アメリカ合衆国とヴェトナム戦争


米国とヴェトナム戦争といえば『ディエンビエンフー』というマンガがありました。
ディエンビエンフーの戦いヴェトナム戦争ではなくフランスが大敗したインドシナ戦争やろ!
上記のように読者がツッコむのがお約束でしたが、独特な絵だったことを覚えています。

アメリカ合衆国ヴェトナム戦争介入の歴史


さぁ、そんなわけでアメリカのヴェトナム戦争介入の歴史について述べるわけね。
最初に出題者(一橋)の要求をまとめておくわよ。
・時期:1954〜75
・条件:原因と結果を具体的に述べる。
ヴェトナム戦争の開始と終結は様々な説があるけれど、
1954年〜75年いうことは54年のジュネーブ協定の調印拒否から、
75年のサイゴン陥落までと考えていいわね。
戦争の原因は米国の反共政策、結果は米軍の撤退とインドシナ半島の共産化だわ。


1954年のジュネーブ協定調印拒否についてからいきましょう。
第二次大戦直後、日本が降伏するとホー=チ=ミンは即座に独立を宣言します。
しかしそうはさせじと旧宗主国のフランスが立ち塞がり1946年にインドシナ戦争が勃発。
フランスは1954年に拠点のディエンビエンフーが陥落し、ジュネーブ会議が開かれます。


「フランスとベトナムの休戦協定にアメリカ様がいるのはなんでなんだぜ?」状態だわ。


ジュネーブ会議には米英仏ソ中などが参加していたのです。
勿論さっきからいっているように米国はジュネーブ協定に調印しませんでした。
ジュネーブ協定では北緯17度線の暫定軍事境界線と南北統一選挙の実施が決められました。
アメリカは反共の立場からヴェトナム民主共和国による統一を邪魔しようとするのですね。
そんなわけでアメリカのジュネーブ協定調印拒否がヴェトナム戦争の原因となったんですよ。


アメリカ様はどうやって南北統一の邪魔をするの?いきなり軍事介入しちゃうの?


1955年、アメリカは南部にゴ=ディン=ディエムを擁立してヴェトナム共和国を建てます。
しかしこのゴ=ディン=ディエムこそ問題だったのです。
冷戦中、アメリカはしばしば反共親米であれば独裁政権であろうと支援していました。
ゴ政権も例外ではなくアメリカの支援をいいことに独裁をふるい同族支配で腐敗していきます。
このようなゴ政権に対して南ベトナム解放民族戦線(俗称ヴェトコン)が1960年に結成されます。
アメリカは61年に軍事顧問団を大量に!派遣してゴ政権とヴェトコンの内戦を支援するのですが、
1963年とうとうゴ=ディン=ディエムは軍事クーデタを起こされて政権は崩壊してしまうのです。
アメリカは本格的な軍事介入の動きを強めていきますが、イキナリ戦争を起こすことはできません。


あー!!だからここで1964年の「トンキン湾事件」が重要になってくるのだわ!!
アメリカ様が「自国の駆逐艦北ベトナム魚雷艇の攻撃を受けた」と騒ぎ立てるのね。
勿論これはでっちあげ!のちにアメリカ様自身もでっちあげと認めているわ。
アメリカ様といったら数々の有名な「でっちあげ」で有名だわね!
米墨戦争の挑発とか米西戦争のメーン号事件とかイラク戦争大量破壊兵器とか。
ヴェトナム戦争の時にもでっちあげ事件でナショナリズム昂揚させて戦争の口実としたのね。


1965年、ジョンソン政権により北爆が開始され、戦闘部隊も派遣されます。
当初は世論も「アメリカの正義」を信じていましたが、戦争は長期化していきます。
戦争の転機となるのは1968年の「テト攻勢」でした。
1968年の1月末の旧正月(テト)、南ヴェトナム解放民族戦線が主要都市で一斉攻勢を展開します。
解放戦線も多大な犠牲が出たのですが、これにより世論に「戦争の泥沼化」を深く印象づけたのでした。
1969年、ジョンソンに代わりニクソンが大統領に就任すると、戦争終結へ動き始めるのです。
1972年、ニクソン訪中が実現し、中ソ論争でソ連と対立していた中国を利用することに成功します。
そして1973年、パリ和平協定が締結されて、アメリカ軍はベトナムから撤退していきました。


