アメリカ合衆国のアジア政策 米西戦争〜太平洋戦争

米西戦争の原因


アメリカ帝国主義の起源はフロンティア消滅後の米西戦争だと言われているわ。
しかしここで思い出して欲しいのはアメリカは建国以来絶えず膨張していることね。
西部開拓、マニフェストデスティニーなどを思い出して欲しいわね。
受験世界史やってる人はアメリカの西部開拓の地図問題は必ず見たことがあるはずだわ。
アメリカの歴史は膨張の歴史でもあるのね。


アメリカの膨張は留まることを知らない。
1890年ついにフロンティアが消滅すると、資本家たちを中心に海外進出の要求が強まった。
この時の大統領がマッキンリー(任1897〜1901)。カリブ海政策で有名ですね。
そしてカリブ海、太平洋諸島を所有するスペインに挑戦することになります。


こうして米西戦争に繋がるのね!
アメリカはキューバにおける対スペイン独立闘争を利用することになるわ。
キューバ愛国主義の象徴ホセ=マルティも参加した1895年第二次キューバ独立戦争とかね。
アメリカ資本はキューバの砂糖産業に多大な利害を持っていたし、世論も独立を支持したわ。


戦争の発端としてはアメリカ様お得意の自演作戦が発動します。
ハバナ湾で軍艦メーン号が爆沈されたことを口実にマッキンリーがスペインに宣戦布告。
アメリカはスペインをフルボッコにします。
しかし肝心のキューバはどうなったかというと・・・!
なんとキューバは戦後プラット修正により保護国化されてしまったのですね。


米西戦争ではスペインからプエルトリコ、グアム、フィリピンを獲得するわ。
そして全世界史教員が強調する出来事が登場するにね!
教員「ハワイは米西戦争中に併合したのであって獲得したのではない!!」
こうして米西戦争を通じてカリブ海から太平洋にかけてアメリカの基盤が固まったのだわ。


まとめると米西戦争の原因は以下の通り

  • 1890年のフロンティア消滅による海外進出の要求の高まり
  • 砂糖産業に利害を持つキューバの対スペイン独立運動の利用

直接の戦争口実はメーン号事件だけれども・・・アメリカは建国以来膨張し続けてきたこと・フロンティアが消滅したこと・キューバ独立運動を利用したこと。これらを指摘するひつようがあります。

米西戦争がフィリピンの独立運動に与えた影響について


米西戦争ではキューバだけでなく、フィリピンも戦場となります。
フィリピンの対西独立運動は米に利用されたあげく、結局はアメリカの植民地となるのですが。
それではフィリピンの独立運動の経緯を見ていきましょう。
フィリピンもまたキューバと同様にスペインに対して独立運動を起こしていました。
その先駆けとなったのがホセ=リサールのフィリピン民族同盟。
同時期にキューバとフィリピンで「ホセ」が二人出てくるので出題者が良く狙ってきます。
教員は【マルティがキューバ】で【リサールがフィリピン】だぞ!と強調するところ。


ホセ=リサールは言論による平和的な運動を行うのだけど逮捕されてしまうのだわ。
リサール逮捕後、武装蜂起を行ったのはボニファシオが率いる秘密結社カティプーナンね。
か、かんちがいしないでよね。ボニファシオは人名で、カティプーナンが結社名なんだからね!
1896年になると秘密結社カティプーナンによるフィリピン革命が始まるわ。


そして複雑な動きを見せるのがアギナルドです。
受験生的にフィリピン独立運動=アギナルドと機械的に覚えさせられるのですが・・・
山川の『世界史小辞典』では「独立運動の指導者としての評価は定まっていない」とされています。
それもそのはず。
アギナルドは首長層出身であり、カティプーナンに入党したものの、
貧困層出身のボニファシオを粛清してしまいます(1897)。
そしてスペインと和約を結んで香港に亡命してしまうのですね。


アギナルドがフィリピンに舞い戻ってくるのは米西戦争が始まってから。
アメリカの援助の下に帰国を果たすのね。
アギナルドは1899年にマロロス共和国の独立を宣言して大統領になるわ。
このことは米西戦争でフィリピンを獲得したアメリカにとって認められることではなかったの。


こうして米西戦争に続いて1899年にフィリピン=アメリカ戦争が勃発します。
アギナルドは抵抗して戦うのだけど1901年に逮捕されると帰順を誓い引退してしまいます。
スペインには和約したり、アメリカには帰順したりとアギナルドェェ・・・
アメリカは1902年に平定宣言を出し、フィリピンの新たな支配者となるのでした。

米西戦争後〜太平洋戦争開戦にいたるまでのアメリカのアジア政策

中国利権をめぐって


アメリカが1898年に米西戦争を戦っていた最中、中国では列強が勢力圏を確定させていきます。
中国における列強の租借地は、受験においてピンポイントで出題されます。
ドイツの膠州湾、ロシアの旅順・大連、イギリスの威海衛と九竜半島、フランスの広州湾。
アメリカは中国進出に出遅れてしまったのですね。


