雑録

「内原郷土史義勇軍資料館」訪問記・雑感

内原訓練所は満蒙開拓青少年義勇軍に応募した各道府県の青少年が満州に渡る前に訓練を受けた施設。
茨城県水戸市内原にあり、現在は郷土資料館となっている。
その足跡を体感するため、現地を訪問してきたのでメモしておくこととする。

満蒙開拓青少年義勇軍とは(貴志俊彦他編『二〇世紀満洲歴史事典』(吉川弘文館、2012年)より)

  • 定義
    • 日本内地の数え年十五歳から十九歳の青少年を満洲国に開拓民として送出する制度で、満蒙開拓移民送出事業の後半の主要形態をいう。
  • 創設
    • 一九三二年満洲国建国によって始まる本事業は、三六年の二・二六事件後に国策化され、「二〇ヵ年一〇〇万戸送出計画」という壮大な計画が打ち立てられた。だが、翌三七年に始まる日中戦争による大量動員と戦時景気に伴う労働力需要によって、成人移民を多量に確保することが困難となり、その打開策としてかねてから検討されていた青少年義勇軍が創設された。翌三八年から終戦までの八ヵ年に八万六〇〇〇余人の青少年が義勇軍として送り出され、それは開拓民送出事業総体のじつに三割をも占めており、同事業に欠かせない存在となった。
  • 入植
    • 道府県で選抜された青少年三〇〇名を標準として中隊に組織し、加藤完治が所長を務める茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所(いわゆる内原訓練所)で二、三ヵ月の訓練を受けた後に、満洲国の現地訓練所にて三ヵ年の訓練を経て、義勇隊開拓団として入植した。
  • 呼称
    • 成人移民を補充するものでありながら、その名称は青少年移民ではなく青少年義勇軍命名された。それは、日中戦争遂行上必要不可欠な満洲支配の安定的維持に青少年が挺身することを、当時の軍国的意識の昂揚した青少年に訴えるためであった。

雑感

義勇軍資料館(写真は復元日輪兵舎)

  • 入館前後
    • 現地周辺に着くも資料館がどこか分からず図書館で場所を聞くと隣の建物だという。グラウンドの隣に復元された日輪兵舎があり、そこをまず最初に見学。無造作に当時の服やら雑貨屋ら日常品が配置してあった。特にキャプションなどはない。資料館に入館し、入館者を記録するノートに名前を書く。無料です。我々以外他に入館者はいない。受付に初老男性はいたが、学芸員の方でもなさそうであり、展示の解説員もいない。最初は郷土史コーナー。一応、土器や埴輪なども逐一眺めながら義勇軍コーナーへ。
  • 義勇軍コーナー
    • 日輪兵舎の内部を象った形となっており、関連資料が展示されている。同行者が遊牧民のゲルだかパオみたいとかいう。個人的に興味を持ったのが、義勇軍手帳、訓練所の座学で使用していた各種教科書、義勇軍募集要項、。義勇軍手帳は目次のみが見られるようになっており中身が気になるところ。各種教科書もどのような学習をしたのかすごく興味があったが中身は見られない。あと当時の両面刷りプロパガンダ広報は閲覧できるようになっており、これも面白かった。4コマ漫画が載ってて「満洲マァちゃん」?(タイトルうろ覚え)とか当時の表象文化研究とか出来そう。そして、どうやらこの資料館は比較的新しい施設らしくかつては内原訓練所の碑の隣に日輪舎記念館があって、そちらで展示をしていたらしい。帰り際そのことを話すと、初老の男性から資料館ができる前に作られた「関係史跡案内図」の紙を貰う。このB4版プリントが一番気合入って作られており、パンフレットなどより遥かに充実している。図録などが欲しかったのだが、ミュージアムショップが無いような雰囲気だったのでスルーしてしまった。受付の初老男性に聞けばよかったかもしれない。しまった。
義勇軍訓練所正面跡地

  • 1938年3月1日に開所した訓練所の跡地。1975年に建立された内原訓練所之碑と1985年に完成した旧日輪兵舎記念館がある。義勇軍資料館ができるまではこちらの旧日輪兵舎記念館で義勇軍ゆかりの品々の展示が行われていたとのこと。現在は入れない。
渡満道路と桜並木

 


  • 訓練所正門から内原駅までの1.5キロ(解説文だと1.7キロ)で義勇軍が改修した。桜は山形出身の第1次義勇軍が100本を植えたとのこと。

渡満道路と桜並木
 昭和13年(1938)早春、ここ内原に満蒙開拓青少年義勇軍(略称=義勇軍)の訓練所が建設されました。
 当時この一帯は松林で覆われていて道は狭く、訓練所入り口近くには道も無く、入所した義勇軍訓練生が訓練所から内原駅迄の一・七キロメートルを整備し、記念に桜の苗木を植えました。
 桜花は日本人の心の花、義勇軍の門章や帽章も桜の花を象ったものでした。今でもここに残る桜は、この時に植えたもので、訓練所は無くなっても巡り来る春ごとに美しい花を咲かせています。
 内原で二・三ヶ月の訓練を終えた義勇軍の人達は、訓練所で盛大に行われた渡満壮行式のあと、真新しい服にリュックを背負って鍬の柄を携え、列を正してラッパ鼓隊の先導でこの道を通り、大陸に夢を馳せながら内原駅に向かいました。昭和十三年から二十年(1945)までに、この道を通って満州に渡った訓練生は八万六千五百三十人を数えました。
 このことから訓練所から内原駅までの道路を「渡満道路」と呼ぶようになったのでした。当時の訓練生は、今でも寄宿した日輪兵舎とこの桜並木を忘れたことはありません。
 渡満道路は、植栽後七十有余年が過ぎ、当時を語るものとしては唯一残されている桜並木であり、義勇軍の歴史また桜の名所として保存されています。
水戸市教育委員会

内原駅


  • ホーム南側の自転車置き場が渡満乗車場所だったとのこと。