雑録

小牟田哲彦『大日本帝国の海外鉄道』(東京堂出版、2015年)

  • 趣旨
    • 日本が植民地とした台湾、朝鮮、関東州、満洲樺太、南洋において敷設した鉄道関係を紹介した書籍。ここではその中から、観光に関するものを抜粋した

以下、本文抜粋

満洲プロパガンダ
  • 満洲への旅行熱
    • 日露戦争に勝利し、ポーツマス条約によって満鉄とその附属地(満鉄附属地)の権益をロシアから譲り受けて以来、満洲へ足を運ぶ日本人旅行者は徐々に増えていった。「視察旅行」と称して朝鮮や満洲を周遊する団体旅行が明治末期から盛んに実施され、日本政府も内地の学生・生徒が修学旅行で大陸を訪れる際にさまざまな便宜を図った。満鉄や新聞社は、著名な作家を現地へ招待旅行に誘い出し、旅行記を書かせた。そうした見聞が内地へと伝えられ、さらに旅行熱が増幅されていった。」(182頁)
  • 国語教科書と満洲認識
    • 「満鉄が技術面、サービス面ともにその叡智を結集して生みだしたこの最新鋭特急は、昭和12年(1937)には「『あじあ』に乗りて」という作品になって国語の国定教科書(小学5年生用)に登場するなど、日本全国にその列車名が知れ渡っていた。」(272頁)
観光資源
  • 満洲における観光対象地と鉄道
    • 「明治・大正年間に満鉄や内地の鉄道院(後の鉄道省国鉄。現JRグループの前身)が編纂・刊行した満洲方面の旅行ガイドブックを開くと[……]鉄道路線ごとに章立てをして、各章ではその停車駅もしくは主要駅ごとに駅周辺の見どころや宿泊施設等を列挙するスタイルで編集されている。この方式は昭和以降の『旅程や費用概算』にも受け継がれていて、満洲をはじめとする外地のページは、同じ書籍の内地のページに比べると鉄道路線別案内の性格が強い。これは、内地にもまして、満洲方面では鉄道の利用が観光旅行の大前提となっていて、鉄道沿線から離れた場所は観光対象地として未開発であるケースが多いことを強く示唆しているといえよう。」(182-183頁)
  • 戦跡 旅順
    • 「関東州の観光名所といえば各地に散在する日露戦争の戦跡地で、特に旅順は、戦跡巡り観光を望む旅行者向けのサービスが充実していた。大連駅では日曜・祝祭日に旅順駅までの往復割引乗車券を販売し、旅順駅では白玉山表忠塔の内部入場許可証を駅長が無料で発行しており、戦跡巡りのための馬車や説明ガイドの雇入れの相談にも応じてくれた。駅前に開設されている満洲戦跡保存会の案内所でも、案内人よる無料の説明を受けることができた。駅前には、戦跡巡りの観光バスも頻繁に発着していて、観光ガイド付きで貸し切ることも可能だった。」(168頁)
  • 満洲と戦跡と聖地巡礼
    • 満洲における日本の特殊権益を獲得する原因となった日露戦争の戦跡が明治末期から大正年間にかけて各地で観光名所化され、日本人の団体旅行ツアーは聖地巡礼のごとくこれらの史跡を訪ねるものが多い[……]遠い満洲まで出かけて日露戦争の戦跡を訪ね歩くことは、単なる物見遊山ではなくて大日本帝国の発展の礎を偲ぶ有意義な社会勉強としての性格を持ち合わせていたということができる。満洲国が建国された後は、昭和6年(1931)に勃発した満洲事変の史跡も「新戦跡」として、観光客を迎え入れるようになっていった。」(183頁)
  • 満洲における温泉
    • 「戦跡以外では、温泉地のリゾート開発も日本人の手によって進められていた。満鉄本線(現・中国国鉄瀋大線)の沿線に湧く熊岳城温泉と湯崗子温泉、それに満鉄安奉線(現・中国国鉄瀋丹線)の安東(現・丹東)から近い五龍背温泉は満洲三大温泉と称され、保養施設が整えられ、満鉄は最寄り駅に急行列車を停車させたり旅館を直営したり割引切符を発売したりして、集客に一役買っていた。」(183頁)
  • 観光資源としての都市