アメリカは先行するヨーロッパ列強を牽制しながら、中国市場への割り込みを狙うわ。
これが有名なヘイの三原則というやつね。
1899年に国務長官ジョン=ヘイの名で門戸開放宣言が出され、門戸開放と機会均等が提唱されたわ。
1900年には加えて中国の領土保全も唱えられるの。門戸開放・機会均等・領土保全の3つね。
門戸開放宣言はアメリカが列強に希望を表明しただけだったのだけど、一応賛意は得られたわ。
こうしてアメリカ資本が中国市場へ進出することができたのね。


アメリカの中国市場を求める動きは日本と対立するようになっていきます。
対立が初めて現れたのが日露戦争後の中国情勢でした。
中学社会でセオドア=ルーズヴェルト日露戦争の講和を斡旋したことを習いますよね?
所謂ポーツマス条約ですが、これには米資本参入の機会を窺っていたことが背景にあるのです。
鉄道王ハリマンと満鉄の話を教員は話すはずです。
ハリマンは南満州鉄道の経営に強い意欲を持っていました。
一時は日本政府との間に日米合弁事業とする予備協定を成立させていたほどです。
ですが結局日本はこれを蹴ることになり、日露で中国東北地方の利権分割を行います。
このことはアメリカにとって不快なことでした。


また日露戦争後、極東において日本が英仏露と提携を結ぶことになるわ。
日英同盟改訂、日露協約、日仏協約。
この動きはアメリカに孤立感を抱かせることとなり、両国の関係は陰悪になっていくのね。
その顕著な例が日本人移民排斥運動ね。
1906年のサンフランシスコ学童入学拒否事件に始まり、
1924年の移民法では日本人移民は完全停止となるのだわ。

ワシントン体制


第一次世界大戦において日本は露骨な中国・太平洋進出政策を取ります。
日英同盟を口実に参戦し青島やドイツ領南洋諸島を占領しました。
そして袁世凱政府に対する二十一カ条の要求は欧米列強の警戒心を強めることになります。
そのため日本は利権調整として欧州へ海軍を派遣し、米国と石井・ランシング協定を結びました。
これにより戦後のパリ講和会議では、中国が求めた「二十一カ条の要求の破棄」は一蹴されています。
また日本はドイツ領南洋諸島委任統治権も獲得しました。


だがしかし日本の膨張はワシントン体制で封じ込められ、外交的に孤立させられてしまうのね。
九カ国条約では中国における門戸開放・機会均等・領土保全を国際的に承認したわ。
これにより石井ランシング協定は失効し、山東半島の旧ドイツ利権は中国に返還されたの。
四カ国条約では、米英日仏で太平洋の現状維持が約束されたわ。
これにより日英同盟が破棄されてしまうの。
こうしてアジア太平洋ではワシントン体制が1920年代の国際秩序となっていくのよ。


1920年代の日本は経済的に無理ゲー状態に陥ります。
戦後恐慌(1920)、震災恐慌(1923)、金融恐慌(1927)、昭和恐慌(1930)です。
このような情勢にあっても既成政党は政権争いを繰り広げるだけでした。
都市労働者や農民の意見を集約できる政党は皆無だったのですね。
この時、軍部が経済的危機を大陸での支配権拡大で解決することを主張すると・・・
一般国民はこれに期待をかけるようになっていくのです。
こうして軍部の台頭が始まり、ワシントン体制に挑戦していくことになります。

太平洋戦争開戦までの道のり


アメリカは日本の挑戦に対し、経済制裁の政策をとり対抗していくことになります。
同時に日中戦争で国力を消耗した日本は、外交もまたグダグダ状態に陥っていきます。


日本の外交はこんな感じだわ。
1939年5月からのノモンハン事件で日本はソ連フルボッコ
 →しかしドイツは1939年8月末に独ソ不可侵条約
1940年9月、ドイツの軍事的成功につられて北部仏印進駐+日独伊三国同盟
 →この結果、日米対立は決定的となり航空ガソリン・くず鉄・鉄鋼の対日輸出禁止。
1941年4月〜10月には日米交渉を行うが・・・
 →交渉中の4月に日ソ中立条約を締結
  ※6月には独ソ戦が開始。松岡外交による日独伊ソ4カ国大陸ブロックの目論見は崩壊。
 →交渉中の7月に南部仏印進駐を行う。
  ※アメリカは在米日本人の資産凍結と対日禁輸措置を実行。対日経済制裁が強化。
 →交渉中の9月に御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定
  ※期限付きで(10月上旬まで)日米交渉を継続する一方で、交渉不成立の場合には対米開戦
 →交渉中の10月、第三次近衛内閣は対米開戦をためらい総辞職。
  ※東条英機内閣の成立。
1941年11月5日御前会議で9月の会議を再検討、結論は同じ。
 →11月26日ハル=ノート提示。満州事変以前の状態への復帰を求める強硬案。
 →12月1日御前会議で開戦を最終決定。12月8日太平洋戦争開戦。


こうして最終的にアメリカがアジア・太平洋の覇権を握ったのでした。