鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』(東京大学出版会、2011) 第一章「統帥権独立の伝統の崩壊」(9-56頁)

  • 第一章で明らかになった事
    • 兼任性は、統帥権独立・陸海並立という二つの旧弊を緩和する試みであった。
    • 陸海軍間の問題と統帥部・内閣間の問題については、昭和天皇の意向が、結果的にその政治的落着点を左右した。
    • 軍事的外圧は、軍事的均衡が崩れ始める段階において、軍事面においては軍事制度改革運動を生み出し、経済面においては架空の数字を生み出した。

以下、参考になったところ抜き書き

  • 開戦前時点での勝利条件
    • 「〔……〕独伊と三国同盟・単独不講和条約を締結し、ドイツの不敗を前提にして戦争を始めていたのである。開戦前の大本営政府連絡会議では、「独伊と提携して先づ英の屈服を図り米の継戦意志を喪失せしむる」とされている。その戦争終結構想は、ドイツの力でイギリスを打倒し、米国との引き分けをねらうというものであった。」(12頁)
  • 戦争目的の再定義と「大東亜宣言」(11月6日)
    • 「〔……〕ドイツ不敗の前提が崩れ、9月3日にイタリアが脱落すると、日本は、英米の戦争目的をふまえて、自国の戦争目的を再定義した。すなわち「大東亜宣言」(11月6日)を発表して、英米大西洋憲章と相通じる、民族の独立自主や平等互恵の原則を掲げた。これはアジア各国の対日協力を取りつけるためだけではなく、日本が戦争に負けた場合でも、戦争目的だけは達成した形になることをねらったものと言われている。敵国と似通った戦争目的を掲げることは、対外的には外交交渉の余地を生み出すとともに、国内的には戦争目的の達成を終戦の口実とすることができた。」(12-13頁)
  • 海軍の艦隊決戦思想とラバウル確保の理由
    • 日本海軍は、マーシャル・ギルバート方面での艦隊決戦を計画し、日本に有利な戦場である同方面で艦隊決戦を行えば、必ず米海軍に壊滅的打撃を与えることができると考え、多数の航空母艦と戦艦を温存していた。そして、その艦隊決戦のためには連合艦隊ラバウルの後方にあるトラックにいる必要があった。ラバウルが陥落すれば連合艦隊はトラックにいられなくなり、艦隊決戦もできなくなるため、連合艦隊はどうしてもラバウルを出来るだけ長く確保したかったのである。」(15頁)
  • 第一航空戦隊の消耗とタラワ・マキンの守備隊の見殺し
    • 「海軍の連合艦隊も、11月5日から、絶対国防圏の圏外にあるブーゲンビル島上空に、第一航空戦隊の母艦機を投入した(「ろ」号作戦)」。〔……〕連合艦隊はマーシャル・ギルバート方面での艦隊決戦に備えて航空母艦の航空兵力を温存していたが、〔……〕第17師団の派遣問題の際に、軍令部が参謀本部に対し、交渉の切り札として第一航空戦隊の母艦機の投入を提示していたという経緯があった。軍令部に勤務していた弟宮の高松宮は「之デ如何ニヨク見テモ明年二月マデハ整備訓練ヲナシ得ザルベシ。カクテ南東方面デ徒ラ二飛行機ヲスリツブシテシマウコトニナル」と貴重な母艦機の消耗を憂慮していた。不幸にも高松宮の予感は的中する。このブーゲンビル島沖航空戦の失敗は、日本海軍の機動部隊を一時的に無力化した。11月21日、米海軍がギルバート諸島のタラワ・マキンに侵攻した際、日本海軍は母艦機の不足を理由に艦隊決戦をすることができず、タラワ・マキンの守備隊を見殺しにするほかなかったのである。」(23頁)
  • 第二航空戦隊の消耗とマーシャル諸島見殺し
    • 「1944年1月21日、連合艦隊は、マーシャル方面での艦隊決戦に備えて温存していた第二航空戦隊をラバウル方面に投入する。〔……〕ブーゲンビル島沖航空戦で第一航空戦隊を消耗し、第二航空戦隊もラバウルに投入したことで、マーシャル方面での艦隊決戦は不可能となった。1月24日、連合艦隊は、主力艦隊をトラックから後退させることを決意した。1月30日、米機動部隊は、マーシャル諸島に来襲した。軍令部と連合艦隊は、反撃するための母艦航空兵力をもはや持たなかったため、マーシャル諸島の守備隊を見殺しにするしかなかった。昭和天皇はこの方針に不満であった。昭和天皇から永野総長に対し、「「マーシャル」ハ日本ノ領土ナレバ之ヲトラレテホツテオクコトハ如何」と「オ叱リ」があった。」(30-31頁)
  • 昭和天皇の政治介入1 航空機配分問題論争
    • 「航空機の配分問題論争に重要な役割を果たしたのは昭和天皇であった。〔……〕昭和天皇は対外的な影響を理由に、内閣更迭を回避するよう要求したのであった。この発言が、海軍首脳部の東条に対する態度に決定的な影響を与える。海軍側は内閣不一致による内閣総辞職を避けなかければならず、それは東条首相件陸相に妥協せざるを得ないことを意味した。前日までの陸軍と海軍の主張は完全に釣り合っていたが、昭和天皇が政治決定の枠組みを決めたことで、両者のバランスは微妙に変化した。〔……〕その結論は、航空機の原料である21万5000トンのアルミニウムを陸海軍で均等に分配し、陸軍から海軍にわずか3500トンのアルミニウムを譲るというものであった。その結果、大型機の多い海軍機の機数(2万5130機)は、陸軍機の機数(2万7120機)を下回ったのである。つまり、陸軍機が海軍機を上回ったのである。この数字は太平洋上で苦戦している連合艦隊や前線の海軍将兵にとっては、到底受け入れられるものではなかった。」(34-35頁)
  • トラック基地壊滅
    • 「2月17日、米軍はラバウルの後方にあるトラックを奇襲攻撃し、トラック基地を壊滅させた。その損害は、沈没艦船40数隻、飛行機損耗270隻、輸送船2隻、海没約1100名という膨大なものであり、陸海首脳部は顔色を失った。特に、民需用の船腹が200万トンに満たない中、20万トン以上の船腹を喪失したことは、日本の軍需生産にとって大打撃であった。軍事的にも、トラック基地が壊滅したことで、連合艦隊は、トラックの前方にラバウルから全航空兵力を引き揚げざるを得ない状況におかれた。」(36頁)
  • 昭和天皇の政治介入2 東条の陸軍大臣と陸軍参謀総長の兼任支持
    • 「陸軍上層部は、兼任を断行しようとする東条陸相と、兼任に反対する杉山参謀総長、山田教育総監との間で意見が割れた。だが、東条は事前に昭和天皇と木戸内大臣に対する宮中工作をすませていたため、「陛下は私の気持ちは既にご承知である」と昭和天皇の指示をほのめかして二人の反対を押し切った。東条は、この後すぐに参内し、午後9時、陸軍最高人事についての内奏をすませ、昭和天皇の「御聴許」を得ることができた。2月21日、昭和天皇は杉山参謀総長に対し、「今御前モ言フ通リ十分気ヲツケテ非常ノ変則デハアルガ、一ツ之デ立派ニヤッテ行ク様二」と述べ、兼任を支持した。」(38頁)