ケネス・ルオフ/木村剛久訳『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(朝日新聞出版、2010年) 第1章〜3章(55-169頁)

第1章 国史ブーム

  • 「混合民族論」と帝国の統合(87頁)
    • 大川周明単一民族説を否定して、皇室を頂点とする大和民族が、先住のアイヌ民族や後世の移住者を統合して、現在の日本国民になったという考え方を強調した。日本民族について書かれた戦前の著作を再検証した歴史学者小熊英二によると、大川の考え方は「混合民族論」であって、1930年代に支配的だった単一民族論とは一線を画しているという。そして、この混合民族論は、40年に日本が支配下に置く多人種・多民族帝国に居住する様々な住民を、将来同化していく際の有効なモデルとなっていく。」
  • 国史ブームと国民の戦争協力
    • 「〔……〕帝国大学の学者たちは、こと皇国史に関するかぎり、国の代理人と見なされていた。〔……〕国の代理人となって、架空の国史に貢献するだけで事は収まりそうにない。非国家的活動主体も、とくに利益がからむときには、同じような役割を果たしている。紀元二千六百年に日本の出版業が果たした役割を考えてみるだけでも、そのことは理解できるだろう。さらに共犯の網を広げているのは国民自身である。〔……〕大人に対して、二千六百年の国史を称揚するごまんとある雑誌や本を買うよう強制する者はどこにもいなかったのである。」