アメリカ様の反共政策に巻き込まれ、見放されて撤退された南ベトナム涙目・・・!!!
こののちも南ベトナム政府軍は解放民族戦線と戦闘を続けるのだわ。
だけど結局1975年に北ヴェトナム正規軍が南下を開始し、サイゴンが陥落して戦争終結
翌年には社会主義共和国としてヴェトナムは統一されたのだわ。

ヴェトナム戦争介入がアメリカ合衆国の社会と対外関係に与えた影響


ヴェトナム戦争というとグリザイアシリーズの主人公を思い浮かべるわね。
米軍に従軍し戦争を経験した主人公は軍事ネタをよく引き合いにだすの。
その中の一つの印象的な台詞のひとつに、
「国のためにヴェトナムに行ったのに帰国したらヒッピーにクソを投げつけられた気分だ」
という描写があるのね(うろおぼえ)。
だからヴェトナム戦争の泥沼化というと反戦運動が思い起こされるの。


1960年代というと全世界で学生運動が盛り上がっていました。わりと。
アメリカでも黒人の公民権運動の流れの中で、学生達が民主化運動を展開します。
この運動がヴェトナム戦争の長期化とともに、徴兵拒否などの反戦運動に結びつくのですね。
体制に反対するのがロックなんだ!!とかいう若者がたくさんいたそうな。
資料集にも徴兵カードを燃やす若者達の写真とか載ってるので見たことがある人も多いはず。


以下山川の『世界史小辞典』を引用しておくわね!

カウンターカルチャー counterculture】
1960年代のアメリカで若者が既成の秩序を打破し、新しい価値観のもとで生きようとした対抗文化運動。公民権運動、ヴェトナム反戦運動、女性解放運動、性革命、同性愛解放運動などの新しい社会運動が起こり、またマリファナLSDなど麻薬の流行、ヒッピーの登場などによって社会秩序が乱れた結果、保守派の台頭を促し、近年の価値観の二極分化を生んだ。


つづいて対外関係ですが、ヴェトナム戦争の国際的影響といえば、
なんといってもブレトン=ウッズ体制の崩壊です。
戦後、資本主義の繁栄を単独で支えてきたアメリカは国際通貨体制を指導してきました。
基軸通貨の米ドルと各国通貨との交換比率を固定する金ドル本位制が敷かれてきたのですね。
しかし58年以来、国際収支悪化・金流出でドルの信頼は失墜しつつあり、
ヴェトナム戦争の軍事支出の膨張と社会福祉支出の増加がスタグフレーションを進展させます。
ついに71年には貿易収支も赤字に転落してしまいました。
そのためニクソンは同盟国に何の相談もなく突然にドルと金の交換を停止してしまうのです。


アメリカ様、何の相談もなく!!
さぞや当時の国際状況はショックだったに違いないわ。ニクソン=ショックと呼ばれるくらいだもの。
ちなみに各国はブレトン=ウッズ体制に代わる新しい通貨体制を模索するのだけど、
ドル危機は続いてしまうのね。
こうして73年移行、主要国は変動相場制に移行していったわ。


アメリカが与えたショックとしては、「ニクソン訪中」も指摘できます。
ニクソンヴェトナム戦争終結のため、ニクソン=ドクトリンを発表します。
米地上軍の段階的撤兵と「戦争のヴェトナム化」を表明したのですね。
この戦略を進めるために、アメリカは中国との関係改善に乗り出すのです。
中国も1969年にダマンスキー島ソ連と軍事衝突するまでになっていました。
中国はアメリカと提携し、ソ連修正主義を敵と見なす外交方針に転じたのでした。


71年卓球選手団の交流から始まり(ピンポン外交)、キッシンジャーが秘密裏に周恩来と会談するのね。
こうして72年ニクソン訪中が実現するのだけど、涙目になったは日本だったわ。
なんと日本はニクソン訪中の公式発表まで米中接近の交渉を知らされていなかったの。
アメリカの頭越しの外交は諸国に大きな衝撃を与えたのだわ。