- 本稿の趣旨
- 植民地支配においてハードウェアとソフトウェアに例えられる軍隊と学校に関して、植民地の教育活動におけるその本質を、国史(日本歴史)教育とその教科書の側面からとらえること。
以下、満洲における歴史教育に関する事項まとめ
- 満洲国の学制について(p.126)
- 1937年以前の学制
- 満州国最初期の学制は当面やむを得ず中国の学制を引き継いだものであり、三民主義を厳禁し、教育内容を改善し、新しい教科書を編纂することによって急場をしのごうとした。最初は歴史教育は高級小学校におかれており、学年配当からいえば当時の日本と同じであるが、自国史のみならず、外国史をも取り上げている。1934(康徳元)年及び35年に発行された高級小学校の教科書は、歴史を国史(満州国史)、日本歴史、東亜史の三本立てとし、中国史は東亜史に入れられている。
- ……「主要教材及取扱上の注意」では「満州建国の由来と、其後の異常なる発達と、日満の不可分関係を明らかにすること」をまず第一に挙げている。満州国史は建国前と建国後に分けられるが、建国前史は「古代諸民族、高句麗、渤海、遼、金」など中国本土を離れて東北部を中心した歴史であり、しかも分量的には数千年の建国前史とわずか数年の建国後史とが二対一の割合になっている。これは中国東北部で大多数を占める漢民族を、文化伝統を異にする原住諸民族に対して一律に漢民族本意の教育を強制したといって批判し、漢民族を満州族の中に解消してしまうことを狙っていた政策に対応しているといえる。
- 1937年〜1943年の学制
- 1943年以後の学制
- 1943(康徳10)年に再び学制が変わり、国語(日本語を含む)や自然は国民科かた一応切り離され、地歴は修身と合わせて「建国精神」とされた。一方、中等学校(国民高等学校)では国史と地理を統合して『国勢』という教科書が作られ、これが「国民道徳」と統合して「建国精神」となったという。これらの教科書はいまだ現物が確認されていないので詳細は不明である……
- 1937年以前の学制
- 植民地における実験的な教育政策/満鉄(pp.129-130)
- 満州日本人用教科書『皇国の姿』と戦後初期社会科の連続性(pp.130-131)
- …国民学校期になると、今度は満州で日本人用の『皇国の姿』(在満・関東国民学校用、五・六学年用、二巻。1942年および43年発行、関東局在満教務部教科書編輯部)が作られている(時間配当は各学年週三時間)。(この教科書については、磯田一雄・野村章・吉村徳蔵編『復刻・満州官製教科書』ほるぷ出版、1989年の解説、および磯田一雄「在満・関東国民学校のカリキュラムと教科書」『関東育学会紀要』第17号、1990年、pp.1-8)
- …特徴は、(一)国史を縦糸にして地理を所々含ませていること、そのために歴史叙述が思い切って簡略化されていること、(二)同時代の国定の地理や国史の教科書に比し、グラフ・分布図・地図類が多いこと、(三)両者とも地歴教科書としては、平易な敬体口語を先駆的に採用していること、(四)カラーの口絵を入れていること、などである。そうした点では検討に値する教科書としての先進性を持っている…
- …『皇国の姿』はその表題にもかかわらず、作業主義的・合理主義的な学習を可能にするような面も部分的には見られ、その点では今日から見ても教育学的な分析に値する……植民地における国史教科書は、時には地理との統合ないし作業学習化を通じて皇民化教育の実験教材となるとともに、一面では戦後の社会科前史としての意義を担っている…