雑録

高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」(『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、2002年、pp.215-253)

  • メモ
    • 日本帝国の植民地観光史を通して、観光そのものが権力関係の強化と権力構造の再生産を行う装置であることを指摘している。

はじめに

  • 本稿の趣旨
    • 「…1930年代から「満洲」(現中国東北部、以下括弧省略)の六大都市で開花した日本語の観光バスを題材に、内地客/在満邦人/ネイティヴ三者が交錯する「接触領域」に注目し、政治的・社会的ヘゲモニーとの重層的なかかわりあいのなかで、「楽土」的都市空間がいかに織りなされ、そこでいかなる帝国のファンタジーが繰り広げられていたかを考察」する。

一「観光楽土」の満洲

  • 満洲観光のはじまり
    • 1905年、日露戦争の戦勝によって、日本は中国遼東半島の南端「関東州」の租借権と、東清鉄道のうち長春・旅順間などの諸権益をロシアから譲り受け、主要駅の周囲の市街地及び鉄道路線の両側幅62メートルの帯状の「付属地」に対する行政権と警護権とを獲得し、実質上、植民地経営に着手した。これを機に、これらの地域への日本人の自由航路が開始された。戦勝の翌年の夏、国策会社・南満州鉄道株式会社(満鉄)の成立に先んじて、東京大阪両朝日新聞主催の「ろせった丸満韓巡游船」(379名)や、文部省と陸軍省の奨励による全国中学校合同満洲旅行(3694名)が実施され、満洲への団体旅行の先駆けとなった。(p.220)
  • 満洲旅行の本格的なブーム
    • 1924年日本旅行文化協会の機関誌『旅』は、第9号(同年12月)において早くも「満鮮号」なる特集を組み、同年、満洲を訪れた視察団は一万人を超えたと報じた。満鉄に勤めた経験のある高橋武雄が、1927年に出版した著書のなかで、満洲旅行ブームの隆盛ぶりを次のように描いている。「23年来の満洲観光や視察が春から秋にかけて殆ど応接に遑なき有様となった。大官あり、実業家あり、学生あり、種々雑多である。在満者がその送迎に破産の状態であるとは決して過言の愚痴ではない」(p.220)
  • 満洲国の建国と観光ルートの拡大
    • 満洲事変の翌年(1932年)、「王道楽土」「五族協和」を掲げる傀儡国家「満洲国」が作りあげられた。それを機に、日本人の満洲観光を取り巻く環境は大きく変化し、「観光楽土」としての満洲がより切実に感じられるようになった。満州事変まで、日本人の旅券不用の旅行範囲は、帝国勢力範囲内の関東州と満鉄沿線を中心とする南満洲に集中し、東清(中東)鉄道によってハルピンを最遠としていたが、満洲国時代に入ってから、その観光ルートの半径は徐々に広大な満洲全域に拡がっていった。満洲経路も、これまでの関釜連絡船による朝鮮経由のものと、大阪商船による大阪・神戸からの大連航路に加えて、1933年と35年に、北陸の敦賀、新潟から日本海を横断する「日満連絡最捷路」が開通した。また1934年ころ、68.5時間で連結されていた東京・新京間は、4年間で、陸海路で最短55時間、航空路で約10時間に短縮された。(pp.220-221)
  • 観光斡旋機関の躍進
