帝国とプロパガンダについての研究。
大衆を啓蒙し、対外認識を形成させる装置として、観光・博覧会・紀行文などを扱う。
ここでは、日本帝国が満洲に対して帝国臣民にどのような満洲像を形成させようとしたかを見るために、基本的な用語を押さえていく。
そんなノリ。
と、いうわけで片っ端からメモして整理
用語メモ 『二〇世紀満洲歴史事典』(吉川弘文館、2012年)より
- 観光斡旋事業系
- ジャパン・ツーリスト・ビューロー
- 鮮満案内所
- 満洲事情案内所
- 満洲観光連盟
- 観光資源関係
- 温泉
- 博物館
- 博覧会
- 物語と観光
- 日本人文学
- 『満韓ところどころ』
- 「新聞・雑誌メディア」
観光斡旋事業
ジャパン・ツーリスト・ビューロー (貴志俊彦) pp.307-308
- 発足期
- 1912年3月に発足した旅行案内業者。同年11月、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(以下JTB)は、大連支部を設置したが、これが満洲で最初に設置された日本の観光事業機関だった。JTBは、渋沢栄一らが日本初の外国人旅客誘致斡旋機関として設立した喜賓会の事業を引き継ぐ組織であった。発起人として名を連ねたのは、日本の鉄道院、朝鮮総督府、台湾総督府、大阪市、満鉄、日本郵船、大阪商船、東洋汽船、帝国ホテル、三越呉服店の関係者で、鉄道員副総裁の平井清二郎が会長に就任した。13年、JTBは日本内地だけでなく、満洲、朝鮮、台湾などへの旅行情報を発信するために月刊雑誌『ツーリスト』を創刊。翌14年には、大連ヤマトホテル、旅順駅、奉天ヤマトホテル、長春ヤマトホテルに嘱託案内所を設置し、在満日本人だけでなく、満洲を訪れた外国人にも旅行斡旋を始めた。
- 拡大期(満洲事変後)
- 規制と統制
- ところが、36年に広田弘毅内閣が「満洲産業開発五ヵ年計画」や「二〇ヵ年一〇〇万戸移住計画」を策定し、39年に日本内地から建設勤労奉仕隊の派遣が決定されると、輸送交通の面から、それまで比較的自由に行われていた満洲視察も制限された。この規制のために、39年8月から満洲観光協会が旅行の斡旋を一元的に取り扱うことになり、旅行も統制の対象になった。40年、日本の紀元2600年の記念式典に参加するため、満洲国から日本へ向かう修学旅行団体がつぎつぎに組織され、JTBはこれを一手に引き受けた。
- しかし、経営が滞るなか、41年5月には社団法人化されて東亜旅行社に改組された。さらに、年末に勃発した太平洋戦争によって外国からの旅客が途絶え、翌年には「大東亜共栄圏」内における国策的な運搬業務にかかわることになったため、民間企業体としてはやっていけず、鉄道省の傘下で財団法人に改組された。さらに財団法人国際観光協会の事業も継承して43年には東亜交通公社に組織変更された。
- 戦後
- 終戦直後の45年9月、JTBはその名称を財団法人日本交通公社に変更し、63年11月に株式会社化され、日本交通公社が成立した。
- 参考文献
「鮮満案内所」(天野博之) p.328
- 鮮満案内所時代
- 華北制圧と鮮満支案内所
- 参考文献
観光資源
「温泉」(瀧下彩子) pp.46-47
「博物館」(大出尚子)pp.405-406
- 満洲国国立博物館 奉天 (歴史・考古学系博物館)
- 国立中央博物館新京本館(自然科学系博物館)
- 満鉄教育研究所付属教育参考館の流れをくむ自然科学系博物館が新京に開設され、39年1月1日に国立中央博物館が官制施行されると、新京の博物館は「国立中央博物館新京本館」、奉天の国立博物館は「国立中央博物館奉天分館」と改称された。新京本館は開館当初、庁舎を持たず、「博物館エキステンション」と称する教育普及活動を展開した。翌40年7月15日に開館した大経路展示場(いわゆる常設展示場)は、動物部・地理部・鉱物部・地質部・物理部の五部門構成であった。国立中央博物館は、館長不在の博物館で、副館長の藤山一雄が運営上の中心となった。開館当初から、藤山の構想による民俗展示場の建設が進められ、第一号館である漢族農家の家屋を完成させたが、45年8月9日のソ連軍の侵攻により大経路展示場は破壊され、民俗展示場も8月15日に予定していた開館を待たずして満洲国の崩壊とともに消滅した。
- そのほかの満洲国の博物館
- 博物館の機能 「満洲色」の創出と歴史的実態の付与
- 参考文献
「博覧会」(平山勉) pp.174-176
- 博覧会の目的
- 日本内地における満洲展示
- 満洲における博覧会の開催
