雑録

貴志俊彦『満洲国のビジュアル・メディア』(吉川弘文館、2010年)

  • 本書の趣旨(3頁)
    • 満洲国はみずからの存在を、どのようなものとして国の内外に認知させようとしたのか。本書は、その企画と弘報政策に深くかかわった日本人が描いた/描こうとした満洲あるいは満洲国イメージから、このことを検証するものである。」
  • 雑感
    • 1931年の満州事変以降、満洲旅行はブームとなり、1935/36年からは満洲国で観光国策がとられた。しかし、あくまでもそのねらいは満蒙の特殊権益の正当化や満洲国の認識深化であった。日本人は文学作品や旅行会社の刊行物、宣伝映画や大衆雑誌によって創出された満洲イメージ/満洲像/物語性を持っており、それを追体験するために観光を行うことになった。しかしそこで得た認識はあくまでも日本人が付与した虚像にすぎなかったのである。

以下、本文抜粋

  • 満洲という空間(3頁)
    • 「1930年代以降の満洲イメージは、1906年に日本の租借地となった関東州と、1932年に「建国」した満洲国、さらに中東鉄道附属地・満鉄附属地を加えた四つの領域空間から生み出されている。しかし、この四つの空間は、行政機構上は異なった領域でありながら、〔……〕しばしば単一の空間と捉えられてきた。確かに、日本内地から関東州・満洲国へ行くのにパスポートは必要とされなかったし、貨幣を含めて日本国内と同じ方法で旅行できた(ただし、朝鮮・関東州・満洲国へはいるときには、船舶や列車のなかや駅などで税関検査はあった)。」
  • 満洲資源館(29-30頁)
    • 「〔……〕満鉄が1916年に設置した長春商品陳列所と、26年に一般開放した大連の満蒙物資参考館は、商品や物産の展示のほか、貿易の補助、満洲事情の紹介もおこない、多くの見学者を集めた(満鉄 1974)。満蒙物資参考館は、1928年11月に満蒙資源館と改称し、32年12月にさらに満洲資源館と改められた。〔……〕参観者の数は、満蒙物資参考館八足の1926年には8000名あまりにすぎなかったが、満洲資源館と改称された32年には3万7000人近くに増え、35年には約6万8000名に達した。1928年10月に高松宮宣仁親王が参観して以降、満洲を訪れる皇族は、この資源館にも立ち寄っている(立川 1939)。なお、日本国内には、東京虎ノ門の満鉄東京支社1階に、満洲資源館のミニチュア版である満洲資源陳列所があった(満鉄 1937)。」
  • 満洲大博覧会(30-31頁)
    • 「〔……〕満洲の物産や資源を紹介する施設は、さまざまな博覧会でも設置された。とくに1933年7月23日から大連市主催で開催された満洲大博覧会は有名であり、〔……〕このポスターの日本向け分は大坂の鮮満案内所を通じて、各府県・市役所・出品協会・商工会議所に配布され、中国向け分は満鉄、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、居留民会、商工会議所が配布した(大連市役所、1934)。」
      • 大連市役所 1934 『大連市催満洲大博覧会誌』大連市
  • 日本の地方博覧会における特殊パビリオン満洲館(31頁)
    • 「〔……〕パビリオンには、満洲国政府・関東局・満鉄・在日満洲機関が全面的に協力していた。たとえば、満洲館が設置された博覧会は、1936年だと、築港記念博覧会(福岡)・躍進日本大博覧会(岐阜)・四日市大博覧会・日満産業博覧会(富山)・日満産業博覧会(宮崎)、翌37年だと、名古屋汎太平洋平和博覧会(愛知)・別府国際温泉大博覧会(大分)・南国土佐博覧会(高知)があった。これら満洲館では、ジオラマや展示品、声のガイダンスを通して、満洲の資源・物産・文化・風俗や現地事情を紹介するとともに、日満両国関係の強化、満洲認識の是正、満洲への移民の奨励が促されていた。(資<3>1935・12・11、資<6>2-2)。」
  • 日満交通ルート(31-32頁)
    • 「満鉄成立前年の1905年、旅順開城とともに、大阪商船が大坂−大連間の日満航路を開設し、09年4月から満鉄との間で、旅客・手荷物の連絡を円滑にする協議がおこなわれた。これが満鉄ルートである。」
