【用語メモ】満洲 観光・博物館・紀行文関係/二〇世紀満洲歴史事典(吉川弘文館、2012年)より

帝国とプロパガンダについての研究。
大衆を啓蒙し、対外認識を形成させる装置として、観光・博覧会・紀行文などを扱う。
ここでは、日本帝国が満洲に対して帝国臣民にどのような満洲像を形成させようとしたかを見るために、基本的な用語を押さえていく。

そんなノリ。
と、いうわけで片っ端からメモして整理

用語メモ 『二〇世紀満洲歴史事典』(吉川弘文館、2012年)より

観光斡旋事業

ジャパン・ツーリスト・ビューロー (貴志俊彦) pp.307-308
  • 発足期
    • 1912年3月に発足した旅行案内業者。同年11月、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(以下JTB)は、大連支部を設置したが、これが満洲で最初に設置された日本の観光事業機関だった。JTBは、渋沢栄一らが日本初の外国人旅客誘致斡旋機関として設立した喜賓会の事業を引き継ぐ組織であった。発起人として名を連ねたのは、日本の鉄道院、朝鮮総督府台湾総督府大阪市、満鉄、日本郵船、大阪商船、東洋汽船、帝国ホテル、三越呉服店の関係者で、鉄道員副総裁の平井清二郎が会長に就任した。13年、JTBは日本内地だけでなく、満洲、朝鮮、台湾などへの旅行情報を発信するために月刊雑誌『ツーリスト』を創刊。翌14年には、大連ヤマトホテル、旅順駅、奉天ヤマトホテル、長春ヤマトホテルに嘱託案内所を設置し、在満日本人だけでなく、満洲を訪れた外国人にも旅行斡旋を始めた。
  • 拡大期(満洲事変後)
    • 満洲事変後、満洲や朝鮮を訪れる旅行者は増加。また36年に満洲国の「観光国策」が公表されると、さらに急増した。これら旅行者のため、JTBは、満鉄沿線に案内所を増やしていき、30年代には大連に七店、奉天に二店、新京に四店、ハルビンに三店、そのほか鞍山、吉林通化、営口、撫順、安東、牡丹口、ジャムス、チチハル満洲里、錦県、承徳に各一店が設置された。また、日本国内では、東京、大阪、門司にあった満鉄の鮮満案内所のなかにもJTBの案内所を設置し、日本を訪れた欧米の外国人旅客に、満洲などへの旅の手配をした。
  • 規制と統制
    • ところが、36年に広田弘毅内閣が「満洲産業開発五ヵ年計画」や「二〇ヵ年一〇〇万戸移住計画」を策定し、39年に日本内地から建設勤労奉仕隊の派遣が決定されると、輸送交通の面から、それまで比較的自由に行われていた満洲視察も制限された。この規制のために、39年8月から満洲観光協会が旅行の斡旋を一元的に取り扱うことになり、旅行も統制の対象になった。40年、日本の紀元2600年の記念式典に参加するため、満洲国から日本へ向かう修学旅行団体がつぎつぎに組織され、JTBはこれを一手に引き受けた。
    • しかし、経営が滞るなか、41年5月には社団法人化されて東亜旅行社に改組された。さらに、年末に勃発した太平洋戦争によって外国からの旅客が途絶え、翌年には「大東亜共栄圏」内における国策的な運搬業務にかかわることになったため、民間企業体としてはやっていけず、鉄道省の傘下で財団法人に改組された。さらに財団法人国際観光協会の事業も継承して43年には東亜交通公社に組織変更された。
  • 戦後
  • 参考文献
「鮮満案内所」(天野博之) p.328
  • 鮮満案内所時代
    • 1923年4月、満鉄東京社内に置かれた旅行案内所。大阪と関釜連絡船発着港の下関に駐在員を置いた。朝鮮・満洲の紹介と宣伝、案内を業務とし、鮮満旅行も主催した。東京駅前の丸ビル一階の案内所は、朝鮮・満洲への旅行客で賑わった。25年10月には大阪・下関を鮮満案内所に昇格させ、36年から国鉄鉄道局の所在地の門司に鮮満案内所を移し、下関は派出所とした。
  • 華北制圧と鮮満支案内所
