有山輝雄『海外観光旅行の誕生』(吉川弘文館、2002年)

  • 趣旨
    • 日露戦争後、新聞の発行部数の減少を食い止めるために創出された人為的なメディア・イベント、それが日本で初めての満韓への海外団体旅行であった。
    • 最初の地域として満韓が選ばれたのは、日露戦争により帝国にのしあがったという大きな物語追体験し、帝国意識を認識するためであった。

本文抜粋

  • 日本におけるはじめての海外団体観光旅行
    • 「…1906(明治39)年6月22日、『大阪朝日新聞』『東京朝日新聞』両紙に、「空前の壮挙(満韓巡遊船に発行)」(東朝)と題する見出しをつけ、第一面の約半分を使った大型の社告が掲載された。朝日新聞社が、ろせった丸という3800トンの汽船をまるごと借り切って、満洲(中国東北部)・韓国を巡遊観光する旅行団を組織するので、参加者を募集するというのである。」(1頁)
    • 「…明治末期には、まだ日本には旅行業者などというものは存在しなかった。最初の旅行業者ともいうべきジャパン・トラベル・ビューロー(現在の株式会社JTB)〔もと日本交通社〕の前身)の創立総会が開催されたのは、1912年(明治45年)3月12日のことで、それももっぱら外国人観光客の誘致と便宜を主たる業務とすることになっていた[……]日本人の側が海外まで大挙して観光に出かけるといったことは、ほとんど考えられもしなかったのである。そんな時期に、満洲韓国という海外への団体観光旅行を呼びかけた[……]しかも、それを言論報道活動をおこなう新聞社が企画したところが特異である。朝日新聞社は、当然のことながらそれまで満洲韓国の団体旅行の経験はまったくなかったから、かなりの冒険である」(1-2頁)
  • 世界におけるはじめての海外団体旅行
    • 「欧米でのガイド付き団体旅行の創始者は、イギリス地方都市レスターの禁酒運動家であったトマス・クックだとされている。[……]クックの旅行が成功したのは[……]雑誌を発行して博覧会と彼のツアーの人気を煽っていったことが大きいとされる。[……]メディアや宣伝によってあらかじめ観光旅行への願望と期待をつくり、大きくふくらませておくことが、大衆を旅行に誘い出す最も重要な戦術であることを十分承知していたのである。」(4頁)
  • メディアイベントとしての海外観光旅行
    • 「新聞社は、人々の好奇心を引きつける事件が自然発生的に起きるのを待つのではなく、自社で「大事件」を計画し作りだすことによって発行部数や広告収入の増加をはかってきたのである。朝日新聞の満韓巡遊船事業も、基本的には「報道され、再現されるという直接の目的のために仕組まれた」イベントの典型的事例であった。[……]日本において、観光旅行はメディアのイベントとして始まったのである。」(10頁)
  • 日論戦争による新聞の部数の上昇と戦後の減少
    • 日露戦争は、ニュースに対する需要を高め、当時の最大のメディアである新聞の部数を大きく飛躍させた。」(23頁)だが、「戦争が終わると、戦況報道や講和条約報道の熱狂と興奮の反動がやってきた。各新聞とも部数の減少に歯止めをかけるのに必死となり、しかも戦時報道に多額の投資をおこなった結果、経営的には苦しい状態に陥っていたのである。冷却・収縮してしまう読者市場のなかで、各新聞社は部数を維持し、拡大するため激しい営業競争を展開することになった。そこでは紙面改革などさまざまな手段がとられたが、なかでも戦争に代わって読者の関心をひき、興奮をつくる事件としてイベントの人工的創出が重要な経営戦略となったのである。朝日新聞社満洲韓国巡遊船の企画を最初に思いついたのは、東京朝日の経済部長格であった松山忠二郎であったとされる[……](『朝日新聞社史・明治編』500ページ)」 (27-28頁)
  • 陸軍の協力
    • 「陸軍の側も、当初は満洲韓国への修学旅行を積極的に誘致する方針を持っていたわけではなかった。[……]しかし、満韓旅行が大きな反響を起こしている状況をみて、陸軍は方針を転換し、文部省が適当と認めた中学以上の学校生徒については御用船の無償乗船などを認めることとし、文部省にも通牒した(『読売新聞』6月30日)」(34-35頁)
  • 日露戦争後の帝国意識と海外旅行
    • 「要するに、日露戦争後の帝国意識が、最初の海外観光旅行を生み出す契機となった。旅行者が目指したのが、満洲韓国であったのは、たまたまではない。満洲韓国は、日清戦争日露戦争の戦勝という歴史的記憶が埋め込まれた土地であり、同時に今や帝国日本の「皇威」の実現する土地、さらに今後日本の勢力が拡大進出すべき土地であった。満洲韓国は、帝国民にとって過去、現在、将来を貫徹する特別な物語が語られてきた土地であるからこそ、旅行すべき土地であったのである。旅行は、帝国日本の達成という物語を最前線の現地において視認する旅行と位置づけられていたのである。」(47頁)