    • 「同じく05年に下関−釜山間に関釜連絡船が就航することとなり、この航路が山陽鉄道朝鮮半島京釜線(京城−釜山)を結びつけ、08年に京義線(京城新義州)が開通すると、朝鮮半島を南北に縦断する鉄道が完成した。韓国併合の翌年には、満鉄の安奉線(安東−奉天)が標準軌に改良され、また安東と京義線の終点である新義州の間を流れる鴨緑江に橋梁が架けられたことで、朝鮮鉄道と満鉄との連絡が可能になった。これが朝鮮鉄道ルートである。」
    • 「このように、1910年代は、海を渡って大連港から満鉄に乗車する満鉄ルートと、朝鮮半島を縦断し満洲入りする朝鮮鉄道ルートの二つが、日満間の幹線交通ルートであった。」
  • 1932年旅行ブームブレイクの要因(32頁)
    • 「〔……〕大阪商船の満洲航路における〔……〕旅客数は、1916年を契機に微増し始め、1932年からは、爆発的な増加となっている(大阪商船株式会社、1934)。1932年は、まさに満洲国が建国した年であり、同時に奉天−釜山間の急行「ひかり」の運転区画が新京にまで延び、有名な特急「あじあ」が大連−新京間で走行を開始した年であった。こうした移動時間の短縮も、旅行ブームをブレイクさせた重要な要因だった(平山 2006)。」
      • 大阪商船株式会社 1934『大阪商船株式会社50年史』大阪商船
      • 平山昇 2006「『日鮮満』を結んだ鉄路と航路−関釜連絡船・朝鮮鉄道・満鉄」『歴史と地理』592
  • 観光国策(32-33頁)
    • 「1910年代に増加した旅客は、日本人だけではなかった。欧米からの極東旅行には、満洲ツアーが組み込まれるようになり、日本・朝鮮・満洲中華民国を周遊する外国人が増えた。こうした外国人ツアーを支援し、満洲や朝鮮への旅に門戸を開いたのは、日満両国における観光事業であった。1936年、満洲国の「観光国策」が公表され、多くの観光協会が1937年から41年までに成立した。その前年までに成立したのは、大連・旅順・奉天三大都市における観光協会だけだった(東亜旅行満洲支部 1941)。」
      • 東亜旅行満洲支部 1941 『東亜旅行年鑑』 (※レジュメ作成者は『東亜旅行年鑑』の存在を確定できていない)
  • ジャパン・ツーリスト・ビューロー(33-34頁)
    • 「〔……〕1912年11月に大連支部が設置された。JTBの基本的な目的は、「外国に我邦の風景事物を紹介し、且つ外人に対して旅行上必要なる各種の報道を與ふるの便を開くこと」で、外国人旅客を日本観光に誘致することにあった。しかし、この「我邦」の概念が重要である。JTBの発足にあたって、日本の鉄道院を中心として、朝鮮総督府台湾総督府大阪市・満鉄・日本郵船・大阪商船・東洋汽船・帝国ホテル・三越呉服店の関係者が発起人となった。「我邦」は、日本内地だけでなく、明らかに植民地朝鮮や台湾、満洲が含まれていたことを看過すべきではない。JTBは、1914年に大連ヤマトホテル・旅順駅・奉天ヤマトホテル・長春ヤマトホテルに嘱託案内所を設置し、在満日本人だけでなく、満洲を訪れた欧米の外国人にも旅行斡旋を始めた。」
    • 「〔……〕旅行客は、1931年の満州事変後に増加したが、日中戦争勃発以降はさらに急増した。これら旅行客のため、JTBは、満鉄沿線に案内所を増やしていき、1930年代には大連に7店、奉天に2店、新京に4店、ハルビンに3店、そのほか鞍山・吉林通化・営口・撫順・安東・牡丹江・佳木斯・チチハル満洲里・錦県・承徳に各1店が設置された。また、日本国内では、東京・大阪・門司にあった満鉄の鮮満案内所のなかにもJTBの案内所を設置し、日本を訪れた欧米の外国人旅客に、外地や満洲への旅の手配をした。そのような状況でJTBと連携し、ときには競合関係にあったのが、中国旅行社、ハルビンのワゴン・リ社、ロンドンに本店をおくトーマス・クック社、ニューヨークを拠点とするアメリカン・エキスプレス・カンパニーであった(日本交通社 1982)」