第2章 大衆参加と大衆消費

  • 満洲国における皇室崇拝(105頁)
    • 「溥儀が訪日した主要目的は、昭和天皇から天照大神を祭る許可をもらうためである。昭和天皇満洲国皇帝が日本の皇祖を祭ることを許し、これによって帰国後、溥儀の宮廷でも天照大神を祭る神社がつくられることになった。日本訪問中、溥儀は7月3日午後1時24分に伊勢神宮に参拝した。この時間に合わせ、満洲国の人々は一斉に天照大神を祭る神社のある方向に一礼した。翌日、溥儀は橿原神宮神武天皇陵、畝傍山にある他の天皇陵も訪れている。こうした儀礼には、満洲国政府が7月15日に発表する声明をお膳立てするねらいがあった。この日、満洲国政府は、これから満洲国全土において天照大神を祭るという決定を下した。」
  • 満洲帝国協和青年奉仕隊(110頁)
    • 満洲帝国協和青年奉仕隊106人は、1939年10月に橿原にやってきたが、とりわけ二つの国をまたがっている状況が興味深い。奈良県の当局者と相談して同意が得られたため、青年奉仕隊のメンバーは、すべての隊に求められる儀礼に加えて、満洲国臣民であることを示す儀礼をおこなってもよいことになった。満洲帝国協和青年奉仕隊は、橿原神宮にやってきた一般的な団より、少し規模は小さかったが、多様な民族から構成されていた点がほかとちがっていた。隊の「記録」にあるように、メンバーは満洲五族から選ばれ、日本人、満洲人、朝鮮人、モンゴル人、ロシア人(満洲五族という場合はロシア人の代わりに、ずっと人口の多い中国人を入れることもある)から構成されていた。満洲国からの正式使節ということで、奉仕隊は行く先々で公式の歓迎を受けた。橿原に13日滞在というのは、ほかの隊よりずっと長い期間である。」
  • 勤労奉仕のねらい(115頁)
    • 勤労奉仕は、天皇崇拝を中心とする民間信仰を補強するためのさまざまな装置のひとつだった。政府がそれによって、さして費用をかけずに全国の皇室関連史跡の場所を整備したり拡張したりすることができたというのは、二の次の問題だったといえるだろう。」
  • 紀元二千六百年と新聞社(123-124頁)
    • 「〔……〕朝日新聞は海軍協会と組んで、1940年に小学生教師を対象に「聖地巡航会場訓練」を企画した。教師は国史に欠かせない聖地をじかに回り、生徒に責任をもってそれを教えることができるというわけである。この巡航で、内地のさまざまな地域から集まった教師には、橿原神宮神武天皇陵など最近修復されたばかりの奈良県の史跡をはじめとして、神武天皇が東征に乗り出した九州のさまざまな史跡を訪れる機会が与えられることになった。三月から四月にかけての第一回と第二回の「海上訓練」は、400人以上の教師が利用し、大阪朝日新聞はその詳報を伝えている。」
    • 京城日報社は五つの記念事業を主催していた。そのなかには朝鮮大博覧会、伊勢神宮から朝鮮神宮までの聖火継走、さらには橿原神宮参拝への小学生代表派遣などが含まれている。これに対し、満洲日々新聞社は六つの記念事業を主宰した。内地のプロ野球チームを満洲に迎えて、公式戦を展開したり、日満両国の地名講師による「二千六百年講座」を開いたりするという企画である。そのほか、小学生を対象に「あこがれの日本」という課題で、綴り方を募集する事業なども主催している。」
  • 紀元二千六百年記念展覧会と百貨店、満洲でも実施(128-129頁)
    • 「次々と百貨店を回る最初の紀元二千六百年記念展覧会は、1939年4月12日に東京の高島屋で開かれ、初日に4万人以上が訪れた。「肇国精神の発揚 − 紀元二千六百年讃展覧会」の主催者は起源二千六百年奉祝会である。高島屋と奉祝会の協力関係をみても、帝国日本で国家と民間とのあいだに線を引くことがいかに難しいかがわかる。奉祝会自体は半官半民の組織で、今回は愛国的な展覧会を企画するために企業と手を組んだのだが、高島屋にしても展覧会はじゅうぶん商売になると踏んでいた。無料の展覧会は直接収入に結びつかないにせよ、客の財布を店内に引き寄せる効果があったのである。〔……〕東京での開催が4月27日に終ると、展覧会は5月から6月にかけて高島屋の大阪店と京都店へと移り、つづいてさまざまな百貨店が京都、福岡、鹿児島、名古屋、札幌、広島、さらには朝鮮の京城、そして満洲の新京、ハルビン奉天、大連で展覧会を引き継いだ。1940年になってもつづいたこの巡回展覧会の公式入場者は440万人だった。帝国の大都市では、そのころ大きな百貨店で同じような商品が買えるようになっていただけではなく、同じ展覧会を見ることができるようになっていた。東京や大阪は開催が早かっただけである。経済史が専門の平野隆によると、39年には日本の11の百貨店が、内地だけではなく外地、さらに満洲で、70の店舗を展開していたという。これを見ても、中心部と植民地が密接に連関していたことがわかる。(Takahashi Hirano,"Retailing in urban Japan,1868-1945",Urban History 26.3(1999),387-88)」
  • 1940年1月 伊勢丹の展覧会「我等の新天地」(132-133頁)
    • 「最初の展覧会が成功を収めたのに気をよくして、紀元二千六百年奉祝会と東京の六つの百貨店は提携し、1940年1月に国家奉祝の七つの展覧会を同時開催した。〔……〕(七)「我等の新天地」(伊勢丹)〔……〕からなっている。〔……〕「我等の新天地」展のテーマは、「新天地」に向けて海外に発展していた日本の開拓精神にほかならなかった。そこでは日本の農村地帯からアジア大陸に入植することを積極的に支援していた当時の日本政府の姿勢がはっきりと示されていた。とりわけ強調されていたのは、日本人はもっと開拓精神を発揮しなければならないということである。この展覧会は伊勢丹で五階分を使って繰り広げられた。支那館(一階)、満洲館(二階)、朝鮮館(三階)、台湾・南洋館(四階)、そして本会場(七階)という構成である。本会場では英雄的先駆者のパノラマがつくられていた。17世紀のタイ日本人社会で影響力をもっていた山田長政(1590?〜1630)や、日本人で初めて樺太を探検し、地図を作成した間宮林蔵(1775〜1844)などである。当時、こうした先駆者や探検家は、国じゅうにあふれる英雄信仰の対象となっていた。展覧会は、徳川時代に日本が世界から扉を閉ざしていた見方が一面的であることを示し、近世においても海外で活躍しようとした日本人がいたことを強調していた。本会場の一部は近代にあてられ、南北アメリカ大陸や台湾、満洲、朝鮮、樺太、南方への発展に寄与した海外日本人の経済的・文化的功績が力説されていた。」