    • 内地人の満洲旅行誘致で中心的な役割を果たしているのは、満鉄である。満鉄は、朝鮮総督府鉄道局と提携して、1918年から満洲旅行を専門的に扱う無料相談機関である満鉄「鮮満案内所」を内地に設立し、満州事変前までは東京、大阪、下関の三カ所しかなかったのを、1939年までに九都市10ヵ所に拡大した。大正元(1912)年3月、鉄道院に創設された半官半民の斡旋機関・ジャパン・ツーリスト・ビューロー(以下、ビューロー)も、大正14(1925)年の三越への進出を皮切りに、昭和に入ってからデパートへの出店を増加し、「デパートのあるところ、必ずビューローの案内所」ありといわれるほど親しまれるようになった。ビューローの案内所では、国内旅行はもちろん「鮮・満・台への連絡切符」の手配サービスも行っている。デパートは、旅行ひいては満洲への旅行まで、百貨のなかに品揃えするようになったのである。(p.221)
  • 満洲への大衆的欲望の誘発
    • 満洲事変後、戦争美談の人気に伴うラジオ加入数の激増や、「満蒙国運進展記念」協賛広告の出現、満洲関係の博覧会、展覧会ブームなど、一種の「満洲特需」現象が起こっている。日本中の関心と視線が「満洲」に集中されているなか、従来にも増す修学旅行団に加え、新聞社や、鉄道省各地方都市運輸事務所、ビューロー、日本旅行会などの諸団体も、こぞって「新満洲国視察団」の一般募集に乗り出した。一例を挙げると、満洲国建国宣言が発表された1932年3月、夕刊大阪新聞が「満蒙大博覧会」を主催するかたわら、「景気は満蒙から 大満洲国視察」と題するポスターを出し、満鉄や、朝鮮総督府鉄道局及び鉄道省大阪運輸事務所の後援のもとに、特別臨時列車を仕立てて大規模な「満蒙視察団」を募集した。このように、新聞社、博覧会、鉄道省などさまざまな文化装置のコラボレーションは、満洲への旅立ちを駆り立て、満洲という「野外劇場」への夢を膨らませているのである。(p.222)
  • 満洲旅行者の増加と戦時のための制限
    • 1934年11月、満洲観光の新しい目玉である超特急列車「あじあ号」(大連・新京間)の運転が開始され、翌年三月、ソ連経営の北満鉄道(満洲里・綏芬河、ハルピン・新京間)の譲渡が達成されたのを契機に、「あじあ」号はさらにハルピンまで延長され、満洲旅行に一層拍車をかけた。1935、36年、団体客は二万人に上り、満洲事変(1931年)とその翌年に倍する勢いとなった。37年7月に勃発した盧溝橋事件に影響されてはいるものの、団体旅行は好調を続け、38年から40年までは、年間およそ1万6000人台の団体客が満洲に繰り出していった…・個人客も、満鉄の鮮満案内所や、駅やデパートなどに設けられたビューローの窓口で旅行プランを相談でき、日満往復券、日満周遊券、日鮮満周遊券、東亜遊覧券など種々様々な割引切符を入手できた。なかでも内地・満洲と中国大陸に跨る周遊ルートを自由に決められる最も便利な切符といわれた東亜遊覧券は、1940年度の売上額が154万5000円近くに達し、発売開始初年度の1931年(半年間)の売上額を127倍も上回った。しかし、1940年を境に、来満団体客の主力軍である修学旅行が制限され、43年ころになると、「戦力増強に直接関係のある旅客輸送を円滑化」するために、それ以外の一般客の渡航が制限されるに至った。(p.223-224)