    • 「こうした旅行案内所は、満鉄・JTBだけでなく、1934年5月に奉天の満毛百貨店内に新設された航空旅客用の「空の案内所」や、37年に設立した満洲観光連盟も同様な役割を果たした。欧米の外国人の旅行者は、日本から満洲、そして中華民国というルートをとるか(あるいは逆ルート)、シベリア鉄道を経由して極東を訪れるか、どちらかだった。」
  • 満鉄鮮満案内所【1】(35−36頁)
    • 「満鉄は、1923年に東京支社経理科に朝鮮・満洲の案内事務を取り扱う業務を担当させ、25年にはこれを庶務課の管轄に移し、東京丸の内ビル・大阪堺筋・下関前の三個所に鮮満案内所を設置した(36年には門司税関所内にも設置)。27年、運輸課が復活設置されると、鮮満案内所はその管轄下に置かれ、案内事務のほか、物産販売も扱うことになった(満鉄 1974)。」
    • 「1931年に満州事変が勃発すると、各地の鮮満案内所は、事後対応にあわただしく活動した。東京鮮満案内所は、満洲事変に関する講演会に講師を派遣したり、満洲事情紹介のために19万4565部の刊行物を配布したり、満洲の地方状況などに関する質問表10万8973に答えるなど多忙をきわめた。また、記録フィルムの貸与、陸軍省新聞班などと連携した映写会の上映などは計256回に及んだ。このほか、新聞社・通信社・出版社に写真や記事を提供した。また、大阪鮮満案内所・下関鮮満案内所も、満洲事変後の時局講演や記録フィルムの上映、パンフレットの作成などをおこなった(満鉄総務部資料課 1934)。」
    • 「時局が安定すると、鮮満案内所も通常業務に戻ったが、旅行の相談や切符の手配、旅館の予約、自動車の予約などは、おもに所内にあったJTBがおこなった。満洲や朝鮮の宿泊先は、満鉄沿線のヤマトホテルや朝鮮ホテルなどの洋式ホテルが知られているが、実際には両地域とも主要な都市には日本式旅館が必ずあった。団体客は、だいたいそうした日本式旅館で宿泊した。言葉も日本語であっただけでなく、日本円での支払いも可能だったからだ。当時の東アジア観光を考える場合、こうした旅館ネットワークの存在がもっと注目されてもいい。口コミによる現地の観光情報は、こうした日本式旅館を通じて授受されたからである。」
  • 満鉄鮮満案内所【2】(38-39頁)
    • 「鮮満案内所は、旅行案内をするだけではなく、旅行の主催もおこなった。たとえば、下関鮮満案内所では、1929年9月、初めて主催旅行「第1回鮮満案視察団」を実施したが、これに参加した旅客の写真アルバムが残っている(旅行者の氏名は不明)。このアルバムの持ち主は、下関から関釜連絡汽船に乗って、釜山到着後朝鮮鉄道で京城へ向かった。京城では当時開催していた朝鮮博覧会を観光し、続いて平壌では商品陳列館・妓生学校を見学したあと、満鉄線に乗って大石経由で渤海湾を大きく迂回して大連に到着した。大連から旅順に移動し、当時の定番観光だった戦跡参拝ツアーをおこなっている。再び満鉄線に乗り、大連経由で北上し、撫順の露天掘りを見学したあと、奉天では忠霊塔−同善堂−北稜見学という定番見学ルートに即して観光している。当時はまだ満洲国成立前だったので、奉天でUターンし、鴨緑江を鉄道で渡って、朝鮮へ移動し、帰路は昌慶丸に乗って帰還した。これが、満洲国成立以前のごく一般的なツアー内容といえた。」
    • 「1939年、中華民国も案内業務に入れなければならなくなったことから、満鉄の組織改正がおこなわれ、鮮満案内所は、鮮満支案内所に改組された。それたの設置場所は、東京・大阪・門司のほか、新潟と小樽が加わった。そして1944年に格上げとなった事務所は、東京・広島・福岡・松山・新潟・仙台・札幌に設置された。」
  • 満洲事情案内所(39頁)