第3章 聖蹟観光

  • 観光と国民養成(137頁)
    • 「観光が重要なのは、それは戦時の日本で広がっていた忠順な消費のひとつの形態だったでけでなく、自主的な国民養成という概念の典型となっていたからである。政治体制が自由主義的であれ権威主義的であれ、世界じゅうの国民国家でおこわれる国民養成の多くは、国の圧力によってではなく、むしろ自分自身や子供たちをもっと教養ある国民ししていきたいと願う自主性から発している。史跡観光はそもそも国家が国民にそうするよう命じてなされるものではない。それは大体において自発的な行動であり、たとえば軍役でみられる命令対応型の動きとは対極にある。」
  • 鉄道省の国際観光局、役所内の観光局
    • 歴史学者の高木博志が指摘するように、鉄道省が1930年に国際観光局を設置し、外貨獲得を目指して西洋の観光客を誘致するようになってから、日本では県や市が観光部門を設けたり、半官半民の協会をつっくたりして観光の促進に努めていた。(高木博志「国際観光と札幌観光協会の成立」、田中彰編『近代日本の内と外』吉川弘文館、1999、321頁)。
  • 百貨店とジャパン・ツーリスト・ビューロー(138頁)
    • 「百貨店は消費文化の中心に位置し、それ自体観光の場でもあったが、旅行文化とも密接な関係をもっていた。ナチス・ドイツで、ベルリンのカウフハウス・デス・ウェステンスのような百貨店が旅行部門をもっていたのは事実だが、日本の百貨店が観光の促進に果たした役割はとりわけ大きかった。1940年には大きな百貨店のほとんどが、店内に日本旅行協会(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)のサービスセンターを置き、あるいは自社の旅行サービスセンターを設けていた。多少なりとも実際の旅行につながる展覧会を催すことも多く、百貨店が旅行案内書を出版することもよくあった。たとえば40年に大阪電気軌道百貨店部〔現在の近鉄百貨店〕は『肇国の聖蹟を巡る』というガイドブックを発行しているが、この本は神武天皇東征にかかわる史跡を幅広く取り上げたもので、そのいくつかが、同社の鉄道を利用して行ける場所にあった。当時、何社かの鉄道会社は、人の多く行き交うターミナル駅に百貨店を戦略的に所有していたのである。」
  • 『旅程と費用概算』(139頁)
    • 日本旅行協会は帝国全土にわたってサービスセンターを展開していただけでなく、旅行客の便宜をはかるために、多種多様な案内書を発行していた。なかでも実用的な案内は、イラスト入りの1000ページ程度のもので『旅行と費用概算』と題されていた。1940年の値段は2円50銭で、日本旅行協会のサービスセンターに行けば見ることができた。このガイドにはお勧めの場所だけではなく、帝国内(満洲や中国も)ならたいていどこでも、ここからここまで行くと、どれくらい費用がかかるかという情報がこと細かに載っていた。たとえば東京を発着点として、22日間台湾を周遊するとすれば、2等で291円、3等で187円というように、この費用で、どんな旅行ができるかもわかったのである。(ジャパン・ツーリスト・ビューロー『旅程と費用概算』博文館、1939、881-885頁)」
  • 史跡観光(143頁)
    • 「史跡観光は歴史的な場所の商品化を伴い、ある種の消費活動となる。クリスティン・セメンスがナチス・ドイツの観光を研究した際に使った言葉を借用すれば、それは「見るに値する何か」を維持し(あるいはつくりだし)、商売として利用するため、国と民間の関係者が一体になってまとめあげたものといってよい。そのことは九州の宮崎県を例に取れば歴然とする。二十世紀になって、宮崎県の人々は役所も民間も一体になって、中央から遠く離れた人口の少ないこの県を「肇国の聖地」と懸命に売りこみ、観光産業を発展させようとしてきたのである。」
  • 作家と観光(152-153頁)
    • 「1930年代の終わりには、日本旅行協会や、その12の支社、地方の旅行協会が文芸関係者に声をかけ、しばしば全額負担で決まった場所を旅行させ、文章や絵でその旅行記を綴らせるというのが、よく見られる手法になっていた。それまでも日本では新聞社が文学者らと契約して、本格的な紀行を書かせていた。ちなみに南満州鉄道(満鉄)は、1909年に鉄道を利用した夏目漱石(1867-1916)をはじめ、長年、著名作家が朝鮮や満洲を訪れる際のスポンサーを引き受けている。30年代後半から旅行会社や観光業界は、さらに頻繁に文芸関係者を活用して観光地の宣伝に努めるようになった。」