    • 日中戦争が本格化し華北の大部分を日本軍が制圧した39年4月、名称を鮮満支案内所と変えて、華北を中心とした中国に業務を広げた。求められる役割も広がり、「鮮満支に関する総体的客貨輸送案内」が第一となり、従来の観光案内的要素が後退した。同じ月に北京で華北交通株式会社が発足した。日本海海運の充実も重視し、新潟・小樽に案内所を新設、名古屋・下関に出張所、敦賀・長崎に駐在員を置いた。太平洋戦争の戦局悪化とともに43年度には各地の事務所にその役割を譲った。
  • 参考文献
    • 満洲鉄道株式会社編『南満洲鉄道株式会社第二次十年史』(1928年)
    • 同編『南満洲鉄道株式会社第三次十年史』(1938年)
    • 同編『規定類集』第一編通規・第一類庶務(1944年)
    • 貴志俊彦満洲国のビジュアル・メディア―ポスター・絵はがき・切手』(吉川弘文館、2010年)
満洲事情案内所」(貴志俊彦)pp.464-465
  • 概要
    • 1934年1月、満洲を訪れる行政視察団などを案内するために発足した機関。
  • 前身
    • その前身は、33年1月に関東軍特務部の特殊指令に基づいて設立された満州経済事情案内所である。同所は、関東軍満洲国政府、駐満日本大使館、満鉄が支援し、新京記念館内に設置された。その機能は、満洲開発に携わる商工会議所に似た役割が中心だったが、そのほか図書館や観光案内所などの業務も担った。
  • 発足
    • 35年1月には、関東庁、駐満海軍部などの後援が加わり、経済問題以外の業務も掌ることになったため、満洲事情案内所と改称した。そして、同年三月には新設の満洲視察斡旋委員会の実務も兼務し、使節団斡旋事務も始めた。一般的な遊覧を主とする旅行者はジャパン・ツーリスト・ビューロー観光協会に、業務上の調査などを主とする者は商工会議所に担当させたが、行政視察などは満洲事情案内所がみずから担当した。同所の記録によれば、34年に斡旋した視察は75団体、総人員3100名、翌35年には少し減って48団体、1472名に達した。こうして事業部門が拡大されたため、事務所は8月に新京中央通6番地に移転した。
  • 資料収集・出版
    • 35年には、資料や図書の収集および整理を重点化し、同年中に7000点に及ぶ資料類が集められた。また、満洲やモンゴルに関係する『満洲事情案内所報告』などの刊行も精力的に進め、35年には14種、36年には16種を出版した。このほか、アルセーニフ(長谷川四郎長谷川濬訳)の『デルウス・ウザーラ』などの文学作品も刊行した。さらに、利用者への情報提供を簡易にするために、資料索引カードの作成にも力を注ぎ、35年には625件、36年には3902件のカードが作成されたことが報告されている。
  • 吸収と独立
    • 36年6月、満洲事情案内所は、新聞社や通信社の整理統合のために設立された特殊会社満洲弘報協会に吸収されたが、日中戦争勃発の翌38年1月には満洲帝国政府特設の外郭機関として再び独立し、終戦まで活動を続けた。
  • 参考文献
満洲観光連盟」(鄭址鎬)p.439
  • 発足
    • 1937年に3月31日、観光委員会の指導のもとに発足した満洲国の観光事業組織。とくに対外宣伝を指導統一して、国策の遂行に万全を期すために設立された。初代理事長として満鉄鉄道総局旅客課長であった宇佐美喬爾が就任。
  • 発足以前の観光事業
    • それまで満洲には大連、旅順、奉天、安東、新京、吉林、承徳の七ヵ所に観光協会があって、それぞれ観光事業に携わっていたが、これらを指導統制する機関が不在であった。また、観光に対する認識および資金の不足のため、観光事業はあまり振るわなかった。
  • 満洲国独自の国際観光事業
    • したがってこの連盟の設立によって、満洲国内の観光客の誘致のための宣伝をはじめ、これまで日本にあった満鉄の鮮満案内所を通じて行われてきた満洲における国際観光事業に、満洲国独自の立場から行えるようになった。連盟は収益のみを目的にするのではなく、国策的見地に基づく事業(たとえば、国際オリンピック、万国博覧会など)にも関与したので、各観光協会に対する統制的、指導的役割をいかんなく発揮した。