- 一方、満洲では06年に鉄嶺軍制署が商品陳列館や、16年に満鉄が設置した長春商品陳列所を通じて、満洲と日本の商品・製品などが展示された。最初の博覧会は25年に大連新市政を記念して実施された大連勧業博覧会である。上海抗日デモの拡大で中華民国だけでなく諸外国も不参加となり、満洲の展示品も小規模であったこの博覧会は、日本内地からの来訪者や在満日本人を見込んだ娯楽色の濃いものだった。33年に大連で開催された満洲大博覧会は、満洲建国祝賀記念として「日満両国の経済的提携」を謳い、ジャパン・ツーリスト・ビューローによる満洲旅行など観光産業の隆盛を背景に、銀行・企業・報道関係者、地方自治体の視察団、修学旅行の小中学生を集めた。また、土俗館の展示などで「満洲地方色」を盛り込み、度量衡に関する道具や神像・祭祀道具、出産・誕生といった通過儀礼の装束などを展示するだけでなく、少数民族の生活文化もこれに加えた。
- 地方都市に広がる日本内地における満洲展示
- 日本内地の「満洲展示」は地方都市にも広がった。36年の日満産業博覧会(富山)は、日本海時代の到来を期して日本海を満洲との交通・産業・貿易の舞台として示すだけでなく、日満議定書の調印式を等身大の人形で再現するなど、政治的な意味合いも濃く出ていた。また、東京・京都・愛知などの特設館、朝鮮館、台湾館が並ぶ中で、満洲国・関東局・満鉄の協同設営の満洲館は「主役」として、満洲の産業と暮らしを網羅的に展示した。日満産業博覧会は宮崎でも開催され、同年には築港記念博覧会(福岡)、躍進日本大博覧会(岐阜)、四日市大博覧会(三重)で、37年には名古屋汎太平洋平和博覧会(愛知)、南国土佐博覧会(高地)、別府国際温泉博覧会(大分)で満洲館などが設置され、満洲の産物、天然資源の豊富さを引き立てる展示が展開された。
- 海外に進出した満洲展示
- 参考文献
物語と観光
「日本人文学」(大久保明男)pp.393-394
- 概要
- 日露戦争後
- 満洲国の成立
- 在満日本人の文学
- 一方、満洲に定着した日本人の増加に伴い、在満日本人の文学も次第に醸成された。大連など植民地都市の風景を切り取るモダニズム詩、満洲は故郷なのか異郷なのかを問い、アイデンティティの揺らぎを吐露する小説、あるいは、異民族との共存に夢を託すロマンチシズム風の作品があれば、対極にその破綻を冷めた目で凝視するリアリズム文学が存在するなど、テーマやスタイルは多様であった。しかし、内地と同様、帝国の膨張理論に寄り添う作品がやがて主流を占め、戦争の激化に従い「文学報国」が至上命題となっていく。いわゆる建国文学、増産文学などのように、国策追随のプロパガンダや独りよがりのモノローグが満洲国の文学に溢れただけでなく、それが中国人作家にも波及した。
- 戦後文学
- ところが、満洲国が崩壊して、その地にいた155万を超える日本人が帰還したり追放されるなか、筆舌に尽くしがたい苦難の逃避行とともに、幻滅や喪失、辛酸や悔恨を描く作品群が登場し、戦後日本の「満洲文学」を作り出した。安倍公房『けものたちは故郷をめざす』(1957年)のように、満洲体験を抽象化し、実存的な不条理感をモチーフにした作品や、清岡卓行『アカシヤの大連』(1969年芥川賞)が代表する、失われた時や空間への切ない郷愁を綴る作品、さらに国家や社会から遊離した、破天荒でアナーキーな生き方を憧憬する一種のディアスポラ文学なども、純文学の領域に留まらずエンターテイメントの世界にまで広がった。しかし、満洲国が消滅してから半世紀以上が経ち、それに直接かかわった書き手が次第に文壇から退いたいま、文学における日本人の満洲体験や記憶をいかにとらえ、表象するかの問題は、改めて問われている。
- 参考文献
「新聞・雑誌メディア」(李相哲)pp.111-114
[満洲事変前の言論界]
- 日露戦争 戦時中・戦前の新聞
- 日露戦争後の新聞
- 日露戦争終了後大連が営口に代わり政治経済上の重要性を増すと、日本人の大連への渡航が急増し、それに伴い大連に新聞が創られるようになった。最初に創られたのが松永純一郎の『遼東新報』(05年10月25日創刊)である。その後、南満州鉄道株式会社(満鉄)の支援のもと、07年11月には『満洲日日新聞』(『満日』)が創刊された。この新聞は当初満鉄の機関紙として発行されたが、表向きは東京印刷社長星野錫を社主とし、森山守次を社長とする民間紙とされた。満鉄が公に出資者を名乗り、社主となるのは11年8月のことである。同時期、大連では金子平吉が『秦東日報』(日刊・中国語新聞、08年10月創刊)を、奉天では中島真雄が『盛京時報』(日刊・中国語新聞、06年10月創刊)を、営口では窪田文三が『満洲新報』(08年11月、『満洲日報』を改題)を発行、安東では小浜為五郎が『安東新報』(06年10月創刊)を発行していた。また、遼陽、ハルビン、長春でも地方紙が相ついで創刊されるが、『満日』をはじめ大連の有力紙を除いて、この時期満洲において発行される日本人経営新聞は、例外なく外務省出先機関の領事館または関東庁(関東総督府→関東都督府→関東庁)の補助金を得て経営されていた。
