考えさせる実践がなされているかといえばそうではない。故に教科書と実践が乖離しているのだ。このような日本の状況を鑑みた上で、ロシアの歴史教育では果たして歴史解釈の多様性を考えさせる授業はまともに行われているのだろうか。もしきちんと行われているとするならば、日本の歴史教育の参考になるのではないか?