  • 参考文献
    • 宇佐美喬爾「満洲観光連盟と観光事業について」上下(『新京日日新聞』1937年3月31日・4月1日付)

観光資源

「温泉」(瀧下彩子) pp.46-47
  • 満洲における三大温泉
    • 満洲の温泉は、日清・日露戦争の際に日本軍の療養施設が置かれ、その後日本人が温泉旅館を経営するようになると、各種の旅行案内などで日本国内にも広く紹介された。なかでも、湯崗子、熊岳城、五龍背の三大温泉地が有名である。
  • 湯崗子温泉
    • 湯崗子温泉は鞍山の南に位置し、日露戦争以前はロシア陸軍が転地療養所としていた。1919年、火災により温泉施設が全焼したが、満鉄の援助によって湯崗子温泉株式会社が設立され、二つの日本人向け温泉旅館が建設された。22年には、中国人とロシア人向けの別館がそれぞれ増設されている。景勝地として知られる千山が近く、満洲では最も有名かつ整備の整った温泉であった。32年には、執政就任前の溥儀が一時滞在した。
  • 熊岳城温泉
    • 熊岳城温泉は、奉天と大連の中間に位置する。温泉は河床から湧出し、河原を掘って入浴する砂湯が名物である。19年以降は、満鉄が民間の温泉旅館に対し経営援助を行った。付近には満鉄の農事試験場があり、また夏季には小学生を対象とした温泉学校が設けられた。
  • 五龍背温泉
    • 五龍背温泉は、安東の北西、満鉄付属地外に位置する。このため、駅員とホテル従業員以外には日本人はほとんど居住していなかった。湯崗子や熊岳城とは異なる野趣横溢とした温泉風情が特徴であり、33年ごろには満鉄が直営ホテルを経営した。
  • 観光地開発
    • 20年代を通じて、満鉄は三大温泉を観光地として整備し、観光客の誘致に力を注いだ。30年には、日本温泉協会満洲支部が設立され、満鉄運輸部内のジャパン=ツーリスト==ビューローの大連支部に事務局が置かれた。また、満洲事変後は、興城、阿爾山、朱乙、九台など三大温泉以外の温泉地も開発され、直営の温泉ホテルが建設された。
  • 参考文献
    • 南満州鉄道旅行案内』(南満洲鉄道株式会社、1919年)
    • 『南満洲温泉案内』(満鉄鉄道旅客課、1936年)
「博物館」(大出尚子)pp.405-406
  • 満洲国立博物館 奉天 (歴史・考古学系博物館)
    • 歴史・考古学系博物館である満洲国立博物館は、奉天に設けられた最初の博物館で、1935年6月1日に開館した。開館時の館長は楊鐘羲。創設には、日満(満日)文化協会がかかわった。22の展示室には、清朝歴代皇帝の書、遼代の墓誌、羅振玉の寄贈による漢・六朝・唐・元代の明器・桶類、朱啓詹旧蔵の宗・元・明・清代の刻絲・刺繍、東亜考古学会による学術発掘品などが展示された。現在は遼寧省博物館。
  • 国立中央博物館新京本館(自然科学系博物館)
    • 満鉄教育研究所付属教育参考館の流れをくむ自然科学系博物館が新京に開設され、39年1月1日に国立中央博物館が官制施行されると、新京の博物館は「国立中央博物館新京本館」、奉天国立博物館は「国立中央博物館奉天分館」と改称された。新京本館は開館当初、庁舎を持たず、「博物館エキステンション」と称する教育普及活動を展開した。翌40年7月15日に開館した大経路展示場(いわゆる常設展示場)は、動物部・地理部・鉱物部・地質部・物理部の五部門構成であった。国立中央博物館は、館長不在の博物館で、副館長の藤山一雄が運営上の中心となった。開館当初から、藤山の構想による民俗展示場の建設が進められ、第一号館である漢族農家の家屋を完成させたが、45年8月9日のソ連軍の侵攻により大経路展示場は破壊され、民俗展示場も8月15日に予定していた開館を待たずして満洲国の崩壊とともに消滅した。
  • そのほかの満洲国の博物館