- 満鉄の新聞界支配の始まり
[事変後の満洲の新聞]
- 「言論通信機関取り扱い方に関する打ち合わせ会」
- 関東軍の言論統制策
- この方針に沿う形で関東軍は、内外輿論をコントロールする国際機関として満洲国通信社=「国通」を設立、みずから『大満蒙』(日本語、発行者大石隆基、32年9月創刊)という新聞を創り、対外宣伝用として満洲唯一の英語新聞『マンチュリヤ・デーリー・ニュース』(The Manchria Daily News)(発行者浜村善吉、『満日』の付録新聞から10年1月夕刊紙として独立)を買収する。また、満洲の言論統制を目的とする満洲弘報協会(36年9月)を設立した。
- 設立当初、協会には、国通のほかに『満日』など満洲の有力新聞社、満洲事情案内所など12社が加盟したが、それを通信社系統、『満日』系統(協会加盟の日本語、英語、ロシア語新聞を網羅)、『大同報』系統(中国語、朝鮮語新聞を網羅)と三系統にわけ、協会本部を満洲事情案内所において運営する体制にした。弘報協会設立直前に大連において辛うじて命脈を維持していた民間人経営の『大連新聞』(発行社立川雲平、20年5月創刊)は35年8月初旬、『満日』に買収された。
[雑誌の繁盛]
- 雑誌数の推移
- 35年の満洲の新聞・雑誌に関する統計によれば、新聞は43紙、雑誌は27誌あったが、39年になると、新聞は147紙(時事を掲載する新聞48種)、雑誌は252種(時事を掲載するもの30種)に増えている。36年までに雑誌の数は2桁(49種)で推移したが、翌年からは3桁(163種)に増えた。
- 知名度の高い雑誌
- 当時知名度の高い雑誌には、満鉄社員会が発行する『協和』(月2回刊、16年1月創刊、発行者(以下同)中島宗一)、満洲文化協会が発行する月刊誌『満蒙』(『満蒙之文化』の改題、20年8月18日、佐藤四郎)、新天地社発行の月刊『新天地』(21年1月、中村芳法)、満洲評論社発行の週刊『満洲評論』(31年5月、小山貞知)、『満日』調査部が発行する月刊『経済満洲』(『経済満日』の改題、32年6月、木村武盛)、満蒙評論社発行の月刊『満蒙評論』(15年7月、高橋徳夫)、満鉄総務部資料課発行の『満鉄調査月報』(25年7月、星菊治)、満鮮社発行の月刊『満鮮』(27年10月、伊藤時雄)、月刊満洲社発行の『月刊満洲』(『月刊撫順』の改題、28年7月、窪田利平)などがあったが、雑誌の数は少ないときで20数種(35年)、多い時には約300種(40年)も発行された。そのうち、『協和』は内容が満鉄社内の業務改善に関する評論や社員福祉、家庭生活などの内容が多く、経営は安定し、発行部数が満洲では最も多い雑誌であった。『経済満洲』は、満洲唯一の経済誌として、『満洲評論』は鋭い時事評論を売りにすることで満洲内外に広く読まれた。ほかに、月刊『満洲改造』(32年6月、高木翔之助)、月刊『満洲公論』(13年7月、石谷芳太郎)、月刊『日満公論』(29年8月、宮川隆、土橋希地)、月刊『新京』(32年10月、渡邊磯一)といった雑誌もあった。
[弘報新体制の完成]
- 第二次整理
- このような状況下に36年、満洲言論界に対する第二次整理が始まり、40年9月に完成をみる。
- 第三次整理
- その後、41年1月、弘報協会の業務は満洲国総務庁弘報処に移管され、弘報協会の代わりに満洲新聞協会が発足。8月25日には、新聞統制に法的根拠を持たせるための「新聞社法」「記者法」「満洲国通信社法」が公布される。この三法を公布してから半年後の42年1月22日、特殊法人満洲国通信社、満洲日々新聞社、満洲新聞社、康徳新聞社が設立され、満洲におけるすべての新聞は、この四社の傘下に置かれた。
- 『満洲新聞』の下に、『哈爾浜日々新聞』(ハルビン)、『マンチュリヤ・デーリー・ニュース』(新京)、『三江日々新聞』(ジャムス)、『斉々哈爾浜新聞』(チチハル)、『東満新聞』(局子街=延吉)など六社を統合し、黒河、ハイラルではタブロイド版新聞を発行する。
- また、中国語新聞『康徳新聞』の下に『大同報』(新京)、『盛京時報』が兼営した『大北新報』(ハルビン)、『三江日報』(ジャムス)、『黒竜江民報』(チチハル)、『錦州新報』『熱河新報』など14社を統合。満洲国出資のもと、黒河、北安、東安、ハイラル、札蘭屯、通化、王爺廟に小型中国語新聞を新たに創った。
- これを以て満洲言論界に対する第三次整理は終わるが、それがいわゆる「弘報新体制」である。満洲の新聞・雑誌メディアは、この新体制のもとで終戦を迎えたのである。