    • 満洲国建国後は、満鉄以外にも、「観光国策」に携わる機関が設置された。満州経済事情案内所は1933年1月に関東軍特務部の特殊指令に基づき、新京記念会館内に設立された。設立にあたっては、関東軍満洲国政府・駐満日本大使館・満鉄が支援した。案内所は、産業五ヵ年計画および国策移民の遂行を中心とした満洲開発をサポートする商工会議所に似た役割と、図書館・観光協会・観光案内所などの業務をあわせもつ組織だった。1934年1月には、関東庁・駐満海軍部などの後援が加わり、その事業部門は拡大されて、満洲事情案内所と改称し、同年三月に設立した満洲視察委員会の実務担当機関も兼務することになった。1936年に9月に設立された特殊会社満洲弘報協会が、新聞社や通信社の整理統合に着手すると、満洲事情案内所もこれに吸収されたが、38年1月に政府特設の外部機関として再び独立した。満洲事情案内所は、旅行者を、一般的な遊覧を主とする旅行者と、業務上の調査などを主とする者とに分けて、前者はJTB観光協会に、後者を商工会に担当させたほか、行政視察や実地視察は満洲事情案内所が担当した。日本人団体客の旅行や視察も、現地では、こうした機能分化のもとに遂行されていたのである。」
  • 日本の国際連盟脱退と満洲国(51頁)
    • 「〔……〕関東軍司令官武藤信義(1868-1933)の名義で、日本が国連を脱退したことを満洲国3000万の民衆に報告する告示として掲示されたものである。これには、日本の国際連盟脱退は満洲国との関係をより重視したからで、国連を脱退してもこれまでの満洲との関係になんら影響は及ぼさないため、「デマ」にまどわされず、安心して生活するようにと書かれていた。これ以降、日満両国政府は、さまざまな弘報や宣伝を用いて、満洲国内の秩序の回復に努めるとともに、対外的には満洲国の承認を促すように働きかけた。弘報の役割は、国の内外に対して、緊要な意義をもつものとして理解され、これに多大な経費と人材が投入されたのである。」
  • 匪賊対策と保甲法(91頁)
    • 「1933年12月には、各村の匪賊対策と治安維持のための自衛組織を強化するために、中国の伝統的統治組織を改編した「保甲法」が公布された。同法は、10戸を単位として1牌として、10牌を1甲、10甲を1保として組織された。その団員の資格は、同一地方に1年以上居住する18歳から40歳までの男子だった(資<3>1933・12・23)。こうして、自衛のための基層社会の再編・統合をはかり、満洲国のイデオロギーを基層社会に浸透させようとしたのである。図39のポスター(※保甲法公布記念ポスター「保甲 部落防衛 匪賊」−引用者)が示しているとおり、保甲法の実施は治安部警察司の担当であったが、とくに基層社会とかかわる牌の組織化・強化が重視された。このポスターでは、保甲法を実施している満洲国側は匪賊がおらず平和で平穏であるとアピールしている。」
  • 【観光国策の実質化】情報処−弘報委員会−観光委員会−観光連盟−観光協会(80,112,115頁)
    • 1933年2月、満州国政府は弘報機構を強化するため、総務庁長官直属の機関として、新たに情報処(のち弘報処)を設置した。〔……〕翌10月(※1936年10月−引用者)には、情報処は、治外法権の撤廃と準戦時体制の構築に向けて関係機関に働きかけるとともに、中華民国ソ連に対抗する思想戦を展開することで、国内陣営を強化しようとした。そのため、1936年10月に一元的な弘報政策を進めるために、弘報委員会が立ち上げられた。この弘報委員会のもとに既設の満洲弘報協会・放送委員会を組み込み、また新設の観光委員会・満洲映画協会(満映)の監理を試みた(資<6>2-2)。〔……〕観光委員会は、1937年2月に弘報委員会のもとに設置され、観光事業の整備・統制に関する審議機関となった。委員長は総務庁次長神吉正一、幹事は情報処長宮脇襄二が担当者になったことから、政府がこの委員会を重視していたことがわかる。観光委員会の下には観光連盟が設置され、観光事業機関の連絡を担当し、聯盟の下に組織された各地の観光協会は景観保存や都市の美化を担うことになった。こうした観光事業のヒエラルキーが成立したことで、ようやく1935年に唱えられた「観光国策」が実質化することになった(資<3>1937・2・23)
  • 情報処から弘報処への改組(127-128頁)