二 「楽土」での邂逅

  • 満洲の一般概念が得られる旅程」
    • 1935年3月に行われた「日満中継放送」で、満鉄旅客課の加藤郁哉が、内地人に満洲への旅行を強く勧め、「満洲の一般概念」が得られる旅程を次のように紹介している。「下関を出発地点と致しまして朝鮮の釜山、京城平壌を見、満洲に入りまして先づ清朝の古い歴史を持ち現に満洲商工業の中心地であり、満洲事変の発生地でもある奉天、次に炭の都として、露天掘で有名な撫順、次に国都として満洲国の溌剌たる心臓新京を見て哈爾濱に到着致します、北鉄接収後の同胞第一線の活動状況を具に視察致しまして、夜は皆様ご存じの異国的情緒にもふれて一路南下します。それから聖地旅順に詣でて日露熱血の戦場に先輩の霊を弔ひ、非常時日本に処する国民としての覚悟を一層強固にする、……斯くて満洲国の表玄関でありまする大連に満洲経済のバロメーターとして、今日の大をなした埠頭を視察、愈々満洲とも別れまして、大阪商船の定期船で下関に帰着するのであります。」このコースに組み込まれた六つの都市は、満洲国建国後日本語観光バスが相次いで登場した都市である。(pp.225-226)
  • 満洲における観光バスの登場
    • 満洲の観光バスは、1930年代に集中的に登場し、その出現と増殖自体が、満洲における軍事力を背景とする日本勢力の浸透に伴うもので、満洲都市の表象権は容赦なく帝国の出先機関に握られていたことを如実に物語っている。(p.226)
  • 観光バスと、都市の支配にとって都合のいい巡礼ルート
    • 観光バスのコースは、また、都市の政治的・社会的力学を歴然と現すメディアである。「〇〇遊覧バス遊覧経略図」や「〇〇遊覧バス案内図」のような観光バス専用地図まで登場したように、観光バスのコースは、考案者による都市の意志を具現するものである。ただでさえ複数の力がせめぎあう地図から、「下車遊覧すべきところ」「車窓から眺めるがよいところ」「観なくていいところ」などと選り分け、都市の支配者にとっての「望ましい」、「意味ある」巡礼ルートを浮かびあがらせる。(pp.227-230)
  • 満洲の観光バス経営
    • 満洲の観光バスの経営には満鉄が深く関与している。1926年満鉄は付帯事業として南満洲電機株式会社を創始したが、満洲国建国後、所有の電気供給事業を満洲電機株式会社に譲渡し、残りの交通事業に関しては、1936年に大連都市交通株式会社と改名した。同社は、関東州内の旅順、大連観光バスを直接経営するだけでなく、新京や奉天の交通会社にも投資し、哈爾浜のバス、電車事業をも傘下に収め、これら傍系会社の指導的、統制的な存在であった。(p.230)
1 第一幕・帝国の聖地
  • 戦跡の「聖地化」
    • 満洲国建国後最も早く「観光バス化」されたのが旅順と奉天という日露戦争満洲事変に因む「戦跡都市」であることは、けっして偶然ではない。二代にわたる日本人の血潮で購った「戦跡としての満洲」は、満洲想像の原点を成しているだけでなく、帝国本土が持ちえない生々しい「聖地」的空間を提供してくれているのである。
    • 戦跡で最も有名な都市は、日本が諸帝国に仲間入りする契機となった二つの重要な戦争、日清・日露両戦役の激戦地、旅順である。満洲事変まで、旅順市には関東州内に建てられた戦跡記念碑32ヵ所のうちの27ヵ所が集中し、1929年11月からの1年間で参拝客はすでに5万人に上った。……満洲事変後、奉天長春(のち新京に改名)などで新たに数多くの戦跡が産み出されたが、それは「霊地旅順」の後景化をもたらすどころか、かえって満洲獲得の起源となる日露戦争の記憶を作為的に蘇らせ、旅順の「聖地化」に一層拍車をかけた。「概言すれば旅順の聖地たる、真に満洲に於ける我生命線の発芽であり、新満洲国の萌芽であり、日満両国をして融合飽和せしめた契機である」と、建国の翌年、旅順市役所から発行されたリーフレット『聖地旅順』にあるように、旅順は伊勢神宮と同じく「聖地」に祭り上げられるようになった。
    • …戦跡記念地は、内地客に「国威の伸張」と「皇恩の無辺」を感激させ、「戦死者の同胞」としての一体感を共有させ、内外邦人の国民的結合と日本人の覚悟を一層強固にする「聖地」として「舞台化」されるようになった…(pp.230-233)
2 第二幕・帝国の展望台
  • 近代産業への展望的まなざし