    • 「[……]満鉄その他の鉄道駅を中心とする都市そのものが観光地となっているケースが多いのは、自然探勝型の行楽地も少なくない朝鮮とは対照的だ。満洲における日本の権益があくまでもロシアから受け継いだ満鉄とその附属地に限られていて、満洲全体が日本の勢力下にあったわけではないからである。満洲国が建国されてもその事情が劇的に変化したわけではなく、都市部から遠く離れた原野や密林、山岳地帯には、馬賊と呼ばれるゲリラ集団が跳梁跋扈していて、呑気にハイキングを楽しめる環境とは程遠い地方が少なくなかった。それに、満鉄の主要駅がある街そのものが、日本人にとっては異国情緒溢れる観光地でもあった。日露戦争以前からロシア革命の頃までロシアの権益地であったハルビンはその代表例で、昭和以降も街並み全体に強いロシア情緒が感じられた。一方、清王朝時代に首都あるいは副都として重視され続けていた奉天(現・瀋陽)には、中華風の城塞都市としての風情が漂う。日本人が内地の地方都市を凌ぐ近代都市として急速に整備が進んだ満洲国建国後の新京(現・長春)も含めて、満鉄沿線の主要都市はそれぞれに、内地からの旅行者の目を見張らせる観光的魅力を持っていた。」(185頁)
  • 満洲においてJTBが置かれた都市
    • 「[……]各都市にはJTBの案内所が開設され、鉄道乗車券の手配、宿泊旅館の斡旋といった旅行サービスが日本語で受けられた。昭和13年(1938)4月時点では、奉天、四平街(現・四平)、新京、吉林、図們、営口、撫順、鞍山、ハルビン、牡丹江、佳木斯、チチハル満洲里、錦県(現・錦州)、承徳の各地に案内所があり、その多くは駅前に位置していた。ハルビン奉天JTB案内所は満鉄直営のヤマトホテルの中にオープンしていた」(185頁)
  • ヤマトホテル
    • 「ヤマトホテルは、満鉄が自ら運営していた純洋風の高級ホテルである。満鉄附属地内の宿泊施設は和室中心の日本旅館が多数を占めるなかで、格式ある洋室を備えた各地のヤマトホテル、シベリア鉄道を経由してアジアへやって来た欧米人旅行者に好評を博した。概観もルネサンス様式からアール・ヌーヴォー様式など、荘厳な雰囲気を醸し出す建物が多い。ハルビン奉天以外では、長春(新京)や関東州の大連、旅順などで営業している。宿泊しなくとも、館内にあるレストランで食事だけ楽しむこともできた。」(185頁)
  • 特急「あじあ」
    • 満洲の鉄道そのものを語るうえで、「あじあ」の存在を抜きにすることはできない。昭和9年(1934)に登場して昭和18年(1934)に運休となるまで、運転期間はわずか8年4ヵ月だけだったにもかかわらず、日本が台湾や朝鮮、満洲など外地で走らせた鉄道全体の象徴と見られるほど、「あじあ」の存在感は突出している。」(266頁)
    • [……]「あじあ」は、類例のない超高速列車として世界中から注目を集めた。この高速運転を可能にした要因の一つが、流線型と呼ばれる車両のスタイルだ。「Stream Line を訳した言葉で、高速運転による空気抵抗を減らすため、先頭の蒸気機関車に外覆を取り付けている。「パシナ」と命名されたブルーの機関車は、将来は最高時速140キロまで出すことを想定して設計されている。後方に連結される淡緑色の各客車も、風圧除去のため丸みを帯びたスタイルで設計されている」(268頁)
  • 白系ロシア人ブロンド少女
    • 「[……]白系ロシア人若い女性がウェイトレスとして食堂車に乗務し、異国情緒を感じさせる「あじあ」ならではの接客風景として人気を集めたのも、同じくハルビン延長時からだ。白系ロシア人とは、ロシア革命によって国外に亡命・脱出した旧帝政ロシアの国民のこと。「白」は革命勢力が標榜する共産主義の赤色に対する意味であって、白色人種かどうかは関係ない。だが実際には、公募によって高倍率の選考をくぐり抜けた10代後半から20代前半の金髪の少女たちが、ヤマトホテルで訓練された日本語や日本流のスタイルで給仕を担当していた。」(272頁)
航空
  • 航空路(1) 満洲航空
