ギャングスタ=アルカディアの感想・レビュー

哲学・思想ゲー。ギャングスタ=アルカディアは「個々人の人格の喪失について」。
近代的自我の確立を目指したのが明治日本なら近代的自我の喪失を受け入れるのが平成日本。
扱われるテーマ的にはハイデッガーの「ダス=マン」に近いのかな?
最終的には「選択しないことを選択する」ことによって人格が喪失されるセカイを選ぶ。
個人の人格を肯定するのではなく、否定しきったのは面白かった。

概要


  • 個々人の人格の喪失について
    • 他者との人格の統合を目指す場合
      • 他者の人格との統合というのはわりと良くテーマになります(エ○ァやギ○スなど)。私たちは結局の所、他者の感情を理解することはでません。他者がどのように思うのかを推察するのみです。そのため他者と理解し合うことの出来ない人間は次第に孤独に陥っていきます。それ故に近代的自我の確立がテーマとなった近代日本では、様々な懊悩が描写されたのでした。自我の確立が一部の身分・階級のものでしかなかった近代を経て、私たちは個別の人格が保障された時代に生まれました。現代日本では、どのようにして他者との理解をなしえようとしたのでしょうか?ここで扱われるのがユングでいうところの集合的無意識です。我々人類には種族として記憶が継承されています。つまりは「人類が太古から繰り返してきた無数の体験が積み重なってできた、普遍的なイメージを持つ無意識の領域」が存在し「原始からの人類の経験の集積に基づき遺伝的に伝えられる」というのです。この集合的無意識の考え方によって個人としての人格を消滅させ、他者との統合を目指そうとする思想が扱われるようになったのです。しかし、この他者との人格の統合は大抵の場合危険視されています。
    • ギャングスタ=アルカディアの場合
      • ギャングスタ=アルカディアで指摘される問題に近いのがハイデッガーの「ダス=マン」の考え方です。ハイデッガーが言うには、「人間は普段の日常生活に埋没し、おしゃべりや好奇心に心を奪われ、曖昧さの中に紛れて自己の本来の存在を忘れている」とのことです。自分自身の固有の存在を見失って不特定の「ひと」に紛れ込んだ匿名の人間の在り方。ギャングスタ=アルカディアでは「人間が過去を顧みず未来を見通さなくなると、現在において反射的な趣味趣向の判断をくだすだけになる」と指摘されています。この状態に陥ると、人類は人格を喪失することになるのです。人格のない人間など種的に滅亡したも同然!ということで、形而上学的な存在から干渉を受けることになってしまいます。しかしながらこの作品で面白いのは、自我の確立を目指すのではなく、積極的に個人の人格を喪失することを肯定していくことなのです。シャールカ先輩が人格など近代になってから人間によって作られた産物だと切って捨てるところがみどころです!!

ほとんどの人間は、最初から人格なんてものからは取り残されてきたんだ。
人格の恩恵をありがたがってきたのは一部のエリートだけさ。
人格なんてエリートの夢に過ぎないんだよ。
人間は人格の外で生きてきたんだ。
人格を手に入れたり、人格がなくなるのを防いだりする必要なんて最初からないんだ。


  • シャールカ先輩について
    • シャールカ先輩は「事情を知らない奴の上から目線の介入はろくな結果を生まない」ということに拘り続けています。本編ではその理由が明かされるのですが、どうみてもユーゴスラヴィアな感じがプンプンします。シャールカ先輩は東欧のご出身。地政学的に様々な民族が入り乱れる地域で、そのため民族自決による国民国家が作れなかったとのことです。第二次大戦中、他の東欧地域とは違って、ユーゴスラヴィアソ連の力に頼らずにナチス=ドイツから自力解放しました。それを成し遂げたのがティトー。大戦後は、国民的英雄のティトーのもとで独自の社会主義路線を歩むことになりました。ユーゴスラヴィアは他民族国家だったのですが、ティトーのカリスマ性と冷戦構造のイデオロギーによって国民統合が成されていたのです。しかし、ティトーが死に冷戦が終結すると、国民統合のタガがゆるみ始めます。こうして民族紛争が勃発したのです。するとどうでしょう。アメリカ率いるNATO軍が「善意の介入」を行い、空爆を行います。国はメチャクチャになり産業は大打撃となったのです。アメリカは建国以来、絶えることなく膨張を続けてきました。その背景には「マニフェスト=デスティニー」があります。進んだアメリカの進んだ文化や制度を文明の低い地域にもたらすのは神から与えられた明白なる運命だと。これによりアメリカはアフガンやイラクパレスチナ問題に介入してきましたが、推して知るべしですね。
    • シャールカ先輩は身近な民族問題の例として仲良くしていた親友に裏切られるというトラウマを背負うことになりました。シャールカ先輩の地域では民族対立よりも周辺住民との交流が必要不可欠であり、シャールカ先輩の家庭も異民族の隣人と仲良くしていました。NATO軍の空爆にも助け合い、シャールカ先輩のお家が略奪・放火にあったときにも、快く物置を貸してくれたのでした・・・。と、思ったら、シャールカ先輩のお家を略奪するよう密告したのは、シャールカ先輩が親友だと思っていた隣人の少女だったのです。民族的に優位にたつシャールカ先輩たちの家庭に施しを与えることで優越感に浸り、物置を貸してくれたのも、知識階級であるシャールカ先輩の両親を物置で暮らさせることで満足感を得たのだと。シャールカ先輩が「上から目線の善意」を信じられなくなるのも、このようなところから来ていたのです。



  • セカイの観測者
    • この作品の魅力となっているのが、討論と納得のシステムで、キャラクターたちが自分の思想を引っさげて自己の論理を展開します。人類の滅亡を防ぐために「上から目線の善意」を振りまく形而上学的な存在の介入を阻止するべく言葉を尽くすのです。形而上学的な存在は受肉し、天音と名乗って主人公くんたちと交友を図るのですが、次第に情にほだされて人格を分裂させてしまいます。主人公くんたちと情交を結ぶ天音Aと合理主義者で人類を救おうとする天音B。合理主義者の天音Bを論破するのは難しく、主人公くんたちは劣勢に立たされるのですが、ここで主人公くんが躍り出ます。主人公くんは天音が主人公くんたちとの交流によって人格を分裂させてしまったことを指摘し、形而上学的存在のアイデンティティ拡散について配慮します。するとどうでしょう、これまで人間の存在を思いやることはあっても自分が思いやられたことのない天音はきゅんきゅんきてしまうのです。こうして形而上学的存在の存在理由を配慮したことによって天音の介入はストップするのでした。最終的に主人公くんの選択によってセカイの在り方は規定されるのですが、主人公くんは「選択しない」という選択をすることによって、あるがままのセカイを肯定したのでした。
    • 「選択をせず、だらだらして適当に生きて、運命に流される」。このことは作中では「責任を真正面から引き受ける行為」と規定されていきます。「ループが一般化した世界とは、すなわち偶然や運命に流される世界のことです。その世界では、人間は、本当の意味での責任の暴威にさらされることになります。責任のパラダイムシフトの末の、ほんとうの責任に」。このため、シャールカ先輩は懊悩し、気楽に主人公くんとの性交渉を楽しむことが出来ないのです。このようなシャールカ先輩が世界に適応することができたきっかけは自分の母親の死を受け入れたことでした。母親の死を受け入れたことのように、世界の在り方もただ受け入れて行けば良いと悟るのでした。こうして「否定する力をもって、肯定をおこなった」主人公くんの世界でハッピーエンドを迎えたのでした。