    • そのほか、満洲国建国後に作られた博物館には、金州郷士館、省立熱河宝物館、県立輯安博物館、撫順古物保存館、旗立林東史蹟保存館があった。
  • 博物館の機能 「満洲色」の創出と歴史的実態の付与
    • 満洲国において歴史博物館の建設が相ついだ背景には、満洲国内で展開された古蹟調査の成果がある。社会教育機関と位置づけられた博物館では、学術発掘品を展示することで「満洲色」を創出し、満洲国に歴史的実体を与えようとした。
  • 参考文献
    • 大出尚子「「満洲国」の博物館建設」(『史境』55、2007年)
    • 大出尚子「「満洲国」国立博物館の展示における「満洲色」の創出」(『内陸アジア史研究』25、2010年)
「博覧会」(平山勉) pp.174-176
  • 博覧会の目的
    • 博覧会は満洲の物産や資源などを展示する「博覧会」の装置として機能するだけでなく、ポスターなどのビジュアル・メディアと連動して、満洲の政治・経済・文化についてのポジティブなイメージを流通させることを期待されていた。
  • 日本内地における満洲展示
    • 日本内地の「満洲展示」は、満鉄・関東都督府の共同で満洲式楼閣に粉飾された満洲参考館が設けられた、1912年の拓殖博覧会にまでさかのぼることができる。満洲参考館には、日露戦争で陥落したロシア軍陣地の模型が飾られるなど、参観者の満洲での激戦の記憶を呼び起こそうとするものであった。15年の大典記念京都博覧会でも満鉄・関東都督府の共同で満洲館が設営され、大豆・高粱・撫順炭などが農産物・鉱山物の豊かさを表すように展示された。25年の大大阪記念博覧会では大陸館、28年の大礼記念京都大博覧会では満蒙参考館が設営されるなど、大都市での博覧会で「満洲展示」は満蒙の文化を広く知らしめた。
  • 満洲における博覧会の開催
    • 一方、満洲では06年に鉄嶺軍制署が商品陳列館や、16年に満鉄が設置した長春商品陳列所を通じて、満洲と日本の商品・製品などが展示された。最初の博覧会は25年に大連新市政を記念して実施された大連勧業博覧会である。上海抗日デモの拡大で中華民国だけでなく諸外国も不参加となり、満洲の展示品も小規模であったこの博覧会は、日本内地からの来訪者や在満日本人を見込んだ娯楽色の濃いものだった。33年に大連で開催された満洲大博覧会は、満洲建国祝賀記念として「日満両国の経済的提携」を謳い、ジャパン・ツーリスト・ビューローによる満洲旅行など観光産業の隆盛を背景に、銀行・企業・報道関係者、地方自治体の視察団、修学旅行の小中学生を集めた。また、土俗館の展示などで「満洲地方色」を盛り込み、度量衡に関する道具や神像・祭祀道具、出産・誕生といった通過儀礼の装束などを展示するだけでなく、少数民族の生活文化もこれに加えた。
  • 地方都市に広がる日本内地における満洲展示
    • 日本内地の「満洲展示」は地方都市にも広がった。36年の日満産業博覧会(富山)は、日本海時代の到来を期して日本海満洲との交通・産業・貿易の舞台として示すだけでなく、日満議定書の調印式を等身大の人形で再現するなど、政治的な意味合いも濃く出ていた。また、東京・京都・愛知などの特設館、朝鮮館、台湾館が並ぶ中で、満洲国・関東局・満鉄の協同設営の満洲館は「主役」として、満洲の産業と暮らしを網羅的に展示した。日満産業博覧会は宮崎でも開催され、同年には築港記念博覧会(福岡)、躍進日本大博覧会(岐阜)、四日市大博覧会(三重)で、37年には名古屋汎太平洋平和博覧会(愛知)、南国土佐博覧会(高地)、別府国際温泉博覧会(大分)で満洲館などが設置され、満洲の産物、天然資源の豊富さを引き立てる展示が展開された。
  • 海外に進出した満洲展示
    • 満洲展示」は、海外にも展開している。33年のシカゴ万国博覧会に、満洲国・関東軍満洲館の設置を試みるが、外務省からの横槍で日本館付属満鉄館となった。内容的には、日本=茶、生糸、真珠という展示に対して、満洲=広大な満洲の大地(夕方に馬車で畑から帰る光景)、満洲情緒(色彩豊か衣装をまとった女性)、豊かな文化の香り(チベット仏教清朝の王宮遺跡)といった日本との文化的差異を強調するものだった。