    • 「[……]主催者・参加者ともに満洲韓国旅行を成立させる跳躍台となっているのは、日露戦争後の帝国意識であった。日本帝国の拡大を現地で視認し、現地で戦勝を追体験することが主催者のうたい文句であり、また旅行者たちの動機の一つであったのである。旅行団は、戦時に活躍した軍隊に後続する、帝国日本拡大の先兵(ママ)という意気込みであった。帝国日本の「新天地」満洲韓国を視察するという旅行の基本的枠づけが、団体旅行の軍隊意識をいっそう昂進したのである」(68頁)
  • 帝国日本の拡大の追体験という視点
    • 「旅行者たちは、あくまで、日清戦争日露戦争における日本軍の輝かしい勝利という物語によって見ているのである。歴訪した地が、史跡であり名勝であるのは、それらの地が帝国日本の拡大にとって記憶し記念すべき土地であるからである。中国、韓国の歴史にとっての史跡ではなく、帝国日本の歴史にとっての史跡なのである。[……]旅行者たちの関心は日本軍の戦跡にあり、もっぱら自らの歴史を参照した意味によって満洲韓国の各地を見ていた。したがって、現地の人々にとって重要な歴史的意味を持つ場所は、日本人旅行者からはまったく別の視点から眺められることになり、また現地の人にとって特別の意味をもたない小さな高地が、日本人旅行者のもつ物語においては日本軍激戦の二百三高地として感涙をもって見る聖地となったのである。日本人旅行者は、自らが訪れる満洲韓国の地名について、あらかじめ一定の知識をもっていたことが多かった。それを知ったのは、日清戦争日露戦争での新聞雑誌の報道によってである。[……]戦況記事や号外で満洲韓国の地名は繰りかえし繰りかえし登場していた。しかも、そこでおこなわれていた戦闘の行方に一喜一憂していただけに、その地名に特別の思い入れを抱いていたことも多かったはずである。また活字で地名を知っただけではない。日露戦争においては、写真や活動写真でそれら戦場の風景を見て、外地での戦闘に大きな想像力を働かせることも多かった。メディアの報道によって記憶し想像した土地、その場に立つだけでも、帝国日本の戦勝をあらためて感じただろうが、さらにその場で同行した海軍軍人や現地駐屯の陸軍軍人が地形を指しながら、激戦の有様を語ったのであるから、旅行者たちは、あらかじめもっていた帝国日本の拡大のイメージを現地で実感し、再確認することになったのである。」(74-75頁)
  • 帝国民としての視線の遠近法
    • 「[……]旅行者たちが「帝国民」として満洲韓国という他郷や他者を見る視線は、遠近法的視線であった。彼らの関心のほとんどは近景に向けられたが、近景にあるのは日清戦争日露戦争の戦跡である。満洲韓国の風物を、自らの枠組み、すなわち日清戦争日露戦争の激戦地・戦勝地という枠組みでのみ見ていたのである。このような枠組みからすれば、街路を往来する現地の人々、田園の風景などは、遠い遠景であるにすぎない。それらを実際には眼前にいるにしても、自分たちの世界と遠く隔たった世界としてしか見ないのである。」(85頁)
  • 大きな物語(日英同盟日露戦争の勝利によって帝国にのしあがったという物語)
    • 「メディアは、たんに旅行を宣伝する役割を果たしただけではない。メディアが果たした重要な役割は、その言説によって海外旅行に社会的・文化的意味を付与し、社会的・文化的意味をもつイベントとして形成していったことである。そこには、海外旅行を当時の社会的文化的脈絡のなかで説明する物語が形成された。その物語が、多額の費用と多くの時間を消費するへ人々の逡巡を軽減し、さらに積極的に海外に出かける意欲を喚起していく働きをしたのである。また、それによって実際に参加した者たちだけではなく、多くの新聞読者たちも、社会的文化的意味のある出来事として彼らの旅行記を読むことになったのである。明治末期における海外旅行の物語は、日本が欧米に追いつき世界の一流国、帝国にのしあがるという大きな物語の一環であった。日英同盟日露戦争の勝利によって帝国にのしあがったという物語が、それまで欧米観光客から見られる客体であった日本人を見る主体へと転換させ、観光するまなざしを社会的に形成させた。最初の海外団体旅行である満韓巡遊船は、帝国日本の達成を最前線において実見する旅行として構成されていたのである。旅行者たちが満洲韓国を見る眼は、自国の栄光の戦跡に焦点をあてて眺め、満洲韓国の人々は遠い風景の一部としてしか見ない遠近法としての自己満足的な帝国のまなざしであった」(p.224)