    • 満洲の近代文明を誇示し、内地客に自らの存在証明を認めてもらいたい…満洲旅行最大の見どころとして、在満邦人におる満洲開発の壮観を挙げ…観光バスのコースにきちんと用意されている。…長春は、国都と定められてから、近代的な都市建設が急ピッチで進められ、「日に新しく日に進む颯爽たる姿」が「新興満洲」の象徴として宣伝されるようになった。1937年ころの「国都観光バス」ツアーの締め括りには、「国都建設局」の屋上で都市計画の概要の説明が行われ、観光客の視野を全開させるところで、満洲の心臓都市の未来図を強く実感させることになっている。新京の「国都建設局」と同様、旅順の「白玉山」、大連の「山の茶屋」(展望台)、撫順の「露天掘」(露天炭田)のようなパノラミックな景色が展開される場所は、ガイドの力の入れどころであり、在満邦人の功績を誇示するのに最適のステージである。たとえば、大連の「山の茶屋」で全市を俯瞰しながら、バスガイドは、阿片戦争当時の英軍上陸から始まり、日清戦争、三国干渉、日露戦争など、今日の大連を形成した一通り説明したのち、真下の忠霊塔をはじめ、ヤマトホテルや三越など脚下の近代建築を一々指摘してくれる…(p.234)
  • 博物館という視覚装置
    • …「客体」を分類・序列化する視覚装置も観光バスのコースに取り入れられている。旅順攻囲戦当時の状況を一覧できる「戦利品陳列館」(旅順)、満洲などの考古的資料を展示する「博物館」(旅順)、満洲資源のアウトラインを示す満鉄経営の「満洲資源館」(大連)、満洲国の国宝3500点を収蔵する「国立博物館」(奉天)と、征服、発掘、開発、保存される欲望対象としての満洲の「全貌」が、絵巻物のように繰り広げられてゆく。(pp.234-235)
  • 大連埠頭と碧山荘
    • 近代産業への展望的まなざしと、「客体」を分類・序列化する博物館的なまなざしが、大連「埠頭」(満鉄経営の港湾)と「碧山荘」(苦力収容所)の見学に直結している。満洲の玄関口である大連埠頭は、その見どころとして、「機械化せずに苦力多数使用してゐる点に特色がある」と、観光バス会社のパンフレットに紹介されている……在満邦人ご自慢の機械文明の産物である埠頭への眺望は、必然的にそこで働く中国人苦力の生活風景と遭遇する。帝国と植民地という不均衡な権力構造下に生まれた特異な景観は、容赦なく観光客の目に突きつけられてしまう。「近代」と「前近代」を同時に目にする観光客の居心地の悪さを、満鉄は規律・訓練の労働統制機関としての碧山荘を「観光化」し、消毒・消臭ずみの苦力や、「一見粗野の観があるが、極めて温順」な苦力、そして「安楽郷」を得た幸せそうな苦力を展示することによって、きれいに払拭してくれた。言い換えれば、苦力は、在満邦人による監視のまなざしと、内地客による観光のまなざしという二重の「権力の凝視」が折り重なるなかで、近代産業を支える労働資源として動員されているのみならず、鑑賞に耐える観光資源としても欲望されているのである。(pp.235-237)
3 第三幕・帝国の盛り場
  • 内地観光客が期待する「満洲情緒」について
    • …在満邦人の急増に伴う満洲都市の「内地化」は、内地から来た観光客には逆に「内地色の反乱」と映り、期待していた「満洲情緒」を充分味わえない不満を残してしまう、という皮肉な現象を起こしている。
    • そもそも内地客が想像している「満洲情緒」も、「代理ホスト」から提供された旅行メディアに頼ることが多い。「満洲情緒」豊かな名所として最も知られているのは、「満支人の社会相の縮図」といわれる「満人街」西崗子にある「露天市場」である…ここで、異郷・異民族・異界という三つの「異」が重なるトポス・露天市場は、単なる生活風習の違いなど日満人の空間的な距離を示しているのみならず、線形化された時間的な開き−日本人社会の<近代=未来>に対置する<原始=過去>的な「満人」社会−を呈する恰好な空間となったである。
    • 植民都市のネイティブの盛り場は、明るい展望に適する在満邦人の業績である近代的な景観とは逆に、エキゾチックな暗さのあふれる満洲都市の裏面を「覗き見」するのに絶好の場所である。このような「観光」と「景観」のコントラストのなかで、「代理ホスト」は単に内地客の好奇心や「窃視欲」に媚びるためのみならず、旧態依然の「彼等」(満人)とは別世界にいる在満邦人の優越感と存在感を、さりげなく内地客に誇示しているのである。(pp.238-240)
  • 内地観光客に対して在満邦人が何を代理呈示するか
    • 「代理ホスト」がゲストに向かってネイティブの何を、いかに「代理呈示」するかは、けっして一枚岩のものではなく、常に在満邦人という帝国の周縁者が置かれる両義的な立場から、内地客のまなざしを意識しながらネイティブを選択的に代理表象しているのである。