    • 「1937年は、満洲国と日本が、「一徳一心」をスローガンとして、その制度上の一元化・一体化を促した年だった。〔……〕7月には、国務院総務庁情報処が、広く国家的弘報全般を担えるよう組織を拡大し、名称も弘報処と改めた。〔……〕弘報処は、新たに情報収集・整理を専門とする情報科を設置して、監理科・宣伝科とともに三科体制とした。〔……〕宣伝科は二班に分けられ〔……〕宣化一班はパンフレットや雑誌の発行、演芸・行事・展覧会の開催、現地指導や満洲事情案内所の監理をつかさどった。宣化二班は、放送、対外宣伝、満洲観光連盟の指導を担当業務とした(資<6>3-11)。」
      • 資<6>『宣撫月報』(『十五年戦争極秘資料集』)、全七巻、不二出版復刻
  • 1940年観光 旅行熱と戦争による旅行の変容(139頁)
    • 日中戦争が勃発したあとも、意外なことに、満洲への旅行熱や移住熱は加熱状態になっていた。加えて、1940年の紀元2600年にあわせて、東京・横浜で日本万博博覧会と東京オリンピックの開催が予定されたことから、満洲国のみならず、世界が東京を注目した。どちらのイベントも幻となったが、メディア・イベントを続けざまに企画することで、旅行熱は留まることをしらず、日本内地から満洲国、満洲国から日本への旅行客は、減少するどころではなかった。」
    • 「〔……〕しかし、満洲国にある従来の輸送機関や観光施設では、こうした急増する渡航者に対応できず、事態は深刻になりつつあった。満洲国の観光機関は、時局難ということもあって、内地からの渡航者を一定条件で制限することを決定した。東京で開催された団体旅客輸送会議でも、団体客については、時局にふさわしくない物見遊山的なものや、団体の人数があまりに多いものは取扱い斡旋を断る一方、開拓地視察については積極的にこれを受け入れることという方針が了承された。また、学生の団体旅行については、従来のように名所旧跡を見物するだけでなく、旅行先の学校参観や現地学生との交流を重視し、現地にある神社そのほかでの勤労奉仕作業をプログラムに盛り込むことなどで承認が得られた。大陸科を新設した大学や高専では、従来からのステロタイプ的な修学旅行を改善した「大陸視察旅行」が求められるようになっていたのである。」
  • 弘報装置としての娯楽(176-177頁)
    • 「1941年5月、弘報処・治安部・民政部などの指導監督のもとに、株式会社満洲園芸協会が発足した。このことは、映画・放送・新聞・雑誌と同様に、演芸が満洲国の弘報啓蒙機関と化した注目すべき出来事だった。同じく、12月、満映も映画の「国家弘報の武器」としての役割を高めるために、従来の製作部を啓民映画部(啓発・教化・時事に関する映画の製作)・娯民映画部(娯楽映画の製作)・作業管理所の三部門に分けた。これには、甘粕正彦理事長の強い意向が反映しており、娯民映画を通じて映画に慣れ親しませなければ、大衆の教化など不可能という彼の考えの表われであった(山口・藤原 1987)。甘粕の改革は、それまでの弘報政策社会に浸透しなかったのは、政策の執行者である日本人が、満洲は多民族社会であり、政策受容者として彼ら住民の目や耳を意識してこなかった結果であったことを意識させずにはおかなかった。演芸や映画は、娯楽性が高いゆえに、そうした問題を突破するか可能性を秘めた弘報装置として重視されたのである。」
  • 満洲国建国10周年記念と日満両国関係のシンクロナイズ(188-189頁)
    • 「〔……〕日本でも、満洲国における記念式典と同様に、3月1日の満洲建国節祝典、9月の満洲建国10周年慶祝式典・建国功労者社合同慰霊祭をおこなうとの計画を進めることを意味していた。これら慶祝行事にまつわる事業を周知させるために、日本政府は、3月と9月の一般雑誌は建国10周年慶祝の特集号を組ませ、新聞もこれに準じた報道をするように指導し、各出版社はこれを実践したのである。そのほか、ポスター、標語、パンフレット、放送、レコード、映画、演劇、紙芝居、広告気球、立看板、百貨店の装飾など、あらゆる手段を使って、日本内地の人々に満洲国への認識を高め、一体感を築こうとした。これらすべてが、日本と満洲国との記念イベントをめぐる共時性を意識した企画だった。また、前年に日本の紀元2600年を祝うために開催された東亜競技大会が、42年8月、第二回大会として新京の南嶺総合運動場で開催されたことも、この共時性を物語っている。記念イベントもスポーツ大会も、日満両国関係をシンクロナイズされたものに仕上げるために利用されたメディア・イベントであった。」
