細谷千尋『両大戦間期の日本外交』(岩波書店、1988) 第一章「二一ヵ条要求とアメリカの対応」(pp.19-45)

まえがき(pp.19-20)

  • 概要
    • 一九一五年の「二十一ヵ条要求」に対応してとられた、アメリカ政府の政策についての研究。
  • 論点
    • 中国政府から支援の多大の期待を寄せられたアメリカ政府が「二十一ヵ条要求」をめぐる日中交渉にどのような対応を示すか。
  • 目的
    • 1.先行研究批判
      • 【従来】アメリカ政府の対応は一貫して同一の基本的立場を取り、一九一五年三月一三日付の対日ノートと五月一一日付の対日ノートは、いずれも同じ性格を持つものと把握されていた。
      • 【著者の見解】上記の二つの文書は異なった意義で解釈でき、アメリカの政策は中途で転換したが、転換の過程と背景を解明する。
    • 2.アメリカと日中両国の交互作用の解明
      • 同時にアメリカ政府の態度が日中両国の政策決定過程に及ぼした作用と、さらにこの作用に影響された両国政府の態度が逆にアメリカの政策決定過程に反作用していく、交互作用の構造を解明する。

一 ブライアンと妥協の模索(pp.20-26)

  • 中国のストラテジー
    • 中国に利害関係をもつ列強とくにアメリカの干渉を誘致して、その力をかりて日本政府の意図を挫折せしめんとする。
  • 日本の対応
    • 最初は沈黙するが、二月八日、アメリカに「第五号」を省き公式通告。二月二一日に加藤高明外相が「第五号」の存在を明らかにする。 →アメリカは行動選択の必要性を意識。
  • アメリカの介入 三月十三日付の対日ノート → 一種の居中調停案
    • 日中両国を互譲の精神で妥協せしめんとする。
      • 「第五号」の≪要望≫について、第一・三・四・六条を承服しがたいとする。
      • 山東南満州および東部内蒙古に対する日本に≪要求≫に対しては、反対しない。
  • 三月十三日のノートの歴史的意義
    • アメリカ政府が、南満州、東部内蒙古に対する日本の「特殊関係」を承認
      • アメリカの極東政策の変更・後退を意味するとともに、これら地域に排他的支配権を樹立せんとする日本の帝国主義的計画が一段階前進したことを意味した。

二 ウィルスンと原則の重視(pp.27-36)

  • ウィルスンの外交政策
    • 普遍的道義の実現、あるいは法的規範の擁護でなければならず、極東政策の場合、道義と法は、中国の主権擁護、領土保全、門戸開放原則と機会均等主義の維持として、より具体的に描かれていた。
  • アメリカの外交転換 ブライアンからウィルスンへ
    • 日中両国政府の外交・宣伝活動が生んだ作用の結果として、極東政策の決定過程におけるリーダーシップがブライアンからウィルスンへ移行する。
      • →四月十四日におけるウィルスンからブライアンへの二つの指示(pp.30-31),四月一六日における伝達(p.31)
      • 宥和政策のブライアン・ラインと反宥和のウィルスン・ラインが分裂。居中調停の和解から中国支持へ。

 

  • 「第五号の削除」
    • 五月三日、最後通牒の手段に訴えて「二十一ヵ条要求」を貫徹すべき旨の閣議決定を行うが・・・
      • 1.元老の反対:山県有朋をはじめとする元老より強い異議。五月四日の政府・元老合同会議において、元老は≪要望≫であるべき「第五号」をも含め「二一ヵ条要求」全体を最後通牒形式とする点に反対の意向を示す。
      • 2.イギリスの反対:グレイ外相から日本の過激行動へのイギリス政府の反対を明らかにした通告。
      • 3.ワシントンにおける「悪質な企図」の情報 →のちに四国共同干渉の計画だと判明(※英仏露の拒否により共同干渉計画は失敗に終わる)
    • 五月四日、閣議は「第五号」を削除して他の要求のみを最後通牒として通告することを決定、七日に通告。

 

  • 中国側の対応
    • 中国政府内部の見解は二つに分裂し、軍部の強硬分子は抗戦を唱えるが、大勢は武力衝突回避
      • ←国際情勢が強く作用 ?英仏露は武力抵抗不可を説く(特に英の強い受諾勧告) ?米の援助は予測困難
    • ・五月九日、中国政府は最後通牒受諾を通告。二五日、条約ならびに交換公文の調印を完了。
  • 交渉妥結後のブライアンとウィルスンの異なる対応
    • ブライアン
      • →大隈と袁世凱に武力衝突回避と交渉の平和的解決を訴えていたため結果に満足。
    • ウィルスン
      • →交渉妥結にもかかわらず、三月一三日のノートの与えた印象を打ち消し、日本の大陸における今後の 膨張活動に対し、アメリカ政府のとるべき態度について、誤りない情報を日本政府にあたえておくことが必要であると判断。
      • →五月一一日付の対日ノート:ウィルソンはアメリカの極東政策が対日宥和的方針から離脱したことを対外的に表明した。

むすび(pp.36-37)

  • 結論
    • 1.アメリカの極東政策が、四月中旬を契機に、対日宥和政策から強硬へと転換し、この過程においてウィルスンが決定的役割を演じたこと。
    • 2.二つの対日ノートは、それぞれ宥和と強硬の政策を表現し、基本的性格を異にするものである。

 

  • アメリカの戦前の対日政策一般は、振れ幅をもった動揺
    • 【宥和】一九一七年の石井ランシング協定 → 第一のノートのラインを再確認
    • 【強硬】一次大戦終結後から。満州事変が起こると、スティムソン・ドクトリンとなる。スティムソン・ドクトリンは第二の対日ノートを原型として形成された、ウィルスン・ラインの発展形。