    • 大連の他に、奉天(城内)やハルピン(傳家甸)でも、「一日の行楽の一つ」として、「満洲情緒溢れる空間」を巡ることになっている。一方、国都新京だけは長い間、「満人街」の「大馬路」を観光バスのコースに組み入れることに躊躇を示していた。帝国のユートピアを視覚化しようとする未来都市・新京では、「満人」の<異界=過去>的な空間は「楽土」と逆転的な存在と見なされていたのだろう(pp.240-241)
4 第四幕・帝国の歓楽郷
  • ハルピンの観光バス 白系ロシア娘バスガイド
    • 六大都市のなかで、最も異彩を放っていたのはハルピンの観光バスである…日本人のバスガイドだけでなく白系ロシア娘までが乗務し、交替で説明するのだ。
    • ハルピンは、19世紀末に帝政ロシアが都市計画に着手し、東清鉄道の付属地として栄えた国際都市で、1938年末には白系ロシア人(ロシア革命で国を追われた無国籍ロシア人)が4万3000人、ソ連籍4500人など合わせて約5万人のロシア人が暮らしていた。
    • 哈爾濱交通株式会社は1939年ころから、日本語の達者なロシア娘を日本人観光用のガイドに養成し、「露人墓地」のような観光地で自らの風習を語らせ、日本人観光客に「ハルピン情緒」を大いに味わせようとしている……白系ロシア娘が……自ら薄幸な「亡国の民」としての自分を演じ、やっと手に入れた「楽土」での安住ぶりをアピールするように演出されているのだ。(pp.241-242)
  • 夜のハルピン ロシア人女性に対する一種の複合的な欲望
    • 白系ロシア人バスガイドに代表されるハルピンの昼の顔とは逆転的な存在に、「奔放なエロティシズム」を放つロシア人ダンサーが彩る夜のハルピンがある。ロシア人女性が一種の複合的な欲望の対象として浮上してきたのは、満洲旅行ブームが始まる前夜の1923年頃のことであった。満鉄の姉妹機関である満蒙文化協会の招きで渡満した作家奥野他見男は、ハルピンまで足を伸ばし、キャバレーでのロシア娘の裸踊りを観賞した。その様子が詳細に描かれた彼の著書『ハルピン夜話』は、1923年1月に発売されてからわずか4ヶ月で130版を重ね、また1929年と39年にそれぞれ異なる出版社から再版されている。裸踊りのバイブルともいわれるこの本には、ロシア人女性のセクシュアリティへの日本男性の欲望が、ロシア/日本の転倒する国力と、日本人男性/白人女性の転倒する人種の性的消費構造が絡み合うものとして、現れている。(p.242)
  • 欲望消費される歓楽資源としてのロシア人女性
    • ベストセラー『ハルピン夜話』を火付け役に、満洲旅行ブームにも乗じて、ハルピンは、内地客に手の届くエキゾチシズムとエロチシズムを提供してくれる国際的歓楽都市として、広く知られるようになった。……1935年、北満鉄道の接収を契機に、建国以来満ソ両国の共同管理下に置かれていたハルピンの実権が満洲国に移り、在哈邦人は完全にこの都市の「代理ホスト」となった。従来のロシア色と急増する内地色のせめぎ合いのなか、「代理ホスト」は『ハルピン夜話』時代からの歓楽資源をすぐには一掃せずに、むしろそれを管理しながら、夜の「ロシア情緒」を巧みに演出する戦略を取っている……1939年3月、ハルピン市の観光事業を統括する哈爾濱観光協会(1937年3月設立)は、これまでの「露西亜寺院のみの仄かな異国情緒」に「夜の盛り場」と松花江の遊覧とを加える新しい観光誘致プランを発表した。「華やかなキタイスカヤ街の夜景を始め、キャバレーや地下室の絢爛たる舞踏場の雰囲気を紹介し、旅の徒然を慰め今までホテルのポーターに依つて夜の案内を任せて、費用のかゝる哈爾濱の遊びに、協会の斡旋でキャバレー、妓館等も安心して遊べる様便宜を図る筈である」。このような方針のもとで、二カ月後に発行された当協会編纂の『哈爾濱ノ観光』というパンフレットは、「享楽方面」を積極的にアピールする姿勢で、「キャバレー」の項目を設け、「ロシヤ美人の酌む甘酒に酔ひ、美人と踊り、合ひ間のステージの催し物を眺め、国際都市の絢爛豪華の夜を更すのはまた甚だ味なものであります。/経費は色々ですが先づ二人位ひで七、八円辺りから四、五十円、百円と段階があります」と、値段まで明記している。
    • …「外人征服」の暗喩としてのロシア人女性のセクシュアリティへの屈折した欲望が秘められている。昼の観光バスに花を添えるロシア娘ガイド、夜のキャバレーを彩るロシア人「踊り子」。ハルピンという「外人征服精神を鍛錬する唯一の道場」において、ロシア人女性の身体は、在満邦人と内地客の共謀するまなざしのもとで、「亡国の女」、「楽土」の安住者、異国情緒の体現者、歓楽郷の愛玩物など、豊穣なナショナル幻想を投射するオブジェとして、かつ「外人征服」の快感を達成させてくれる「肉体の勲章」として欲望消費されているのである。(pp.242-244)