  • 溥儀の訪日(109,189頁)
    • 「1935年は、満洲国と日本との一体化を促す画期となった年であった。同年4月、中国の「皇帝」が歴史上初めて訪日を実現したのである(ちなみに日本の天皇が中国を初めて訪れたのは1992年10月23日のこと。たいへんセンセーショナルな出来事だった)。5月2日、溥儀の来日を祝って、昭和天皇が日満不可分の詔書を煥発した。溥儀は、各省に対して「回鑾訓民詔書」(皇帝から民への告知文)の公表を記念して、国民慶祝大会を開催するように指示した。溥儀は、訪日の感想を詔書に盛り込んだが、日満親善の強調、日本的な忠孝道徳の賞賛、これらが満洲国の建国精神を表現するものであると公表した〔……〕。」
    • 「〔……〕建国神社の祭神は天照大神で、1940年に溥儀が日本を再訪した際に、お連れしたもので、これを祀ることは神道を信奉することを意味する以外何ものでもなかった。日本の皇室は、この件に関しては冷ややかであったが、溥儀の強い希望で実現したのである。帰国を果たした溥儀は、すぐさま「国体奠定ノ詔書」を発して、建国神廟を建て、天照大神を国家祭神とすることを公にした。溥儀は、関東軍を牽制するために、天照大神崇拝を通じて日本の天皇家との関係を強調しようとする考えをもっていたのである。」
  • 1940年以降の観光 戦時中の旅行の終焉は1944年3月30日 (202-203頁)
    • 「1941年5月、ジャパン・ツーリスト・ビューローは時局に呼応して東亜旅行社と改称した(43年には東亜交通社と改称)。年末に勃発した太平洋戦争によって外国からの旅客は途絶えてしまったため、翌年には、日本と中国大陸、南方と諸地域の往来に携わることになった。しかし、しだいに民間企業体としての存続は困難となり、国策事業体として鉄道省下の傘下に入り、財団法人に改組された(日本交通公社 1982)。」
    • 「1944年2月には、戦局の影響で、旅客・荷物の輸送制限が施行された。鉄道省が貼りだしたポスターには、中央に「勝ち抜く為の輸送だ!」、その両脇に「止めよ不急の旅行」「捧げよ吾等の協力」の標語が印刷されていた。輸送エネルギーである石炭を節約するためにも、必要のない旅行はやめるようにとの指示だった。じつは、日中戦争後も鉄道の旅客は増えこそすれ、減ることはなかった。たとえば、1937年を100とすると、1944年の旅客は401、貨物は180に増加していた。列車の乗車率も、多いときだと奉山線130%、安奉線150%、京図線110%にも及んでおり、列車のなかはすし詰め状態、あるいはその限度を上まわっていた。」
    • 「しかし、1944年3月30日には、決戦能力を高めるために、重要物資の輸送が最優先されることが再確認された。それを効率的にするために、満鉄や朝鮮鉄道のダイヤが改正され、2日後には、日本・満洲国・中華民国を連絡する運輸に戦時戦略措置が施された(資<4>1944・2・1、3・18、3・30)。このとき、旅客列車は大幅に制限され、日本国内では100キロ以上の旅行には警察署の証明が必要になった。世の中は戦時一色で、すべてのことに対して戦争遂行が最優先されることになった。」
  • 日本人イメージの虚像(212頁)
    • 「弘報の目標は、満洲国の住民への宣伝あるいは宣撫であり、日本人に対しては満洲国に対する認識の向上、さらに海外に対しては満洲国の承認にあった。しかし、戦局の緊迫、戦時総動員体制への傾斜のなかで、満洲国にいる日本人以外の98%以上はの現地住民は、被支配者としてだけではなく、ときには統治の対象という位置からもはずされてしまった。当時の日本人が使っていた「満人」とは、あくまで日本人イメージの中の虚像にすぎず、「満人」の社会的文化的な背景に対する考察は必要とはされなかった。〔……〕日本人が大陸満洲に描くイメージを検証すると、これがあくまで日本的な視点からのものにすぎず、現地の実情や、住民の社会文化を理解しない、あるいは気づいてもどうにもならない状況が、日本と満洲国との相互理解を阻害していたことが浮かび上がってくる。」