  • 参考文献 

物語と観光

「日本人文学」(大久保明男)pp.393-394
  • 概要
    • 満洲をめぐる日本人の文学作品は、いわゆる職業作家のほか、この地域にかかわった探検家、記者、旅行者、開拓者、居住者、引揚者らによっても書かれ、その数は少なくない。満州における日本勢力の盛衰消尽に伴い、それらを夢、ロマン、アバンギャルド、エキゾチック、プロパガンダ、センチメンタル、ノスタルジー、辛酸、哀愁、自省などのキーワードで読み解くことも可能であろう。
  • 日露戦争
    • 日露戦争後、日本が「満蒙特殊権益」を手に入れてから、満洲は日本の生命線、実験場、冒険家の楽園などといわれるようになり、日本人の夢や野心をかき立てる、魔力に満ちた磁場となった。文学もそのようなイメージを作り出す重要な一翼を担った。夏目漱石の『満韓ところどころ』(1909年)をはじめ、多くの文人墨客が帝国日本のあらたな外地を訪れては、その見聞や体験を旅行記、視察記にしたため、あるいはフィクションにして内地の読者に供した。こうして、馬賊、アヘン、赤い夕陽、大陸浪人などの妖しくも、魅力的なアイテムに充ちた「満洲もの」が氾濫した。
  • 満洲国の成立
    • 1932年に満洲国が成立すると、「王道楽土」の理想郷を描く文学が生まれ、また満洲開拓の国策が打ち出されれば開拓文学なる作品が流行した。時代のイデオロギーや社会風潮、商業主義に染められたこれらの作品は、そこから派生した映画、演劇、流行歌などとともに、満洲をめぐる日本の輿論形成や日本人の満洲観に左右して、そのサイクルのなかで拡大再生産されつづけた。
  • 在満日本人の文学
    • 一方、満洲に定着した日本人の増加に伴い、在満日本人の文学も次第に醸成された。大連など植民地都市の風景を切り取るモダニズム詩、満洲は故郷なのか異郷なのかを問い、アイデンティティの揺らぎを吐露する小説、あるいは、異民族との共存に夢を託すロマンチシズム風の作品があれば、対極にその破綻を冷めた目で凝視するリアリズム文学が存在するなど、テーマやスタイルは多様であった。しかし、内地と同様、帝国の膨張理論に寄り添う作品がやがて主流を占め、戦争の激化に従い「文学報国」が至上命題となっていく。いわゆる建国文学、増産文学などのように、国策追随のプロパガンダや独りよがりのモノローグが満洲国の文学に溢れただけでなく、それが中国人作家にも波及した。
  • 戦後文学
    • ところが、満洲国が崩壊して、その地にいた155万を超える日本人が帰還したり追放されるなか、筆舌に尽くしがたい苦難の逃避行とともに、幻滅や喪失、辛酸や悔恨を描く作品群が登場し、戦後日本の「満洲文学」を作り出した。安倍公房『けものたちは故郷をめざす』(1957年)のように、満洲体験を抽象化し、実存的な不条理感をモチーフにした作品や、清岡卓行アカシヤの大連』(1969年芥川賞)が代表する、失われた時や空間への切ない郷愁を綴る作品、さらに国家や社会から遊離した、破天荒でアナーキーな生き方を憧憬する一種のディアスポラ文学なども、純文学の領域に留まらずエンターテイメントの世界にまで広がった。しかし、満洲国が消滅してから半世紀以上が経ち、それに直接かかわった書き手が次第に文壇から退いたいま、文学における日本人の満洲体験や記憶をいかにとらえ、表象するかの問題は、改めて問われている。
  • 参考文献
    • 大内隆雄『満洲文学二十年』(国民画報社、1944年)
    • 川村湊『文学から見る「満洲」-「五族協和」の夢と現実』(吉川弘文館、1998年)
    • 西原和海・川俣優編『満洲国の文化-中国東北の一つの時代』(せらび書房、2005年)
『満韓ところどころ』 (貴志俊彦) p.192
  • 概要
  • 「満韓」というが満洲のみ
