みなさん、こんにちは。毎年恒例の「今年のセンター国語はどうよ?」のお時間です。
大まかな枠組みを知りたい方や大体こんな感じ?というのを知りたい方向けです。
詳細が知りたい方は大手予備校のサイトを見ましょう。
評論小説古文漢文はそれぞれコミュニケーション論・近代家族論・説話文学・儒教道徳(孝)でした。
いつも言ってますが、受験国語は「出題者の意図」を読み取る事が目的なので勘違いしないように。
「自分がどう読んだか」や「作者は何を考えているか」はとりあえず二次試験の小論文まで置いておきましょう。
評論 土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』
- ポストモダンのコミュニケーション論
- 要旨:価値観が多元化したため「アイデンティティの確立」ではなく、「キャラの使い分け」が求められるようになった。
- ポストモダンの時代。大きな物語の終焉により絶対的な価値観は無くなり価値観は多元化しました。絶対的な価値基準は存在せず、その時々に応じて価値観が変容する時代に生きることになったのです。絶対的な価値基準が存在していた時代は人格の完成において、アイデンティティーを確立することが求められていました。しかしポストモダンの時代には、その状況に応じてキャラクターを使い分けねばならなくなったのです。その時々に応じて自分を変えるということは一見すると不誠実のように感じるでしょう。しかし状況に応じて自分の態度や振る舞いを変えるということは不誠実ではありません。むしろ価値観が多元化した相対性の時代には、キャラを演じ分けることが誠実さの一つとなっている
- 要旨:価値観が多元化したため「アイデンティティの確立」ではなく、「キャラの使い分け」が求められるようになった。
- 分析
- キャラクターの記号化と属性の自己投影
- 現代文の評論文というのは現代社会の諸問題を扱います。そのため「なぜこの文章が出題されたか」は、現代の問題から考えねばなりません。その点で世界史の現代史と倫理の現代思想をやっている人が良い点取れるのも道理というわけです。この文章も「大きな物語の終焉」に関する議論を読み慣れている人なら非常にオーソドックスな文章だったといえるでしょう。「大きな物語の終焉」とは絶対的な価値基準が崩壊したことです。例えば冷戦前なら資本主義陣営とか社会主義陣営とか拠り所となる思想対立があったでしょう。また90年代以前の人々なら日本的経営システム、つまりは年功序列賃金と終身雇用という「大きな物語」が存在していました。しかし90年代以後は価値観が多様化・相対化したため絶対的な規範や価値基準というものが崩壊しました。だからこそ私たちは人格の完成においてその時々に応じて属性やペルソナを使い分ける必要性が生じたのですね。私たちがキャラクターを属性にデータベース化しそれらを記号として消費するのも使い分けの一種であり、その時々に応じてデータベースのキャラ属性を自分に投影して振る舞うようになったのです。
- 「大きな物語の終焉」に対する反動
- この「大きな物語の終焉」に対して人々は戸惑いました。記号消費により次々とペルソナチェンジして柔軟に対応できる人なら良かったのでしょう。しかし、そうでない人々は絶対的な価値観を求めるよう反動化し、一部の価値観にしかすぎないものを伝統と称して美化するようになったのです。学習指導要領でやたらと武道必修とか道徳教科化とかナショナリズムってる側面ですね。また宗教原理主義に走るのもこの流れといえます。価値観が多様化し拠り所となるものが無くなった現代の若者たち。勝ち組になれるのはごく一部で競争に敗れて人生の敗残者となり生活も不安定。そんな若者たちに対して「大きな物語」をちらつかせてあげればとても魅力的にうつるでしょう。これが90年代以前の「大きな物語」があった世代と終焉してしまった世代の違いと言えるでしょう。
- キャラクターの記号化と属性の自己投影
小説 佐多稲子「三等車」
- あらすじ・要約
- 主人公は満員の車両の中、闇で座席を買い、座ることが出来た。そこで子連れの夫婦を見かける。妻は赤ちゃんと男の子を連れて実家に帰る所であり、夫だけが残るという。出稼ぎをしていた夫の所では生活が立ちゆかなくなったとのこと。夫婦は口論の末、喧嘩別れをし、車内に残った妻は夫に対する不満を漏らす。しかし夫は妻の知らないところで出発するまで見守り、男の子と別れをかわしていたのだ。妻は不満を吐き出して落ち着いたようだが、男の子は「父ちゃん来い」とつぶやいている。主人公はそれを見て、この家族のことを気がかりに思うのであった。
- 家族論
- いつの時代になっても家族論は人間を取り巻く永遠のテーマ。現代文という性格上、近代家族論を読ませることで、現代の家族像について考えさせようとしているのでしょう。主題は「夫婦のすれ違いとそれに巻き込まれた子ども」。第1問の評論が「大きな物語の終焉」だっただけに、第2問の小説で家族論をぶつけてこられると「出題者の意図」として今流行の婚活問題とかにまで思いを馳せそうになりますね。読み取りのポイントとしては妻と家族の関係性。妻は夫に対して不満を抱いているが、夫には妻には知られることのない家族への思いがあります。また妻は赤ちゃんに手一杯ですが、男の子には母には知られない父への思いがあるのです。これはテクストの主題の根幹をなすため設問にもなっており、主人公から見た家族関係の分析をきちんと把握できるかが重要となってきます。
古文『今昔物語集』の一節
- あらすじ・内容
- 仏教パワーってすごいね!という一例
- 鬼の行列に出くわしたが見逃してもらえた。しかし存在が認知されなくなってしまう。困ったので寺へGO!六角堂の観音に救いを求め、夢で仏教パワーのお告げをもらう。「朝に寺から出てって初めてあった人の言うことに従え」とのこと。夢の通りして出会った牛飼いに従うと、なんか床に伏している姫君のところへ連れて行かれる。牛飼いの指示通りに振る舞うと女が苦しみだしたので、修験者が呼ばれる。修験者の呪文で存在が認知されるようになった。事情を説明すると修験者は理解を示し解放してもらえたので家に帰る。この修験者に出会えるようにしてくれたのは、六角堂の観音の導きだったのだ!!
- 仏教パワーってすごいね!という一例
- コメント
漢文 盧文弨『抱経堂文集』より
- あらすじ・内容
- 第1段落
- 張荷宇が死別した親への愛情を示すターン。物心つく前にママンと死別しちゃった!けどママンを思う気持ちは忘れないよ!そのママンへの思いが届いて夢で会うことができたの。だから夢で見たママンと、その夢を見た場面を絵にしたよ!
- 第2段落
- 盧文弨がコメントするターン。張荷宇さんよ、まことの心は生死を超えて繋がり親子の絆は固いのだ!!だから張荷宇さんのママンへの思いが届いたのだ!(イイハナシダナー)
- 第1段落
- 相変わらず儒教道徳で「孝」の精神