三 ネイティブ向けの観光宣伝

  • ネイティブを観光欲を持つ主体へ作り変える
    • …ツーリズムの現場では、「満人」をはじめとする満洲のネイティブは、あくまでも内地客の「被写体」や、在満邦人に「代理呈示」される舞台装置としてしか取り扱われてこなかった。一方、六大都市の観光バスのなかで、新京だけは1939年頃から、「満人」のバスガイドを採用し、「満人」向けの「満語」(中国語)コースを併せて運営したことがある。……中国語観光バスは、これまで単なるまなざしとされる客体としか期待されてこなかった「満人」に、観光のまなざしを植えつけ、彼らを飼い馴らされた「観光欲」を持つ主体として作り変えようとしている…「満支人」向けの観光宣伝…の必要性が浮上してきたのは、日中戦争勃発後、満洲と地続きの中国向けの宣撫宣伝が重要性を増していることを背景としている。
    • 1940年11月9日、ビューロー満洲支部の情報誌『旅行情報』(1927年8月創刊)は、通巻第411号から「日本国情の紹介、国威の宣揚、交通関係事情の報導、ビューロー業務の宣伝」を内容とする中国語版を並行して発行しはじめた。また、満洲映画協会(1937年設立)は、1941年に、中国語の「啓民映画」『観光満洲』(二巻、辻野力弥編集)、翌年に『楽土満洲』(二巻、辻野力弥監督、玉置信行撮影)を次々と製作公開し、ネイティブを観光動員のエネルギーへと召喚するようになった。(pp.244-246)

四 「野外劇場」の拡大

  • 権力関係の強化 権力構造の再生産
    • …ツーリズムにおけるゲスト/ホストの構図を、演劇論の観客/呈示者の関係に置き換え、さらに帝国と植民地という非対称的な権力関係を背景に「代理ホスト」/「代理呈示」のファクターを導入し、観光バスが巡る満洲諸都市で上演された「劇場帝国」の入り組んだドラマトゥルギーを、「聖地」「展望台」「盛り場」「歓楽郷」という四幕ものの舞台として解析してみた。内地客のまなざしの介入によって、在満邦人は「代理ホスト」と化し、満洲を表現し、「翻訳」し、パフォーマティブに振る舞ってしまう。またこのような振る舞いのなかで、内地客/在満邦人/ネイティブの間の不均衡な権力関係が強化されたり、ゲストと代理ホストが共謀するまなざしのもとで、ネイティブが代理呈示される暴力的な権力構造が再生産されたりする。(p.247)
  • 観光自身が発動する「劇場的権力」
    • 「観光楽土」としての満洲は、内地客が観客、在満邦人が俳優、ネイティブが舞台道具である巨大な「野外劇場」である。この「劇場」で上演されているのは、単に「王道楽土」の宣伝ではなく、帝国対満洲という単純な権力図式の反映でもない。それはゲスト/代理ホスト/ネイティブが織り成すシナリオのなかで、「観る/観せる/観せられる」という重層的な政治的・社会的関係性を演出する、観光自身が発動する「劇場的権力」そのものである。
    • 本稿は、単なる日本の植民地観光史ではなく、観光の持つモダニティの暴力性を抉り出し、文化と帝国主義の絡み合いを読み解き、さらに「舞台転換」されてはいるものの、今日にも続くポストコロニアルな時空間を解体する手がかりを見出す試みなのである。(pp.247-248)