    • 「満韓ところどころ」とはいうものの、大連、旅順、熊岳城、営口、奉天、撫順など満鉄沿線での見聞や交遊について書かれており、韓国については「二年に亘るのも変だからひとまずやめる事にした」として筆を擱き、これを語ってはいない。作中での漱石の視点は、日露戦争後の在満日本人に共通するものであり、満洲と「支那」とを区別することなく、現地の人びとやその営みを蔑視と偏見の対象として捉えている。
  • 入手方法
  • 参考文献
    • 大野淳一「『満韓ところどころ』の旅」(『国文学 解釈と教材の研究』34ノ5、1989年)

「新聞・雑誌メディア」(李相哲)pp.111-114

[満洲事変前の言論界]
  • 日露戦争 戦時中・戦前の新聞
    • 満洲ではじめて日本人経営新聞が発行されたのは1905年7月、日露戦争中に日本軍占領下の営口において中島真雄が創刊した『満洲日報』である。日露戦争以前にハルビンに東清鉄道が発行する『ハルビン新聞』(1903年-?、ロシア語)、営口に『営口新聞』があったが、詳細については伝わっていない。
  • 日露戦争後の新聞
    • 日露戦争終了後大連が営口に代わり政治経済上の重要性を増すと、日本人の大連への渡航が急増し、それに伴い大連に新聞が創られるようになった。最初に創られたのが松永純一郎の『遼東新報』(05年10月25日創刊)である。その後、南満州鉄道株式会社(満鉄)の支援のもと、07年11月には『満洲日日新聞』(『満日』)が創刊された。この新聞は当初満鉄の機関紙として発行されたが、表向きは東京印刷社長星野錫を社主とし、森山守次を社長とする民間紙とされた。満鉄が公に出資者を名乗り、社主となるのは11年8月のことである。同時期、大連では金子平吉が『秦東日報』(日刊・中国語新聞、08年10月創刊)を、奉天では中島真雄が『盛京時報』(日刊・中国語新聞、06年10月創刊)を、営口では窪田文三が『満洲新報』(08年11月、『満洲日報』を改題)を発行、安東では小浜為五郎が『安東新報』(06年10月創刊)を発行していた。また、遼陽、ハルビン長春でも地方紙が相ついで創刊されるが、『満日』をはじめ大連の有力紙を除いて、この時期満洲において発行される日本人経営新聞は、例外なく外務省出先機関の領事館または関東庁(関東総督府関東都督府→関東庁)の補助金を得て経営されていた。
  • 満鉄の新聞界支配の始まり
    • 20年代前半までに満洲では『遼東新報』『満日』『大連新聞』が読者獲得にしのぎを削り、紙面を競う局面も出現するが、27年10月、『満日』と熾烈な競争を繰り広げていた『遼東新報』が突然『満日』に統合されると、満洲の新聞界はほぼ完全に満鉄の傘下に入ることになった。
[事変後の満洲の新聞]
  • 「言論通信機関取り扱い方に関する打ち合わせ会」
    • 満洲の言論界が大きく様変わりするのは31年9月、満洲事変勃発後である。事変後、内外輿論が日本への批判を強めるなか、関東軍は32年8月、参謀長小磯国昭の名で「言論通信機関取り扱い方に関する打ち合わせ会」(のちに「協議会」)を発足、毎月1回の会合を開き、(一)国論統一のための国策通信機関として通信社を設立すること、(二)関東軍みずから新聞を作ること、(三)有力紙を買収し言論界をひとつの中央組織のもとに統一すること、(四)大連で発行していた『満日』を奉天に移転することなどの基本方針を打ち出す。
  • 関東軍言論統制
    • この方針に沿う形で関東軍は、内外輿論をコントロールする国際機関として満洲国通信社=「国通」を設立、みずから『大満蒙』(日本語、発行者大石隆基、32年9月創刊)という新聞を創り、対外宣伝用として満洲唯一の英語新聞『マンチュリヤ・デーリー・ニュース』(The Manchria Daily News)(発行者浜村善吉、『満日』の付録新聞から10年1月夕刊紙として独立)を買収する。また、満洲言論統制を目的とする満洲弘報協会(36年9月)を設立した。