    • 「[……]満洲では昭和7年(1932)に設立された満洲航空が国内路線網を年々拡大しており、主要都市間はもとより満ソ国境の満洲里や黒河など、辺境の都市にも旅客便が飛んでいた。これらの便は、馬賊や匪賊が出没しやすく治安に問題がある地方に点在している都市との交通の便を確保するうえで、時には陸上を走る鉄道より重要な意味を持つこともあった。」(189頁)
    • 「[……]奉天長春(新京)、安東、鞍山など満鉄沿線に設けられている附属地内の主要都市は安全でも、その他の広大な満洲の大半の地域は満洲国の成立前後を問わず治安が安定していない。このため、昭和に入ると、広大な原野に点在する日本人の入植都市へダイレクトにアクセスできる満洲航空の定期航空便が、陸上を走る鉄道よりも安全な交通手段として重要な意義を持つようになった。」(197頁)
  • 航空路(2) 大日本航空会社
    • 「[……]昭和以降、定期旅客航空郵便が内地や関東州、朝鮮、それに中華民国との間に次々と開かれ、旅行時間の大幅な短縮を可能にした。内地からは、大日本航空会社が東京の羽田飛行場から福岡、朝鮮の京城経由で奉天、新京へ直行できる毎日運航の急行便を昭和15年に開設。「日満空の特急便」と呼ばれるこの便は、東京を朝6時に出てその日の午後3時10分に奉天へ、午後4時35分には新京に到達する。東京〜新京間の所要時間は10時間35分。運賃は1700円で、朝鮮の安東経由で鉄道と船を利用した場合の三等運賃の約4.5倍に相当する。朝鮮の京城(現・ソウル)、関東州の大連、中華民国の北京、天津、張家口などへは、奉天に本社を置く満洲航空が国際便を開設していた。[……]特筆すべきは自社で、満航式MT−1型というオリジナル機を開発・製造して定期便に就航させていたことで、航空会社が航空機を自ら製造する例は航空史上、他にほとんど例を見ない。」(204頁)
自動車
  • 自動車交通
    • 「乗合自動車(バス)の路線網も充実していた[……]『満洲支那記者時間表』には、鉄道総局が直営する中・長距離のバス路線が多数掲載されていて、鉄道が及ばない奥地への交通に欠かせない存在となっている路線もあった。」(189頁)
航路
  • 大連航路 
    • 「大連航路は神戸から門司経由で大連まで3泊4日の航路で、大阪商船会社の5千トン級から8千トン級の大型旅客船が最盛期には10隻、ほぼ毎日往来していた。[……]大連では昭和9年(1934)に登場した特急「あじあ」にスムーズに乗り換えられるように、船の到着時刻に合わせて大連埠頭の船客待合所から大連駅まで無料の連絡バスが運行されていた。これを利用して「あじあ」に乗れば、その日の夕方には満洲国の首都・新京(現・長春)へ、昭和10年(1935)のハルビン延伸以降はその日の夜にハルビンまで到達できるようになった。」(199頁)
  • 関釜連絡船
    • 朝鮮半島経由のメインルートは、下関から関釜連絡船で釜山へ渡り、京釜本線(現・韓国鉄京釜線)・京義本線(現・韓国鉄京義線北朝鮮国鉄平釜線および平義線)を北上して、新義州で朝鮮から出国し、鴨緑江を渡って安東(現・丹東)から入国するコースだ。釜山からは明治45年(1912)から長春行の鮮満直通急行が通行されており、昭和以降は「ひかり」「のぞみ」と命名された国際急行が昼夜に分れて新京まで直通するようになった。」(199-200頁)
  • 北鮮航路 新潟
    • 朝鮮半島を経由する大陸直通コースは、昭和に入ってから伝統的な安東経由に加えて、日本海を船で横断する朝鮮北部経由、いわゆる北鮮航路が急速に脚光を浴びるようになった。特に、昭和8年(1933)に北部朝鮮の南陽豆満江を挟んだ対岸の図們を結ぶ図們橋が開通し、羅津〜新京間を直通する国際急行「あさひ」が運行されるようになると、この北鮮コースは満洲国の首都への最短ルートとして重視された。[……]『汽車時間表』の昭和15年10月号の巻頭にある国際連絡時刻欄によれば、上野から朝8時の急行に乗って午後に新潟で下車し、昭和8年(1933)に開設された嶋谷汽船(昭和11年からは北日本汽船と共同出資して設立された日本海汽船が航路を継承)の大型船に乗り換えると、翌々日の朝6時に羅津へ着く。ここで9時発の急行「あさひ」に乗り継ぐと、昼過ぎに図們の国境を越えて同日中の22時50分に新京に到着できた。上野から2泊3日の行程は、東京から釜山経由で行く場合とほとんど変わらない。」(201-202頁)