    • 設立当初、協会には、国通のほかに『満日』など満洲の有力新聞社、満洲事情案内所など12社が加盟したが、それを通信社系統、『満日』系統(協会加盟の日本語、英語、ロシア語新聞を網羅)、『大同報』系統(中国語、朝鮮語新聞を網羅)と三系統にわけ、協会本部を満洲事情案内所において運営する体制にした。弘報協会設立直前に大連において辛うじて命脈を維持していた民間人経営の『大連新聞』(発行社立川雲平、20年5月創刊)は35年8月初旬、『満日』に買収された。
[雑誌の繁盛]
  • 雑誌数の推移
    • 35年の満洲の新聞・雑誌に関する統計によれば、新聞は43紙、雑誌は27誌あったが、39年になると、新聞は147紙(時事を掲載する新聞48種)、雑誌は252種(時事を掲載するもの30種)に増えている。36年までに雑誌の数は2桁(49種)で推移したが、翌年からは3桁(163種)に増えた。
  • 知名度の高い雑誌
    • 当時知名度の高い雑誌には、満鉄社員会が発行する『協和』(月2回刊、16年1月創刊、発行者(以下同)中島宗一)、満洲文化協会が発行する月刊誌『満蒙』(『満蒙之文化』の改題、20年8月18日、佐藤四郎)、新天地社発行の月刊『新天地』(21年1月、中村芳法)、満洲評論社発行の週刊『満洲評論』(31年5月、小山貞知)、『満日』調査部が発行する月刊『経済満洲』(『経済満日』の改題、32年6月、木村武盛)、満蒙評論社発行の月刊『満蒙評論』(15年7月、高橋徳夫)、満鉄総務部資料課発行の『満鉄調査月報』(25年7月、星菊治)、満鮮社発行の月刊『満鮮』(27年10月、伊藤時雄)、月刊満洲社発行の『月刊満洲』(『月刊撫順』の改題、28年7月、窪田利平)などがあったが、雑誌の数は少ないときで20数種(35年)、多い時には約300種(40年)も発行された。そのうち、『協和』は内容が満鉄社内の業務改善に関する評論や社員福祉、家庭生活などの内容が多く、経営は安定し、発行部数が満洲では最も多い雑誌であった。『経済満洲』は、満洲唯一の経済誌として、『満洲評論』は鋭い時事評論を売りにすることで満洲内外に広く読まれた。ほかに、月刊『満洲改造』(32年6月、高木翔之助)、月刊『満洲公論』(13年7月、石谷芳太郎)、月刊『日満公論』(29年8月、宮川隆、土橋希地)、月刊『新京』(32年10月、渡邊磯一)といった雑誌もあった。
[弘報新体制の完成]
  • 第二次整理
    • このような状況下に36年、満洲言論界に対する第二次整理が始まり、40年9月に完成をみる。
  • 第三次整理
    • その後、41年1月、弘報協会の業務は満洲総務庁弘報処に移管され、弘報協会の代わりに満洲新聞協会が発足。8月25日には、新聞統制に法的根拠を持たせるための「新聞社法」「記者法」「満洲国通信社法」が公布される。この三法を公布してから半年後の42年1月22日、特殊法人満洲国通信社、満洲日々新聞社、満洲新聞社、康徳新聞社が設立され、満洲におけるすべての新聞は、この四社の傘下に置かれた。
    • 満洲新聞』の下に、『哈爾浜日々新聞』(ハルビン)、『マンチュリヤ・デーリー・ニュース』(新京)、『三江日々新聞』(ジャムス)、『斉々哈爾浜新聞』(チチハル)、『東満新聞』(局子街=延吉)など六社を統合し、黒河、ハイラルではタブロイド版新聞を発行する。
    • また、中国語新聞『康徳新聞』の下に『大同報』(新京)、『盛京時報』が兼営した『大北新報』(ハルビン)、『三江日報』(ジャムス)、『黒竜江民報』(チチハル)、『錦州新報』『熱河新報』など14社を統合。満洲国出資のもと、黒河、北安、東安、ハイラル、札蘭屯、通化、王爺廟に小型中国語新聞を新たに創った。
    • これを以て満洲言論界に対する第三次整理は終わるが、それがいわゆる「弘報新体制」である。満洲の新聞・雑誌メディアは、この新体制のもとで終戦を迎えたのである。
参考文献
  • 満洲弘報協会編『満洲の新聞と通信』(満洲弘報協会、1904年)
  • 李相哲『満州における日本人経営新聞の歴史』(凱風社、2000年)