  • 北鮮航路 敦賀
    • 福井県敦賀港には、新潟発着便の開設前から羅津・清津行きの北鮮航路が発着していた。同港から日本海汽船に乗る場合は、船の出港日にあわせて、東京から東海道本線米原経由で北陸本線敦賀港まで直通する寝台車が増結された。羅津から「あさひ」に乗り換えるのは新潟経由と同じだが、東京発が夜になる関係で、新京までは3泊4日の行程になった」(202頁)
満洲の鉄道名所
  • 満洲五大停車場」
    • 「[……]古くから城塞都市として栄え、朝鮮半島へ向かう安奉線(現・中国国鉄瀋丹線)や北京方面への路線が離合集散する交通の要衝でもある奉天(現・瀋陽)、東清鉄道と接続する北満の長春、そして撫順炭鉱を間近に控える撫順[……]この3駅は、いずれもその存在の重要性ゆえに満鉄が特に重視し、関東州にある大連、旅順の両駅を含めて「満洲五大停車場」と称された。」(286頁)
  • ハルビン 伊藤博文暗殺
    • 明治42年(1909)10月26日、ロシアの蔵相との非公式会談のためハルビン駅に到着した枢密院議長の伊藤博文(元・韓国統監)は、ロシアが運営する東清鉄道の特別列車からホームに降り立ち、ロシア側の出迎えを受けていたところで発砲を受け、銃弾3発を浴びて絶命した。このときのホーム上の暗殺地点には、後に「伊藤公遭難地点」を示すはめ込み式のプレートが設置され、大人の腰の高さほどの柵で囲われて、ハルビン駅を訪れた旅行者の誰もが一目で分かるようになった。昭和10年(1935)に東清鉄道がソ連から満洲国へ売却されてハルビン駅の管理権が満鉄へ移った直後には、このホーム上の遭難地点に祭壇を設けて神式の接収報告式が挙行されている。駅舎内には伊藤の銅像も設置されており、初代内閣総理大臣を務めた明治の元勲が凶弾に倒れた悲劇の現場であることを物語っていた。」(288-289頁)
  • 奉天 張作霖爆殺事件
    • 昭和3年(1928)6月4日早朝、奉天軍閥を率いる張作霖を乗せた特別列車が、奉天付近の皇姑屯にある満鉄連長線(現・中国国鉄京哈線)との立体交差地点にさしかかった。そのとき、列車が突然爆破されて大破炎上し、張作霖はまもなく死亡した。[……]事件現場は赤煉瓦駅舎がそびえ立つ奉天駅の北方約2キロの場所にある。奉天から長春方面行きの列車に乗ると、出発後まもなく、車窓左手から現れた線路が足元の橋梁をくぐって立体交差する。そこが事件現場だ。事件発生の直後から、メチャメチャに破壊された貴賓車や復旧後の現場写真に、張作霖の死を悼む日本語と英語のキャプションを付けた絵はがきが土産物として市販されるなど、あたかも観光名所のような扱いをされている。」(290-291頁)
  • 奉天 満洲事変
    • 昭和6年(1931)9月18日夜、奉天駅の北方7・8キロ付近の柳条湖で、満鉄連長線の線路が爆破された。関東軍はこれを張学良率いる中国東北軍による犯行と発表したが、実際には関東軍自身が中国軍の犯行に見せかけて起こした謀略事件であった[……]事件後、関東軍は事件現場の線路際に「昭和六年九月十八日支那兵線路爆破地点」と漢字で記した標柱を建てている。さらに、昭和13年(1938)には線路からやや離れた空き地を整備して「爆破地點」と台座に刻んだモニュメントを建立。その背後にも「爆破地點」と大書した立看板が設置されており、奉天から北へ向かう列車に乗って車窓右手を見れば誰でも一目で事件現場とわかるようになっていた。昭和13年に満鉄が刊行した『簡易満洲案内記』も、奉天を出た列車の車窓から、線路のそばに「柳条湖爆破記念碑」が立っているのが見えると明記している。」(295-296頁)